#7挨拶が生きるとき(2/3)
(社会とコミュニケーション つづき)
室町時代といえば、現代語の母体の形成期です。発音も文法体系も古代にはない大きな変化が見られました。例えば、ハ行音は口を大きく開けて発音するようになりましたし、いわゆる係り結びの法則が消失していったのもこの時代です。人と人との交流域が拡大するにつれて、コミュニケーションの方法にも工夫が必要になったのではないかと考えられます。
そして私たちが普段、口にしている「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」などの挨拶が定型化したのは明治時代と言われます。滝浦真人(2013)によれば、挨拶の励行がきっかけであったという指摘があります。
挨拶の定型化と形骸化
江戸時代にも挨拶らしいものがなかったわけではありませんが、今のように定型化されていたとはいえないようです。私が目にした例では江戸時代の後期、人情本に次のような会話がありました。ここでの「こんにちは」は文字通り、今日のことを話題にしています。「こんにちは」はまだ形式化しておらず、実質的な内容を伴っていると読み取れます。
明治時代に入りますと、文学作品(二葉亭四迷「浮雲』)には次のような一言の挨拶が見られます。現代語と同じです。
世界を見渡してみても、挨拶の方策はさまざまです。私達の挨拶のように定型化されたものもあれば、「今日は何を食べた?」のような実質的な内容を聞くことが挨拶になっている文化もあります。
このようにみてきますと、挨拶の定型化は、不特定多数の人が行き交う社会を潤滑に保つ働きがある一方、悪くいえば「形骸化」を伴うといっても良いかもしれません。とりあえず「こんにちは」と挨拶さえしておけば良いというビジネスライクな、機械的なコミュニケーションがそれです。特にコンビニエンスストアーなどは、いかにもマニュアル通りのような挨拶が飛び交っています。現代の私たちはそのような空虚な挨拶に物寂しさを感じつつも、すっかり慣れてしまっています。
弾む、響く、生きた挨拶
それにしても、久しぶりに大阪の町を眺めていると、人と人とのあいだに交わされる言葉が豊かであると実感します。
(#7挨拶が生きるとき 第3回へつづく)
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【参考文献】
滝浦真人(2013)『日本語は親しさを伝えられるか』岩波書店