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最近好きな言葉 「何者かになりたい」

特に意味も中身もない文章をただただつらつらと連ねていこうと思う。
無料でほぼ全文読めますが、多少面白いと思った方は応援の意味も込めて購入してくれると嬉しいです。
特に推敲もしていないので、誤字・脱字は気にしないてください。

さて、初期研修も始まり自分的にはかなりいい歳になってしまい、何がしたいのか何のために生きるのか、とんと検討がつかないわけではないけど諦めの境地に至ってしまう。
おそらくこうやって文章を書く行為自体で、まるで自分は諦観していると思い込みたいだけなのだろう。

人は誰しも誰かに評価してもらいたいものだし、承認欲求は持ち合わせているものだ。
ただただなんとなく書き始めた文章だから構成なんか考えてないし、文章量も決めていないから長いところや興味のないところは読み飛ばしてもらって、興味のあるところだけ読んでもらえれば大変嬉しいことだ。

なぜ承認欲求が人間には備わっているかを書いていくが、ただの持論であることは認識しておいていただきたい。

人間が他の動物と一番違う点は知性を持ち合わせていることだと思う。
他の動物も同じように生きているわけだが、言語を持ち、歴史を持ち、それらを利用してここまで大きい集合体で生きている生物は人間くらいのものだろう。
人間でなければ数年からせいぜい30年程度を人間より狭いコミュニティで生きたらいいだけで、しかも人間と違って小さい頃からの制限はかなり少ない。人間の場合は生まれた環境にもよるだろうが、少なくとも10年程度は何かのコミュニティで養われないと生きていけない。
昔も今も属する集団の中で価値があると思われなければ排他される可能性は高くなってしまう。その可能性を少しでも減らすために認められることが必要となり、承認欲求が生まれたのであろう。
ヒトは技術の革新により世界が文字通り広がり、属する可能性のあるコミュニティも爆増した。
昔は目に見える範囲の近くの集団でうまくやればよかったものの、時代が経つにつれどんどん目に見える範囲が広がってしまった。
そこで現代のヒトはより多くの人に認められたくなったし、自己表現の方法がかなり多様化された。
猪狩りから始まった自己アピールは、俳句を読むことや領土を奪い上の立場になることに移り変わりながら近代では本を書くようになり、今となってはyoutubeやInstagramでアピールすることになっているのだろう。
そういった点でいうと、自分は中学生の頃から本を書き、大学生になってからはブログやyoutubeをやって承認欲求を満たそうとしていたのだろう。
結果としてそれらで自分は満たされることはなかった、何も成し遂げることができなかったからなのだろうが。

僕のことを知っている人からはある程度のことを成し遂げたと言ってくれる人も、十分すごいと言ってくれる人も嬉しいことながらたくさんいる(もちろんお世辞もあるだろうが)
ただ、それは僕が話すエピソードトークが上手く盛られて見えるものであり、自分ができることと周りから見えるであろうことにはかなりの格差がある。
例えば、僕は留学に行った経験があるが、その中身としては日本の医学生が50名程度で集まってアメリカのスタンフォード大学で講義を受けたり、向こうの教育システムや医療施設でお話を聞いたり向こうの医学生と交流したりするものだった。
ここだけ切り取ればなかなかの経験かのような錯覚を与えられるかもしれないが、実際は期間としては4週間弱と短いものだったし、日常生活の英語は聞き取れなかったり上手く話すことはできなかったし、そもそもその50人の医学生の中で英語力は間違いなくドベであった。
留学というと聞こえはいいが、行って得た内容からすれば単に旅行と大差ないものであった。
よかったと思えたことは2点で、1つは今でも連絡を取り合える友人ができたことと、もう1つは海外で働くなんて絶対に嫌だと実感できたくらいだ。
この留学に行くまで、自分は研究医になり海外の研究室で働き日本に帰ってきて教授として教育と研究に携わりたいと思っていたが、そんな夢は儚く散ってしまった。
今となってはやる気も気力もない自分が、早い段階で夢が散ってしまったのは振り返ってみるとかなりいい経験だったのかもしれないと多少ポジティブに捉えることができている。

