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ハンセン病療養所を訪ねて


プロローグ

専門学生の時に学生運動に取り組んでいて、その時にジェンダーや差別の問題について研究していた学生と知り合いになった。

何気ない会話の中で彼女が言った。

 「岡山にもハンセン病療養所があるよね」

 「(ハンセン病ってなんだ?)あー、そうだね。あるね」

その後にどういう会話をしたかはほとんど記憶にないが、自分の無知がバレないように会話をしたと思う。
情熱を持って学ぶ彼女の姿とくらべて、自分はなんて世間知らずでバカなんだろうと、自信を失った日となった。

学生団体に所属していた2年間での全国の大学生たちとの出会いは専門学生の私にとっては衝撃的なできごとが多く、世間知らずだった今までの自分をすべてとっぱっらって、脱皮したいような気持ちにさせた。

がしかし、、、

脱皮したいような気持ちにさせただけで、この時は脱皮にいたるまでの行動に移すことができないでいた。
本でも買って読めばまだマシであるけど、その時の私は20歳のガキンチョで、バイト代が入ればスロットを打ちに行くようなスロカスであったのだ!!!

専門学校(調理師学校)は2年間で卒業だったので、卒業後は仕事に忙殺される事になり、私がハンセン病問題に関心を持つようになるのはまだ先のことになるのであった。

「朝鮮人受難碑」碑前祭での再会

時は流れ、8年後、、、

8年後!?!?
生きるというのはとても大変なことなのだ。

なんやかんや人生を生きていた私に、その時が訪れる。

2024.3.27
「朝鮮人受難碑」碑前祭が岡山市の西川緑道公園で開かれた。

1993年3月27日に岡山市西川緑道公園の一角に「朝鮮人受難碑」が建立されて30年が経過いたしました。これは明治から続く「脱亜入欧思想」に基づく軍国主義による朝鮮の人々への強制連行を含む過酷な強制労働や意図的な差別などにより、無権利状態の中で食料不足や医療にも事欠く悲惨な状況下、疾病や尊い命が奪われた過去の歴史的事実を直視し、受難者への慰霊を日本人としての責任を果たすべく人道主義、平和と友好・連隊、人類の永遠の発展を、との思いで、建立されたものであります。

「朝鮮人受難碑」碑前祭について趣意書

【所在地】 岡山市北区駅前町2丁目
【建立日】 1993年3月
【建立者】 日朝協会岡山県支部
【大きさ】 碑:縦85cm 横185cm 奥行き50cm
【碑 文】 正面 朝鮮人受難碑
       裏面 朝鮮人受難碑
日韓併合(一九一〇年)を起点に朝鮮を植民地支配、生きる道を求めて来日、太平洋戦争による強制連行、県下の軍事産業をはじめ危険な事業所で酷使と差別。戦後県仏教会と本会で収集判明した遺骨は七十八柱に及び、出生地不明が殆んどで、まさに日本軍国主義の許し難い結果でこの行為に深い謝罪の意を表す。一九六〇年以来二十余年にわたり慰霊供養を行なう。
遺骨送還は国家間の問題もあり、なお実現に至らず、この不幸な事実を追憶し故人の慰霊の思いを奥に秘め、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の自主的統一を支持し、平和、友好、連帯の誓いをこめ、県民各位のご協力でこの碑を建立する。

一九九三年三月
日朝協会岡山県支部

資料集 朝鮮人犠牲者追悼碑



そこに参列していた私は声をかけられた。

  「あなたはもしかして、あの時の学生さんですか?」

  (誰だっけ?なんとなく見覚えあるな)

声をかけてくれたのは岡山大学の文化人類学の先生だった。
8年前、学生団体に所属していた頃に岡山大学グローバル・ディスカバリー・プログラムの学生と岡山朝鮮初中級学校の公開授業を見に行ったことがあったのだか、その時にいらっしゃったのがこの先生だった。

