『蜜蜂と遠雷』を鑑賞した感想
はじめに
『蜜蜂と遠雷』は恩田陸による同名小説の映像化作品である。今回、原作未読であることはご了承願いたい。
空前の〈音楽コンクールブーム〉
今日、インターネット配信が盛んになったことで、音楽コンクールの知名度は急激に上昇している。これまでクラシック音楽にあまり興味関心が無かった人々も含め、多くの人々が音楽コンクールに関心を寄せるようになった。若手ピアニストを「推し」とし、「推し」を全力で応援しながら音楽コンクールを楽しむといったように、音楽コンクールをエンターテインメントとして消費する傾向も強まっているように感じる。2021年にワルシャワで行われたショパン国際ピアノコンクールも、主にインターネットを中心に、日本国内でこれまでとは比べ物にならないほどの圧倒的な盛り上がりを見せた。
そんな空前の「音楽コンクールブーム」のさなか、まさにその「コンクール」を舞台にした映画を観てみよう。同時に、今一度「コンクール」について考えてみよう。そう思い立ち、この作品を鑑賞してみることにした。
各登場人物について
①栄伝亜夜(演:松岡茉優)
群像劇風の作品ではあるが、彼女が一応の主役であると考えられる。彼女が「かつての天才」であることは、映画冒頭で浴びせられる周囲の陰口の内容からすぐにわかる。一次予選の演奏でもかつての輝きは無かったらしく、松岡茉優の自信が無さそうな表情や態度からも、ぱっとしない印象を拭えない。しかし、風間塵との連弾シーンにおいて、その印象は変わり始める。はじめは塵に引っ張られる形でドビュッシー「月の光」、やがて亜夜主導でベートーヴェン「月光ソナタ」を、二人が心の底から音楽を楽しみながら連弾するシーン。ここで観客は、「栄伝やるじゃん」と、それまで冴えない印象だった亜夜のことを見直すことになる。塵との連弾で一皮むけたかのように思えた亜夜だが、二次予選の「春と修羅」カデンツァの内容にも、やはり塵との連弾の影響があるように感じられた(左手の動きに、「月の光」と似ている部分アリ?)。松岡茉優の弾き真似は悪くない。というか、この映画はみな弾き真似が上手いと思った。音楽映画では真剣な顔で目線が鍵盤に張り付いたままの演者がよく見られ、その不自然さが気になってなかなか作品に没頭できなかったりするのだが、この映画ではほどよく頭を揺らしたり、表情を崩したり、目線を外にやったりする演技が見られ、プロのピアニストの演奏をきちんと研究したのではないかと感じた。
本選当日、地下駐車場にいたはずの亜夜は、雨音とピアノ、苔の生えた馬の像がある世界に迷い込む。映画冒頭で映し出された雨音と生き生きと動く馬がある世界は、亜夜の中に音楽が生きているときの心象風景。一方、現在の苔の生えてしまった世界は、亜夜の中で音楽が止んでしまっているときの心象風景だろうか。塵の演奏をバックに、音楽が生きていた頃を取り戻していく亜夜。ショパンの「24の前奏曲」第15曲は、よく知られたそのあだ名(「雨だれ」)の通り、聴き手に水が優しく滴り落ちる情景を容易にイメージさせる。そのため、「世界が音楽で溢れている」「音楽家が世界を鳴らすことができる」ことを示す例としてクラシックファン以外にもわかりやすく、いい選曲だと感じた。ギリギリになって舞台袖に到着した亜夜に対しての、生粋の天才である塵による「おかえり」「見つけたよ、先生」という発言からは、亜夜もまた天才なのだということがわかる。亜夜のプロコフィエフ3番は、明石、マサル、審査委員長(斉藤由貴)、気難しい指揮者・小野寺らの反応で、会心の出来だと察することができる。コンクールでできた仲間はその後の演奏活動を続けていく上でもかけがえのない友人になる、と語るピアニストは多い。亜夜の帰還を喜ぶ明石、マサル、塵も、すでにかけがえのない仲間になっていると言えるだろう。最後の打鍵では、打鍵の勢いを活かして後方へ大きく手を放る動きをしたが、演奏の中で亜夜が殻を破り、過去のトラウマを完全に吹っ切ることができたのだとその動きからわかった気がして、良かった。亜夜はステージ上でのトラウマを、ステージ上で克服したのだ。
②マサル・カルロス・レヴィ・アナトール(演:森崎ウィン)
まず、森崎ウィンの弾き真似はかなり上手い(松岡茉優よりも)と感じた。また、マサルのピアノを担当した金子といい、塵のピアノを担当した藤田真央といい、この映画は演奏者のチョイスも秀逸だと思う。
