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自己紹介してみます。

記事を何個かアップしちゃった後に
自己紹介するのも何なんですが💦

ブリスベンに住んでます。のほほんです。

ブリスベンに来る前は日本
その前はアデレード
その前はNZクライストチャーチ
その前は。。。これまた日本
その前はシドニー。
生まれと育ちは日本!

ざっとそんな感じです。

それだけだとつまんないねぇ。

大学卒業して
なぜか介護士になって

シドニーに留学しまーすってことで
ゴリゴリコネ入職の特養を辞め、
円満退職。

シドニーの留学1年終わったら
英語はペラペラにはならなかったけど、
「自由」を手に入れたと思った。

語学学校の修了の時
「私はこの国を母国にします!」
と誓い、

誓ったのに、全財産使い果たし
一旦日本に帰る。

3年半もの間、
ただひたすらにオーストラリアのことだけを考え。

英語とビザをどうやって取るかを
考える日々。

日本じゃ英語も伸びず、
ビザも介護士じゃ永住権が取れず
(その時代はね)

困っていたところに
「僻地ビザ」っちゅーのがあると聞き、
ビザエージェントに聞いたらば、

アデレードならいけるってことで
迷わずアデレードに申請。

英語もギリギリなんとかIELTSが取れて、

LET’S GO!
だと思いきや、

申請してから1年強を要するビザ。

退職待ちきれず、
申請してからすぐに退職して
「オーストラリアはどーせ永住するし、
他の国いこーっと」
ってな感じで

お隣のNZに行ったというわけ。

NZにて

卒業旅行で行ったクライストチャーチが
忘れられなくて、
単身乗り込んだはいいけれど、
右も左もわからず、
さして英語もわからないまま、

履歴書出した老人病院で拾ってもらえて
ワーホリが、ビジネスビザへ。


アデレードでのビザが出るまでの1年半
そこでお世話になり、いい仲間にも出会えて、

ちょっとだけ英語が上達して、アデレードに飛んだ。

アデレードにて

アデレードというところは
なかなかサバイバルなところで。

ワーホリさんなんてほとんどいない。

なぜなら、田舎。
なぜなら、大学生が多い。
英語しゃべれて当たり前。

だから、日本人、見なーい!

地元民や国際色豊かなところに
混ざらないと、生きていけない都市なのだ。

自分も履歴書ばらまきまくって
やっともらった介護の仕事。

最初の週、たったの7時間。
泣いた。

履歴書は20社以上出した。それでも電話かかってきたの、そこだけだったのに。

だけど、歯を食いしばって頑張ったら、
マックス週に30時間働いて
お局様になってたwww

ありがたいことに永住権も無事に取れた。
死ぬ気で働いた。

結婚して、
子供を産み、
落ち着いたころ。

旦那は
「俺は、アデレードなんて嫌だ!
日本に行きたい」
という。

私が脱出した日本。

そこに行きたいだって!?

仕方なく、1年半という期限付きでOKした。

それが5年弱という年月になろうとは、
予想だにしていなかった。

日本にて

日本から脱出したくて、シドニーに行き、
長いビザを取り、アデレードで永住権までこぎつけたというのに
旦那のぶちぎれにて日本に住むことになってしまった。

そこからは
ただただ、我慢の連続、
「こんなはずじゃなかった」
私の顔は般若のほうになっていたと思う。
しかも、私の体はモンスターのように
でかくなっていた。もうすぐ3桁、ってとこまで行ってた。

もちろん、旦那とうまく行くはずもなく、
旦那が出て行った。

私は悩んだ。
私さえ我慢すれば、家族が元に戻れるんじゃないかと。

幻想だった。
私が苦しんでいるのが、毛穴からあふれ出してしまってた。

我慢すればするほど、苦しくなった。
本当に息ができないほど苦しくなった。

旦那と仲良くなれるはずもなく。

そして、あきらめて、何もかも捨てて
もう一度オーストラリアに行く決意をした。

そうしたら。

みるみるうちに、心も体も軽くなり、
元気になったうえ、20キロのダイエットに成功。

で、ブリスベンに再移住したというわけ。
娘と、スーツケース2個だけを持って。

再移住してからのお話は、
別記事に書くことにする。

まぁ、そんなこんなで、
いろいろいろいろありますが
今はブリスベンで、何とか幸せにやっとります。

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