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娘が遺伝子変異の病気と診断されたときのことを振り返る

先日、1年ぶりの遺伝科の診察があった。遺伝科は娘の遺伝子変異の病気を診断していただいたところ。今は1年ごとに受診して、何か困りごとがあったら聞いていただいている。
今回は遺伝科で診断されたときのことを振り返ってみる。


診断されるまでの経過

まず診断されるまでの経過。生後4か月くらいで首は座っていたもののあやしても笑わず、反応の乏しさあり。4ヶ月検診では経過観察となっていた。その後も運動発達が進まず、娘は8ヶ月になっても寝返りはできず。

9ヶ月で保育園へ入園。食事がなかなか進まないことなどに先生からも疑問を持たれ、何かあるのではと何度か面談した。私の認識以上に先生たちは他の子と違うと感じていたようだった。

そもそも娘は34週の早産児で、生後すぐにNICU、GCUへ1ヶ月入院した。退院後もフォローアップの外来に1カ月ごとに通っていた。そこで発達が遅れていることを相談し、頭のMRIをとることに。それと同時に役所で行われていた療育相談にも行くことにした。

療育相談では運動発達遅れのため療育センターへつなげられ、リハビリに通うことになった。また、通院先のMRIでは脳が小さいと言われて、こども病院神経内科紹介、この時点で生後11か月。神経内科では再度MRI、採血でできる遺伝子検査(Gバンド)を行った。遺伝子検査は異常なしであるもののMRIでは脳が小さく、発達の遅れもあるため遺伝科に紹介された。

遺伝科初診、この時点でちょうど1歳半。遺伝科医師からは見た目からすぐにある病気疑いと言われ、マイクロアレイ検査を行うことになった。そう、長女の病気はダウン症ではないものの、ダウン症のようにある程度見た目でわかる病気だった。素人には聞いたことのない病気だったが、遺伝科の専門医師が判別するのは容易だった。2歳前に検査結果から診断が確定した。

診断時の心境

今から思うと遺伝科初診のあとが一番つらかった。なぜなら、そこで病名を初めて言われたから。調べると、運動発達としては歩ける子が多いが、終身介助が必要。話せたとしても単語程度で会話は一生できない、というものだった。私にとっては娘と会話ができないことが一番つらかった。

ただ、言葉は発せられないものの言われたことの理解は進むとあり、サインや別の手段でやりとりされる子も多いことをあとで知ったのだけど。今のうちの子を見ていても、理解は進んでいると感じている。

幸か不幸かそのころ仕事が忙しかったので、娘のことを深く考える暇もなかった。当時は仕事に行かず寝ていたいと思ったが、環境が許さなかったのはよかったのかもしれない。

その後、遺伝子検査の結果は夫婦で聞きに行った。私は初診の時点で病名を言われ覚悟ができており、結果を言われてもそこまで動揺しなかったが、夫は診断時にもかなりくらくらきていたようだった。

診断されたあとのこと

そこからは必死にリハビリや療育のことを調べた。福祉の世界が未知すぎる自分。診断されてから4年、本当にいろいろなことがあり、そして今後もあるのだろうけれど、今まで知らなかった世界を知れてよかったと思う。

同じ病気の子のブログも何人か見つけて、1人近隣に住んでいる方がいて会いにいった。その方のお子さんはもう大きく、いろいろ教えてもらった。その時に印象的だった言葉の一つに、子どもを通した人との出会いもたくさんあるよ、ということだった。

今、その言葉を実感している。長女関連で今まで関わってこなかった方々とのつながりが広がった。リハビリの先生、療育の先生、優しい方が多い。リハビリの先生の中には専門的知識や経験が大変豊富な方もいて、自分の職業についても考えさせられた。

また、障害を持つ親とのつながりも少しずつできた。親たちとは同士のようにいろいろ話して元気になった。我が家は療育センターの通園に通っていないので親とのつながりはそこまで濃くはないかもしれないけれど、それでもつながりはできてきた。

そして、私も人生を考え直し、仕事を常勤からパートへ変更、個人の仕事も並行して行っていくことに。長女のこともあるけどきょうだいのこと、私自身何を大事にしたいか深く考えた。ここまでの働き方の変更は、長女がいなかったらできなかったような気がする。

今の心境

今の心境はどうか。たしかに子どもにハンデがないのが一番とは思う。だけれど、ハンデがある子に伴走することによって、今まで見えなかった世界が見えるようになった。人とのつながりも増えた。働き方も変えて、さまざまな仕事、育児を試行錯誤。結果としては総じて自分の人生も豊かになっている気がする。

そうはいってもしんどい時も多々ある。だけれど、最終的に自分の人生よかったと思えるように一歩一歩進んでいきたいと思う。

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