二次予選後、見事な演奏をしたにも関わらず、マサルのピアノ教師は彼にとびっきりの嫌味を言い、彼の意思を尊重する気の無いダメ出しをして去って行く。マサルが亜夜の母を今もよく慕っている原因の一端が見えた気がするのと同時に、完璧に見えるマサルにも教師に強く出られないという「疵」があるのだとわかる。
本選前の合わせではフルートの音が彼の演奏と全く合わず、「ありがとうございます。テンキュー、ストップ!」とオケを止めるマサルの中には、柔和な態度を貫くが苛立ちもあるはずだ。フルートの甲高い音とピアノの音は明らかにあってないのに、指揮者の小野寺は慇懃な態度を崩さず、マサルの演奏に合わせようとしてくれない。ホールの関係者もマサルの主張を否定し、オケ、というより小野寺に忖度しているようである。ここでも「苛立ち」や「自分の意見を強く主張できない」と言った、マサルの人間らしい「疵」が際立つ。そんな「パッとしない」印象になってしまったマサルだが、リハの後、亜夜の前で「コンポーザーピアニストになりたい」という夢を語る表情はキラキラとしていて、健気だ。観客の中で下がってしまった彼への株が、再び上昇する瞬間である。本選当日は亜夜の助けもあって自分の演奏を取り戻し、リハで引っかかっていたフルートの箇所もクリア。彼もまた、ステージ上で彼の問題を克服した。
マサルは結果として一位と聴衆賞を受賞したが、コンクールにおいて一位と聴衆賞は当然には一致しない。審査員が変われば結果も変わるであろうことも多々あるし、コンクールの結果は所詮「水物」でしかないとも言える。一方で、一位と聴衆賞を同時受賞したコンテスタントは、多くの場合「飛び抜けて素晴らしかった」と認められるのである。
③高島明石(演:松坂桃李)
サラリーマンとして勤務する傍ら、家族の協力を得てピアノ演奏を続けている。生活に根差した、素人にもわかる演奏をしたいという信念を持つ。確かに、コンクールブームが来ていると言いつつも、クラシック音楽に「難しい」「お高く留まっている」といったマイナスの印象を持つ人々はまだまだ多く、素人と愛好家の間に存在する高い壁が消えないことを嘆く音楽家も少なくない。
二次予選後にインタビューを受ける明石は、白いワイシャツに、ボウタイではない普通の青いネクタイという、完全に仕事中のサラリーマンの出で立ち。コンクールなんだからもっと華やかな恰好をすればいいのにと、余計に哀愁を誘う。私の個人的な意見としては、落選するのはストーリー上仕方ないにしても、天才と凡人の二項対立を強調しすぎたきらいがあるのではないかと思う。年齢制限ギリギリだが円熟した演奏をする人よりも、疵があっても将来性のある若者を選ぶのがコンクールの常ではある。しかし、前者のような人々がピアニスト人生を諦めなければいけないのかと言うと、そうではない。音大生じゃなくても、天才じゃなくても、それぞれの音楽で輝ける演奏家は沢山いる。時には、その音楽探求の先に、天才でさえ到達できない境地に辿り着く。幼少期から天才としての頭角を現しているようなごく一握りの非常に恵まれたDNAを持つ者だけがコンクールで勝てるのだろうという世間の認識を、この映画に変えてほしかった。演奏家として大成するのは確かに一握りだが、それはDNAの時点で決まっているわけではなく、真摯に音楽に向き合った人々がそれぞれの形で評価され(もちろん、コンクールで入選することも含む)、真の演奏家になれるのだ。それをこの映画でも表現してほしかった、明石にひと花咲かせてほしかった、というのが私の個人的な願望である。
しかし、最後の最後で明石も報われたのだとわかるシーンがある。奨励賞と、日本人作曲家賞(おそらく「春と修羅」の優秀な演奏に与えられる賞)に選ばれていたのだ。亜夜やマサルのようにステージ上でドラマチックに葛藤を克服する機会は得られなかったが、彼の妻と軽く衝突してしまったカデンツァで獲りに行った賞であるから、後者が特にめでたい。
④風間塵(演:鈴鹿央士)
一次予選では、審査委員間での風間塵に対する意見が大きく対立する。特定の出場者に対する意見が割れるのは、コンクールにおいて珍しくないエピソードであるが、このシーンだけで彼が型破りの天才ピアニストだという印象を観客に与えることができる。このシーンに限らず、周囲の反応でさりげなくその演奏のすごさを伝える、ということが上手い映画だと感じた。クラシック音楽に興味がない観客にも演奏の良し悪しをわかってもらうために、どのような演出をするか。それによって、音楽映画の出来は大きく左右されると感じる。
