138億年の時間の中で☆第44話☆「逆転する」
オーストラリアの世界地図は日本のものと南北が反対なのは有名な話。大昔は天動説が当たり前だったけど今はそんな事を信じる人はだれもいない。
物事の見方が180度変わってしまうことって、人生の中でどのくらいあるんだろう?わが子との生活の中でそのような逆転現象が起こったことも面白い経験の一つです。
「常識」に則して判断をするならば、子どもより大人の方が能力が高い。「普通」で語るならば、障害者は生きづらくって、知能が低くて、時には「かわいそうな人」とみなされてしまう。
でも、ここで何度か触れてきたように、今のわたしは、そのような視点は一つあるとしたうえで、逆転した視点も持つことができました。
つまり、知的障害者はわたしたち標準知能者がもたない力があるということ。かわいそうな人々ではないと言う事。むしろ、標準知能者にとっての様々な縛りや生きづらさに対して、ヒントになるような生き方を体現してくれる人。そんなふうに見えてくるのです。
私は時計が読めるからタイパに縛られている。通勤電車1本のがしただけで、早く着けばその分仕事を片付けられたのにって思っちゃう。遅刻になるわけじゃないのに。私はお金の価値と数字が理解できるからコスパ感覚に侵され、損得勘定が得意になってしまった。挑戦したい事があるのにかかるコストにたいするリターンを考えちゃう。
誰かと比べることができる能力があるから、些細な事で自分はダメだなんて判断して落ち込む。言葉が使えるから、誤解をうんだり、誰かを傷つけてしまう。空気なんか読めるから、言いたい事も言えなかったり、流行り流されて後悔している。商業的広告は長男には全く歯が立ちません。考えられるから、シンプルな事象にいちいち意味をつけて物事をややこしくしている。もめごとがあるとあの人が悪いだの、わたしは被害者だの何だのって。
その結果の行きつくところの最悪な問題が地球環境汚染や格差社会、武器の開発に戦争。発想が飛躍していることは承知しているけど、あながち間違っていないのでは。
なんと。この世界は様々は先人の努力の知識が集まってできているのに、それを人類全体の幸せの為に扱いこなすには、まだまだ知恵が足りていないのではないか??息子たちやよるあーちに来る障害者たちと過ごすうちに、そんな考えが明確なものになりつつあります。
だからといって、知的障害者、健常者、秀才天才と呼ばれる人々、だれが立派でだれが劣っているという単純な話ではありません。人類が様々は病気や飢餓を克服してきたのは(一部の地域や国ではまだだけど)、知識の集結があってこそ。法律も制度も科学技術も、全部、現在の私たちに様々な恩恵をもたらしてくれているのも事実。
きっと、誰もがそれぞれ役割がある。生まれきた以上は。一つ一つの命と生き方を尊重できていれば、物事はもっと上手くいくのでは?
子どもが一番うまく生きられていて大人になるにつれその能力を失っている気がする、というのは友人の言葉。
知能が高く、何事も要領よくこなすわりには器用貧乏な夫は、何があるわけでもないのにニコニコしている長男を見て「俺はあいつになりたい」なんて言ってる。いろんな場所で、逆転現象は起こっている。