#7 挨拶が生きるとき(1/3)
ご近所のお声掛け
#6のエッセイ「夏の色、子どもの眼」で私は夏草の様子から浮かび上がる種々のことを書き連ねました。夏草といえば、思い出すことがあります。それは、郷里の母が手入れしている家庭菜園でのできごとです。
あの夏は実家の母の体調が思わしくなく、仕事の合間をぬって郷里に滞在する日が多くなりました。前年の春に父が癌で亡くなり、折しもコロナ禍が加わって、母は慣れない一人暮らしで気を張っていたのでしょう。その疲れがひといきに出てしまったような症状でした。
一人暮らしの母をご近所の方はあたたかく見守ってくださっていたようです。母が入院しているあいだ、母の家庭菜園の手入れをしていると、ご近所のみなさんが足をとめては「こんにちは、お母さんの具合は?」と声を掛けてくださりました。なかには、いつでも私と連絡がとれるようにと連絡先を尋ねてくださる方もおられ、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
その頃、東京の都心のマンションで暮らしていた私にとっては、このご近所の方の挨拶がなんとも心あたたまるものに感じられました。余談ですが、私がそのマンションに引っ越しをしたとき、ご近所の方へ挨拶にまわったところ、ドアを開けてくださったお隣の方に「今どきに珍しいですね。」と言われました。たしかに、挨拶に伺ったもののインターホン越しに「近所の挨拶は要りません。」とお断りを受けてしまうこともありました。都会で暮らすなかでのご近所づきあいの難しさを感じる出来事でした。
社会の変化とコミュニケーション
時代、社会のあり方が変われば、挨拶を含め、コミュニケーションのありようも変化します。時代をさかのぼってみますと、挨拶の定型化に先行してコミュニケーションにおける前置き表現が多く見られます。「憚りながら」「恐れながら」「無心ながら」「ほねおりなれども」などがそれに該当します。こうした表現が顕著になるのは室町時代頃です(金水敏ほか『歴史語用論の世界』)。
室町時代といえば、現代語の母体の形成期です。発音も文法体系も古代にはない大きな変化が見られました。
#7挨拶が生きるとき(つづく)
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