  「あ、あの時の。ご無沙汰しています」

8年も前のことなのに、私の事を憶えてくれていて声をかけてもらったことが嬉しかった。

  「よければこの後、碑前祭の反省会があるんだけど、一緒にどうですか?」

断る理由もなく私は了承し、実行委員会の人たちしかいない席に同席する事となった。

反省会といっても打ち上げみたいなもので、お茶しながらお話しする程度の場所だったので安心した。

そこでは受難碑を建立した当時の話を聞くことができた。そして30年間に渡って、受難碑を守ってきた県仏教界の長泉寺前住職・宮本光研氏の想いも聞くことができた。

話を聞きながら、岡山で育ってきたのにこの受難碑についてを詳しくしらなかった事が恥ずかしかったのと、遺骨を奉還するためにこんなにたくさんの日本人が活動していたことを知ることができて、ほっとしたというか安心した気持ちになった。

テレビやマスコミの報道では朝鮮については良い報道はされないので、日本で朝鮮人として生きていくのは肩身が狭いような、生きづらさを感じるが、ちゃんと戦争の過ちを直視し生きている日本人がいることが心から嬉しかった。

しかし、懸念するのはこのような活動をしている方達は高齢だということだ。実際に受難祭に参列した人の中に若者は殆んどいなかった。(在日朝鮮人も日本人も両方)

歴史は継承する者や語り継ぐ者がいなければ事実が歪曲されたり忘れ去られたりするものだと思うので、若者がこのような場にいないことや、このような活動を知らない事に危うさを感じ、自分もまた、知らなければならないことが世の中にはもっとあるんじゃないかと思うようになった。

8年前までスロカスだった人間が時を経てここまで成長したのだ!!
自分でも驚きだ!!

偶然な出会いから、岡山大学の文化人類学の先生とも今の自分の心境を話すうちに、ハンセン病問題についての話題になった。

「長島愛生園というハンセン病療養所にも当時から朝鮮人の人たちがいて暮らしていたんだよ」

「資料館や宿泊研修施設なんかもあるから調べて行ってみると良いよ」

鉄は熱いうちに打てという言葉をスロカスは知っていたので、知るなら今だ!!とハンセン病療養所を訪ねる事にしたのだった。

長島愛生園を訪ねて

2024年6月8日(日)
私は長島愛生園へと向かった。
岡山ブルーラインを虫明ICで下りて長島愛生園の標識にしたがって走ると到着。日曜だったが、私以外は歴史館への来訪者はなく、貸切の状態だった。

長島愛生園歴史観リーフレットより

人間回復の橋(邑久長島大橋)

下の写真は『人間回復の橋』と呼ばれる、長島と本土を結ぶ邑久長島大橋。
1988年に開通。

人間回復の橋


邑久長島大橋


瀬戸内海を見ながら車を走らせる 

しのびづか公園

下の写真は当時、火葬場があった場所。

昔は死亡しても町の火葬場は使用させてもらえず、園内に火葬場が設けられ、同じ入所者の手によって火葬されていました。

 開園当初の火葬場は、薮池地区にありましたが、1955年4月にこの地に移設され、1964年12月から愛生園と共同利用になり、2000年12月末日まで使用されていました。この間、両園入所者約1,500有余名を火葬し荼毘に付してきました。右側の亀の甲羅のような形をした「しのび塚」は、ご遺骨の残骨をお納めしています。2006年7月に火葬場跡の公園整備を行い慰霊碑を建立しました。慰霊碑には当時の火葬場の写真が刻まれています。

 また、2002年に設置された「ハ病問題に関する検証会議」の検証によって、園内に49体の胎児等標本の存在が明らかになり、終生隔離政策によって、この世に生を受けることがなかった49体は、半世紀以上もの長い間、ホルマリン漬けの状態で保存されていました。まさに、人間不在、患者絶滅のハンセン病政策でした。

 その後、胎児等の鎮魂のため、2007年4月にその遺骨を納めた「慰霊」の碑が建立され、毎年供養祭が行われています。

国立療養所邑久光明園HP

長島愛生園歴史館


長島愛生園歴史館は外観はジブリに出てきそうな感じ
1996年まで園の運営に関する業務を実際に行なっていた。
2003年に長島愛生園歴史館として開館したとのこと。

長島愛生園歴史館

回春寮

島に隔離された人たちがまず初めに収容された場所。
ここで医師による診察が行われたり、全身を消毒風呂に入れられた。

回春寮

10人以上の団体研修でなければ、回春寮の中は見れないと思っていたが、2度目の訪問の際に学芸員さんに回春寮の中を見学したいと伝えたところ快諾してくださり、中を見学することができた。
細かな解説もしてくださりとても感謝している。
当時のまま残されており、映画のシーンで出てきそうな雰囲気漂う場所だった。
入所者の島での生活が始まる最初の場所だった。