医学生・医者に関しての承認欲求について考えてみると、いわゆる臨床医を育成するための非常にいいレールに沿っているのだと思う。
医学部に行く人の大半は中学受験のために小学生の頃から勉強を頑張ること、言ってしまえばテストで点数をとることで親や周囲に褒められることで承認欲求を満たしてきた。
そのまま中高一貫校に行くことで、その価値観を持つ同級生や先輩・後輩・教師と数年間過ごし、その価値観はより強固なものにされていく。
そこでは勉強(自分の周囲に普通だと評価されやすいこと)に注視が向き、医学部に行くことがアイデンティティになる。
医学部入学後は大学生らしさを求めつつも、どこかで周囲に評価される(高評価をもらうという意味ではなく、医学生として普通だと思われる)ために部活に入り、なんの目的意識も持たず先輩の言われた通りの学生生活を送る人が大半である。
結局は多数派と同じような生活を送ることがいいことだという意識が中学生の頃から植え付けられ、そこで自分の上の人(親・教師・先輩など)に評価されることを生きがいに人生を過ごすこととなる。
医者になってもそれは同じようなことで、研修医では上の人の言うことを聞き雑用を頑張り、文句を言いながらも後期研修に進み専門医を取るという、医者として評価が得やすいルートを歩むことがアイデンティティとなるのだろう。
指導医となっても教育のことを考えている人はほとんどおらず、ふと思いついたことを話してなんとなく教えた気になっている人ばかりだ。
専門医試験だって、試験がないとどう評価されるかがわからず目標を持つことができない人たちのためのものなのだろう。
現行の専門医制度に関して異議を唱える人は多少見かけるが、結局この数年で後期研修に進む人数はほぼ変わっていない。
周りの人の言うことを聞いて評価を得ることが大事だと感じている集団は、こうやってコントロールされるされることを心のどこかで求めているのであろう。

自分も何かにコントロールされたら考えることも減るのだろうし、なんだかんだで普通に生きていけるのかなとも思うが、いかんせん一度折れた心はなかなか立ち直ってはくれない。
意識高い系(笑)であった大学2年生の頃に無理して頑張ってからは、なるべくしんどくないことだけを探し求めている。
心が折れてからは医者になるつもりは毛頭なく、試験対策以外の勉強を1秒たりともしなかったが、現在初期研修を行なっている病院を見つけ「ここでなら2年間耐えられるかもしれない」と思い医師免許を取ることにした。
結果からいうと、この病院で研修を選んだことは基本的にはかなりよかった。先生たちも優しいし、体力のない自分でも働ける環境だった。当直も完全自由なので、最初は一度も入る気がなかったが優しいし勉強にもなるということで今では定期的に入っている。

最近は進路というかどういう生活をしようかをずっと迷っている。
嬉しいことになんだかんだ僕のことを評価してくれる人はいることにはいるが、結局自分が何を成し遂げたかというと何もない気がしている。
自分は何者にもなれていない、というのが最近の悩みだ。
みんなそうだよ、と慰めてくれる方もたくさんいらっしゃるが、自分は何者かになれるはずと自惚れて生きてきたのになれていないギャップで死にたくなることが多々ある。
色々な点で恵まれていることは自覚しているが、それでも何か成し遂げれるはずと思い込んでいる厨二病が全然完治しない。

他人のことを気にしすぎてしまう。
他人からの評価は気になるし、他人へ気遣って言動をかなり躊躇してしまう。
自分の生きてきた環境では当たり前に他人への配慮をし、多少なりともストレスを感じている状態が当たり前だが、に他人へ配慮することなく(本人なりにはしているのかもしれないが)傍若無人な振る舞いを行うことに抵抗感がない人間がいるのだと驚くことが多々ある。
その人たちを見て、なんて面の皮が厚いのだろうか…人に迷惑をかけたり気分を害することをなぜ平気でやれるのか、と心の底から悩んでいた。
最近になってこういう人たちは他人がストレスを感じることより、自分が満足して生きるようと正直に生きているだけなのだと思った。
単純にわがままな人間だと言ってしまえばそれで終わりだが、結局のところ自分さえ良ければいいという精神状態は多少なりとも見習ってもいいのかもしれないと思ってしまう。
ヒトは理性のある生き物であるから他人に配慮すべきだと思うが、

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