風間塵もといい鈴鹿央士は、演奏中のニコッとした表情がとても良い。明石の「春と修羅」を客席で聴く塵は、両手をちょこんと組んで、目をキラキラと輝かせた幼く甘い表情も。どことなく、彼の演奏を担当したピアニスト・藤田真央と重なる表情だ。「圧倒的な才能を持つ天真爛漫な天才ピアニスト」という風間塵のキャラクター性は、藤田真央を思い起こさせる。しかし、ユーモアあるジョークを飛ばしたり時折教養をのぞかせたりする藤田真央と、純真無垢で子どもっぽい塵の行動は似つかない。映画のキーパーソンとして最大限機能させるため、私たちの中にある天才像を明確に具現化させたのが、風間塵というキャラクターなのだろう。
二次予選では風間塵の「春と修羅」に、皆が引き込まれる。藤田真央の演奏は一つ一つの音が明瞭で、タッチコントロールが凄まじく精確である。演奏が下からのアングルで映されていたが、弾き真似の不自然さが目立たず、役者の魅力的な表情がよく映えて、良い手法だと思った。インタビュー中の、上目遣いで見開いた目に、にこっと口角の上がった表情が、これまた大変キュートである。大変キュートであるが、このあまりにも無垢な表情には、周囲の人々に影響を与え続ける「ギフト」としての性質や、「劇薬」というホフマン先生の表現も相まって、どこか得体のしれない恐ろしさも感じる。我々の理解を超える天才に我々は畏怖し、同時に惹かれるのだろう。
そして塵は本選でオケの並びを変えるように「あの」小野寺に依頼する。怖いもの知らず、天性の聴力と、まさに天才さが際立つシーンである。結果は三位であるが、このコンクールの中で中心にいたのは、一位のマサルでもなく、主役の亜夜でもなく、塵であろう。
その他現実とのリンク(共通点・相違点)など
・このコンクールは浜松国際ピアノコンクールという実在のコンクールをモデルにしているだろうとすぐにわかる。このコンクールで優勝した後にショパンコンクールで優勝した韓国人は、おそらくチョ・ソンンジンのことだろう(後になって壁に飾られているチョの写真が映り込む)。
・ 風間塵が木の鍵盤で練習しているということだが、このエピソードはダン・タイソン(ショパンコンクール優勝者。名ピアニストかつ名教師として知られる)の「紙鍵盤伝説」と重なる。しかしダン・タイソンが紙鍵盤で練習していたのはおそらく戦時下の防空壕でのみであるから、普通に「小説は事実より奇なり」である。
作中の曲について
作中では様々な曲が使用され、シーンを印象的に彩っていた。最もわかりやすかったのは、月夜に「月」に関連する曲を即興で連弾するすでに挙げたシーン。斉藤由貴が「実際にピアニストとして食べていける人はわずか」と語るシーンのバックでドビュッシー「夢」(または「夢想」)が流れていたのも、印象的。「ピアニストになんてなれない。そんなものは夢に過ぎない」という皮肉のようでもあるし、「それでもその夢のために努力するのだ」というひたむきな願いのようでもある。
総括
ステージ上でピアノと、あるいは自分自身と孤独に向き合い、命を燃やし、キラキラとした生命の煌めきを放つ原石たち。彼らの姿を見ると、「青春」の2文字を想起せずにはいられない。『蜜蜂と遠雷』はその青春を見事、鮮やかに描き切った。明石をもっと活躍させて、演奏家とコンクールの可能性を見せてほしかったという気持ちもあるが、音楽映画として極めて完成度の高い作品だった。演奏担当ピアニストの人選も絶妙で、原作者はもちろん、映画関係者もかなり多くの取材・調査を重ねたのだろうと思う。また、俳優の演技指導も本格的だったのだろうと予想できる。みな弾き真似が上手かったし、鈴鹿央士の演技も新人離れしているように感じた。また、CGを使ったカットやコンクール会場外の風景も美しく、曲が流れるタイミングや選曲も絶妙で、それらのどこか幻想的な演出は、肉体を使うもののどこか精神的(spiritual)な「音楽」という営みにマッチしており印象的だった。
音楽マニアにもそうでない人にも面白く感じられる、上質で希少な映画だと思う。
映画の授業
期末レポート(大2)