消毒風呂

一郎道

久保田一郎(具奉守)が1932年に入園し、土木主任として園内の宅地造成や道路工事に大きく貢献しました。1938年、彼を中心に切り開かれた道路はその功績を称え「一郎道」と名付けられましたが、彼は厳しい作業によって病状を悪化させてしまい、それを苦に自ら命を絶っています。開園当時、患者作業により園の運営が行われていたことを示しており、療養施設とはかけ離れたものであったことを示しています。

長島愛生園 歴史回廊リーフレット

久保田一郎(具奉守)は私と同じ在日朝鮮人です。祖国を失い、ハンセン病を患って長島愛生園で生きていくことになった彼の苦しさは想像を絶するものだっただろう。

具奉守さんが入所した1932年の長島愛生園の全体数は500人でそのうち朝鮮人入所者数は16人との記載がある。(※参考文献『在日朝鮮人とハンセン病』金貴粉,2019)
学芸員さんの話によると、療養所内では同じ患者でもヒエラルキーが存在し後遺症や症状が軽い人や軍属などが上位に位置し、朝鮮人は一番下だったという話もあると話されていた。
同じ境遇であっても、単純にみんなで力をあわせて生き抜こう!なんてのはなくて、むしろ差別や偏見が自然と出来上がったのだ。

そんな境遇のなかでも、道路に自分の名前が名付けられるほどの功績を称えられた具奉守さんは他の人たちにどのように接して、関わっていたのかは想像に難しくはないだろう。

上の写真の道路は一郎道ではない。(写真右側の舗装された道路)
一郎道は石碑の後ろ側。山道の方とのこと。(左側)
下の写真の石が積まれている部分が当時の一郎道の名残だ。

一郎道の名残
一郎道

その他史跡


納骨堂
監房 西側の壁
恵の鐘

喫茶さざなみハウス

さざなみハウスという喫茶店が長島愛生園にはある。波の音を聞きながらゆっくりコーヒーを飲める場所はなかなか岡山県内でも少ないのではないだろうか。
プリンを注文した。カラメルソースがたっぷりで、島中を歩き回った後の私には至福の味であった。
日々の喧騒から離れて時間を過ごせる、人には教えたくない私のお気に入りスポットにさっそくランクインした!

国によって隔離された悲しく辛い歴史を持つ土地だが、楽しい事や嬉しいことがなかった場所ではない。90年もの長い時間の中で詩や音楽などの文化も発展した。ここで生きた人たちの人生が刻まれた土地だと思う。このカフェをきっかけに、若い人たちにも長島愛生園の歴史に触れて、これからの明日を生きるヒントを見つけて欲しいと願う。

特製プリン

邑久光明園を尋ねて

2024年7月15日(月)
私は邑久光明園へと向かった。
邑久光明園は長島邑久長島大橋を渡って、長島愛生園の手前に位置する。
長島には療養所が2つもあるのだ。

1909年に大阪府に設立された「外島保養院」が室戸台風で壊滅し、1938年、長島に再建されたのが邑久光明園だ。

邑久光明園リーフレットより

邑久光明園では当日に連絡したにもかかわらず、1時間だけの見学だったが資料館を開けてくださりとても感謝している。学芸員さんは不在であったが、看護師のかたが見学手続きをしてくださった。

1時間だけだったので資料館を見て回るだけで時間になってしまった。

療養所は観光地ではないので、私のように当日の連絡ではなく事前に見学の予約をすることを薦める。

入所者の居住区域には立入がもちろん禁止されているが、入所者の方達はそこで普段の生活をおこなっているので、訪問の際は節度ある態度で訪問しよう。

麦ばあの島

資料館の中に「麦ばあの島」という漫画が置いてあった。
私は図書館で借りて読んだが、当時のハンセン病患者の境遇や気持ちや人間模様がリアルに描かれていて、ハンセン病の歴史を身近に感じることができた。
優生思想についても考えさせられる内容となっている。
ハンセン病問題に関心をもった人がいれば、ぜひ入門書としておすすめしたい。
あらすじなどは以下のリンクからどうぞ。

