【私の音楽遍歴】⑮無意識に残っていた3世代にわたる戦争の爪痕

今回は2016年に、2回目の東京でのジャズ武者修行生活にケリをつけ、
家族と共に福岡に帰った経緯の、深い真相を書いてみようと思う。

このタイトルを見て、??と思った方も多いだろうが、、これは田舎で育ったものにしかわからない世界かもしれない、でも確実に今も同じしがらみを抱えて生きている人がたくさんいるのではないか。

戦争、、つまり太平洋戦争、、

私の生家は、父の代は公務員と兼業農家だった、祖父母の代は専業のコメとミカン農家だった。では、、曾祖父の代は、、

地主だった。
つまり、小作人が納める、地代が主な収入源で、曾祖父は殆ど働かず遊んで暮らしていたらしいと聞く、、、

時は昭和13年、、私の祖母は、町でも評判の美人で、裕福な商家の娘で、ただ一人セーラー服を着て女学校に通っていたお嬢様だった。賢く美人で、器量よし。。私の曽祖父は、そんな美人を一人息子の嫁に欲しがっていた。

息子の名前は幸男さん。名前にふさわしく、遊び人だった曽祖父を反面教師に、とてもや優しく賢い青年だったと、子供のころ、祖母からたびたび聞かされたことを覚えている。

なぜ祖母の夫となった人を、なぜ「幸男さん」と呼ぶのか

そう、幸男さんは、短い新婚生活もつかの間、昭和15年に始まった太平洋戦争に召集され、当時の多くの若者がそうだったように、、、南の島に散ってしまわれたのだった。

昭和20年の敗戦後、跡取り息子を失った大江家に、さらに追い討ちをかけるように重大事件が起きた。
日本の旧体制を崩壊させるべく GHQが行った施策、『農地改革』だ。

農地改革 (中略)農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、237万人の地主から買収され、475万人の小作人に売り渡された。
しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。
譲渡された小作地は、戦前の8割に達し、農地に占める小作地の割合は46%から10%に激減し、。この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。

引用元 Wikipedia

このGHQの施策によって、旧来の地主が権勢をふるった封建的な田舎のムラ社会は崩壊にすすみ、戦後の高度経済成長期へつながる
労働力の解放につながるのだが、、、、
おかげで老齢まで遊んで暮らしていた曽祖父にとっては、戦争で愛息まで取られるどころか、多くの財産を失うこととなった。

しかし絶望に苛まれるまもなく、
曽祖父から課せられた『大江家の田畑財産を守る』という至上命題 のもと私の祖母は、親戚筋から入り婿をとることが
決められ、私の祖父と再婚し父の兄妹3人が生まれた。
祖父母夫婦は、荒山を伐採し、切り開いてまでして畑を作り、3人の子供を必死に働いて育て上げた

幸せになるはずだった町一番の美人のお嬢様の人生は、戦争によって、想像を絶する苦労を強いられる人生となってしまったのだった。。

そんな祖母の苦労を見て育った父は、18歳から郵便局につとめ、家の農業を主力となって切り盛りする自慢の息子だった。

親の意識は子供の無意識に強烈に影響を与える、、、
音楽とは無縁の、田舎の兼業農家の跡取り息子になるはずだった僕。父からは、九州大まで卒業させて、就職もせず、アラフォーになるまで無謀な挑戦をしていた息子に、『帰ってきて、自分と同じような道を選んでほしい』という期待を強く感じていた。。

以上のことから、妻は専業主婦なので、ダブルインカムも望めず、大卒以来、肉体労働しかしてない何のキャリアもない僕は、九大卒の学歴で塾講師の職くらいありつけるだろうと高をくくり、2016年4月、福岡の地に9年ぶりに戻ってきたのだった。。

3世代にわたる戦争の傷跡は、、家単位の旧農村の既得権者が理不尽に失った、プライド、家意識だった。
苦労が苦労を呼ぶ、マイナスの克服に2世代を費やして、、
その悪影響を受けた僕は、
『いずれは福岡に戻って実家を基盤に生きる』という無意識の甘さを拭えなかった。
音楽一本で食っていく、養っていくという
不退転の覚悟ももたず、
非常に中途半端な状態で(自身ではそのつもりはなかったが)2度目の都落ちをしてしまったことになる。。

次回は2016年の福岡での生活と音楽活動、そしてついに実家のくびきを捨て、3たび東京に出てくるまでのことを書こうと思う。。


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