Twitterの複垢に思うこと
2004年の6月に長崎県の佐世保市の小学校で6年生の女の子が同級生の女の子をカッターで切りつけて死なせる事件が発生した。
ネットでNEVADAと呼ばれた女の子がいたよね。
学習ルームと呼ばれる部屋に呼び出して首を切りつけて死亡させたという事件。この二人の子がウェブサイトを持っていたっていうことも世間に衝撃を与えました。
当時ブログがはやり始める前ですかね、個人サイトで趣味だったり特定のカテゴリについてサイト運営していたが多かった。
某少年向け雑誌の出版社のHPに個人サイトの相互リンクを募ったりしていた時期だったかな、事件はその3年後に起きた気がする。
そこで悪口書き込まれたということが直接の動機だったと言われています。
加害者の女の子は映画のバトルロワイヤルのビデオを何度も見ていたというお話が取り沙汰されておりました。この事件の影響により続編映画が発売延期を余儀なくされることになりましたが、映像作品はとばっちりですね。
3年後の2007年に学校裏サイトが話題となりましてはいじめの温床として話題に上がりましたが、それは掲示板の書き込み内容が発端で自殺や暴力事件が相次いで発生したということです。
ネットの存在は世界を広げることもできる反面、狭い世界に落とし込むこともできてしまうようなツールであり、ネットいじめによってコミュニティの奈落に落とす事件と、出会い系によって視野というか自分のキャパ以上に世界を広げて失敗してしまう。
両方の意味でネット事件化し、被害が表面化というか顕在化する。
ネットの書き込みとか、このnoteもそうですけど、半永久的に残るんですよね。
実際の人間関係やネットの人間関係をリセットされても精神的には逃げられないという錯覚にも陥りがちですこれは子供にも大人にも言えます。
『ツイッターとかで複数アカウント作って運営している人はどっかで間違いなく精神病みますよ』って、複数アカウントを観察した人がぶっちゃけているツイート見たことありました(大意)。
6年前くらいにみた記憶があるのでソース不明確なんで要確認ですが。
Twitterの複数アカウントについては、操作する側の人間の中に、様々なキャラクターが存在というか棲んでいる。という認識でいる。
最近、この複数アカウントについて調べていたら、分人主義という方針、考え方があることを知った。
Twitterの複数アカウントのメリットは
素直なリアクションができること。
直接批判されないから卑怯に見えても自分を守るという意味では有効。
この2点である。
分人主義についてWEBで調べてみると
「子どもと接しているときの自分」も「かしこまっているときの自分」も、すべてが「自分」なんだという考え方が、「分人主義」
『私とは何か』(講談社現代新書)平野啓一郎 著 より引用
とありました。
文人主義を現実ベースのコミュニケーションに当てはめると
人によって態度を変えるマン
最近原作のデビルマンを見始めたので「これが言いたかっただけだろシリーズ」を使わせていただきました。
平たくいうと、人によって態度が変わるということは、自分のどの「分人」でコミュニケーションを取るか、それぞれ違うからです。というお話です。
まだこの本を手に取ったことがないので、読んでみることにする。