大島青松園を尋ねて

2024年8月13日(火)
私は大島青松園へと向かった。
場所は香川県。
高松港から大島港まで官有船で約20〜30分で到着する。
事前に予約をしていないと大島港行きのフェリーには乗れないので、訪問の際は事前に予約を済まそう。

大島青松園は完全に本土から離れた島にあるので、フェリーでしか向かうことができない。これもハンセン病患者が当時からどういう扱いを受けて、差別されてきたのかが伺える。

大島行きのフェリー

盲導スピーカー

療養所内は音楽があちこちで流れている。
このスピーカーから流れているのだが、盲導鈴がいまはスピーカーになっているのだという。
盲導鈴は視覚障害者の音の道標として使われるもので、道の角や分かれ道に置かれている。

ちなみに長島愛生園ではラジオが流れていた。

宗教地区

大島会館

旧大島会館の老朽化のため、新たに冷暖房等の近代的な設備を導入し平成18年3月に完成した。この会館は、島外からの訪問・見学の方々との交流を深め、ハンセン病に対する啓発・理解を深める活動の場としての機能や、入所者のカラオケやコンサート、喫茶室等の福利厚生の施設として大いに有効活用されている。

大島青松園案内 パンフレット

私が訪問したのは真夏の8月であったので冷房の効いた大島会館は絶好の休憩場所となった。
無断で入ったのではなく、事前に休憩所として使ってくださいと福祉室から言われていたのだ。

購買やコンビニはないので、訪問の際は事前に昼食を買って訪れるのをお勧めする。

大島会館エントランス

納骨堂

全国のハンセン病療養所には、すべて納骨堂がある。ハンセン病療養所も病院であるが、一般の病院には納骨堂というものはなく、ハンセン病療養所特有のものである。
大島青松園では明治42年の開園以来、平成29年度までに2,144名を超える入所者が亡くなられその多くがこの場所に葬られている。

大島青松園案内 パンフレット
納骨堂

風の舞

亡くなられた人を火葬にし納骨した残りの骨を納めている。
平成4年、約1000人のボランティアの協力で作られたモニュメント。天上・天下をイメージし、海に向かって据える。
「せめて死後の魂は風に乗って島を離れ、自由に解き放たれますように」という願いが込められている。

大島青松園案内 パンフレット
風の舞
火葬場

大島青松園バーチャルガイド

大島青松園の画期的な取り組みで、VRツアーができる。
大島行きのフェリーに乗らなくても実際に大島を訪れる体験ができるのだ!さらに、音声での解説が付いているので予備知識がなくても学ぶことができるのもポイントだ。大島青松園は遠くて行けないよって方はぜひ試してみて欲しい。

本当に感動するから!!

ハンセン病って何?

ハンセン病について

ハンセン病療養所を訪ねたことを書いていたのに、ハンセン病について書くのを忘れていた。

かつては「らい病」と呼ばれ、遺伝病と信じられていました。1873年、ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンによって「らい菌」が発見され現在は彼の名をとって「ハンセン病」と呼ばれています。発病すると。抹消神経がおかされ、知覚まひがおこり、温度や痛みを感じなくなります。その結果、やけどや怪我を繰り返し、手足や顔面が変形する後遺症が残りました。病状が進むと喉、鼻、眼、その他の被服から露出する部位が変形することから、偏見・差別の対象になりやすかったのです。
らい菌の感染は、大量の菌と長期にわたって接触することにより初めて起こります。また感染しても発病に至ることはまれです。ハンセン病療養所の医師や職員でハンセン病を発病した例がないという事実が、このことを証明しています。

