一輪車ブームに見る学びの本質
島の小学校では一部の児童たちに一大ブームがやってきている。
一輪車がそれだ。
島にあるもう一つの小学校は伝統的に一輪車に乗る。それどころか運動会では全員でパフォーマンスを演じるのが恒例で、それはそれは見事なもの。
毎年このパフォーマンス見るだけだった娘の学校にも一輪車が来たことで、「放課後一輪車ブーム」が起きているということ。
私は、下の子を迎えにいくときにこの様子を見ていた。初めは全く乗れていなかった子どもたちも、最初の一人が乗れるようになってくると、次々に続いていく。
彼女たちは時間を忘れ没頭している。休みの日も朝早くから集合する。そのためなら苦手な早起きすらやってのける。
この集中力とエネルギーに対し、こんなことを考える大人も少なからずいるのではないだろうか?「この力の少しでも勉強に向けてくれれば…」
でもそうはいかない。
だが、実は彼女たちの熱中ぶりの中に学びの本質が見えているのだ。
勉強とか学びとは「知らなかったことがわかるようになる。できなかったことができるようになる」ことのはずだ。きっかけは「どうしてだろう?」という疑問や、「あんなことができるようになりたい!」という自発的な気持ち。そしてそれを自分のものにするために色々と試行錯誤する。調べたり、人に聞いたり、試してみたり。
たまたまいいタイミングで現れた一輪車は、ここにぴったりハマったというわけだ。
興味と意欲に物理的な条件も加わった。さらに良いことに周りの大人もほとんど助言ができない。こんな子どもたちだけの世界には滅多に出会えはしない。当然どんどん引き込まれていく。そして驚くべき上達。仲間を増やしていく。教える教わるの関係を構築する。その中で技術の体系が解明されてくる。みんなで技やルールを考える独創性と協働性も生まれた。
理想的な学びの環境は、なんと学校、教員、親から離れたところで自然に生まれたのだ。拍手を送りたい。なんと羨ましい出来事を体験しているのだろう。
私たちが彼女たちに絶対言ってはいけないことが見えた。「一輪車があんなにできたんだから、勉強だってあれぐらいやれば・・・*$&%#〜*+¥#%$」
学校の授業の中にあの現象を作ることこそ大人の仕事。もしくは漢字や計算の力が爆発的な楽しい学びを自分のものとするための単なるツールであり、基礎言語のようなものだということを教えてあげることくらいなのかもしれない。
今の学校教育の中ではなかなか実現は難しいかもしれない。
親として良い場面を一緒に体験できたことはありがたいことだと感じた。