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日記:230729

外では雨が降っていて、私は1ヶ月後に迫った卒業にかかった試験に焦っているべきはずなのに、文章を書きにパソコンに向かっている。「なんでそんなに楽観的なの」と昨日も親友に言われたけれど、私にもよくわからない。それが、褒め言葉なのか、目の前のことに取り組まずに後回している自分を見て罵っているのかも。過去は変えられないという事実は、私の感情の根幹にあるから、変えられないことに気分を下げられ続けることも、頭を抱え続けることもないけれど、未来に対して楽観的かというとそうではない。大学を卒業することも、仕事に就くことも、お金も、恋愛も、友人も、日常も、数え始めると終わりがないくらい心配事はある。インターネットの世界に自分の身を少し長い時間おくと、24歳のあるべき人間性、恋愛史、週間、身体、そんな縛りにぎゅうぎゅう押し潰されていることに気づかず苦しくなっていく。誰にも見られてない文章を書くことは、頭の中の詰まりをほぐしてくれて、穏やかさを与えてくれる。


暇と退屈の哲学。友人が荷物を送ってくれた時におすすめの本を入れてくれたんだけど、その彼氏が選んでくれた一冊。私にとって、哲学や宗教の、つかもうとすればするほどツルツル逃げてしまうような概念の学問は少し苦手でしばらく開けてなかったのだけど、さっき読み進めてみると意外にすんなり進めていて、今の自分に欠けているような客観性と考える空間を与えてくれる。『人間は求めていた豊さを手に入れたのに、不幸になっているのか?』という問いと、今の自分を重ねて考える。自分の頭の空白と、物事を繋げて思考を紡ぐ行為がなんだか久しぶりで、充実感を感じる。そんなこんなで文章を書いている。自分の趣味が何かと聞かれると、音楽や美術鑑賞、読書、映画なんて色々浮かんでくるけれど、どれも目の前の日常から切り離された、その世界が広がっている空間だと思うし、その行為から他の過去の出来事同士が結びついていく、そんな感覚を愛でているのだと思う。改めて、文章を書くことはその結びつきの紐を撫でてただしていく、そんな作業の気がする。


ブルーチーズを買った。
一昨日までイタリアに居て、友人のお家に滞在させてもらっていた。イタリアには何度も足を運びつつも、”家”で過ごすことは初めてだったので、特に食の豊さに感動した。豊というと、フレンチコースや回らないカウンターのお寿司のような金銭的もパフォーマンスにも富む食を考えそうなんだけど、そうでなくて、朝の食卓に並ぶプロシュートやチーズ、フルーツの甘味、パスタ一つに対する味のバランスと食材。一つ一つの食材が輝いていて、存在感を成す。大袈裟かもしれないけれど、美しくて優しくて、でも平凡でとても良かった。昨日スーパーでブルーチーズを見つけたので買ってみた。私は元々、固形チーズ、クセの強いチーズのファンではなかったのだけど、イタリアでハイキングの後山小屋で食べた12ヶ月熟成のチーズの旨味が忘れられず、なんだかハマってしまったみたいである。一昨日炊いたご飯に買ったブルーチーズを載せてチンしたけれど、塩味とクセが程よく混じってなんだか素敵なリゾットになってしまった。私の食への扉が今回の旅で2つくらい開いた。そんなイタリアの朝食テーブルに、コカコーラが並んでいるのは、イタリアの田園風景にマックのサインが現れるくらいアメリカ資本主義に世界が食されているのだな、とちょっと笑ってしまったけれど。


読んでくださって、ありがとうございます。 いただいたサポートで、朝にお気に入りのカフェでコーヒーをいただいて、少し本を読んで、それから新しいnoteを書こうと思います。