ハンセン病問題のこと正しく知っていますか?パンフレット 岡山県

ハンセン病問題について

終わりに

瀬戸内海には3つものハンセン病療養所があり、岡山はハンセン病問題について学ぶにはもってこいの場所だった。

私は1995年生まれ。翌年の1996年に「らい予防法」が廃止となった。
大昔の歴史だと思い込んでいたが、実際に調べて学んでみると、つい最近の歴史だということがわかる。

ハンセン病療養所はまさに日本社会の縮図ともいうべき場所であったと思う。ヒエラルキーが存在し、民族差別があった。優生思想による断種という人権侵害。病状の軽いものは療養所を抜け出して出稼ぎにいけたが、病状の重いものはそうはいかないので、経済的な格差もあったという。
処遇や給付に関する闘争もあり、闘いの歴史という一面も持っている。
はたまた、青い鳥楽団を筆頭に音楽や舌読による文字の習得、詩や文学が発展し人間のもつ底力というか潜在能力のようなものを感じさせる一面もある。

ハンセン病問題に関する書籍はこの期間にたくさん読んだつもりだが、ハンセン病問題の全てを網羅することはできなかった。
自身の読書スピードに絶望するしかないが、ハンセン病問題はいまも課題が山積みだ。
私が一番心配しているのはやはりここでも、この歴史の当事者たちの高齢化だ。
2024年5月1日では、全国13か所の国立ハンセン病療養所の入所者数は718名、平均年齢は88.3歳。(厚生労働省の調査による)だという。
人間には寿命があるので、いずれ療養所の入所者数は0になるだろう。
そうなった時に、誰かがこの歴史を語り継がなければならないと思う。それは研究者だけでなく、一市民も語りつがなければ社会全体に蔓延した差別の意識や偏見を無くすのは難しいのではないだろうか。

現在でもハンセン病に関する差別や偏見は存在しており、ハンセン病問題は解決していない。

この記事をここまで読んでくれる人がいるなら、ぜひともハンセン病問題について知ることから始めていただければ幸いである。

エピローグ

スロカスな私ではあるが、療養所の訪問をきっかけに、若い時にこそもっと世界に目を向けるべきなんじゃないかなと思うようになった。

「〜するべき」という言い方は偉そうで、いかにも意識高い系のように聞こえる。「〜するべき」だと、そう思っているだけで行動に結びついていないから他者に使うと無責任に聞こえるのだと思う。

なので、この「若い時にこそもっと世界に目を向けるべきなんじゃないかな」は自分に向けた言葉である。

今は「〜するべき」でもいずれは「〜している」になるよう、勇気と知恵をもって行動に移したい。

参考文献

  • 伊波敏男:ハンセン病を生きて 君たちに伝えたいこと(岩波書店,2007)

  • 大谷英之:ここに人間あり(毎日新聞社,2007)

  • 有薗真代:ハンセン病療養所を生きる 隔離壁を砦に(世界思想社,2017)

  • ハンセン病市民学会教育部会編:ハンセン病問題から学び、伝える 差別のない社会をつくる人権学習(清水書院,2022)

  • 全国ハンセン氏病患者協議会編:全患協運動史 ハンセン氏病患者のたたかいの記録(2002,一光社)

  • 金貴粉:在日朝鮮人とハンセン病(2019,クレイン)

  • 高麗博物館:ハンセン病と朝鮮人 ー壁をこえてー(2024,高麗博物館)

  • 多磨全生園入所者自治会:正しく学ぼう!!ハンセン病Q &A(2020,多磨全生園入所者自治会)

  • 岡山県保健医療部健康推進課:ハンセン病問題のこと正しく知っていますか?(2023,岡山県保健医療部健康推進課)

  • 社会福祉法人ふれあい福祉協会:ふれあい福祉だより第25号2023(2023,社会福祉法人ふれあい福祉協会)

  • 社会福祉法人ふれあい福祉協会:ふれあい福祉だより第26号2024(2024,社会福祉法人ふれあい福祉協会)

  • 喜田清:名ぐはし島の詩 長島愛生園に在日朝鮮人・韓国人を訪ねて(1987,海声社)

  • 厚生労働省:ハンセン病の向こう側(2021,厚生労働省)

  • 江連恭弘、佐久間建監修:13歳から考えるハンセン病問題 差別のない社会をつくる(2023,かもがわ出版)


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