名前をつけて殺す
adhdって言葉あるじゃないですか。
名前をつけることって残酷だ。
名前をつけるってそれは
「定義」すること。
意味を定める。
それは何かを介してしかまともなコミュニケーションのとれない人間の世界においては、必須のことでしょう。
あれもこれも、見えないものも、感じ取れないものも、人間の世界にあるものは全部名前がついてる。
というよりは名前がついてないなら、それは存在してないのと一緒なのでしょう。だれも、そのことについてコミュニケーション、相対化することができないから。
adhdって詳しくは調べてないけど、
よく見かけるのは箇条書きで
これとこれとこれに当てはまった奴はadhd!みたいな
なんとなく当てはめちゃうわけです。自分に、誰かに。
それまでは、なにとも思っていなかった、僕の世界には存在していなかったものが当てはまっちゃうわけです。
悲しい、なのかな、そんな気持ちが生まれました。
無限の可能性から絞り込んで箇条書きにした先に、一つの名前をつけることは、なにもかもを台無しにすることなのかもしれないと思います。
名前をつけること、カテゴライズすること、共有化すること。
これは間違いなく必要なことだし、名前がつけられて世界が広がっていくことはいいことだと思う。
いい面も悪い面もある。それはずっとむかしから人間が言葉をつかって積み重ねてきた歴史。
でも、ひとつ思ったのは、言葉にして、言葉になったことをそのままとらえるんじゃなくて、その内側にあるすくい上げられていないものたちを想像することが楽しい世界を生み出してくれるんだろうってこと。
これからきっと、言葉の価値はまた別のものになっていくと思う。
いま人間は、どんどん言葉以外で世界を認識して、コミュニケーションをとれるようになっていっているから。
ありのままに近いコミュニケーションとは?なにかを表現している人たちはみんな遠からずこれを求めているのかもしれないなと
ふと思いました。
なんにせよ、
言葉にできないものをみつけて、
そのまま、
言葉にしないまま持っていたいってはなし。
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