フリーランスの孤独の壁
フリーランスに転身したひとを水面下で苦しめる要素に「孤独」というものがあります。基本的に無痛なので、明確に孤独に気付くひとはそう多くありません。また、多くのフリーランスは孤独であることはネガティブに感じず、むしろ自由に感じるので孤独がもたらす壁にも気づきにくいのです。
終身雇用への価値観の変貌や、保守的な就業規則、モチベーションに繋がらないインセンティブ制度などによって、フリーランスの人口は近年上昇傾向にあります。
「フリーランスになったら好きな時間に働ける」
「フリーランスになったら好きな場所で働ける」
そのような理想が先走っているケースもありますが、実際には労働基準法の適応しないフリーランスの方が働きます。場所の裁量は社内決裁を通せば正規雇用でも叶うので、フリーランス=場所の裁量を獲得することにはなりません。(場所の裁量権の獲得手法は働き方の変更ではなく度胸と知性ではないでしょうか)
そのような "理想と現実の乖離" はわかりやすいケースですが、霞んで見えにくい現実に「孤独の壁」があります。
会社員では当たり前にそこにある、
新人研修プログラム
監視の目となる上司
相談できる同僚
決まった就業時間
与えられる業務
任せられる後輩
etc...
これらがフリーランスにはありません。
これは決して無駄が排除されてミニマムになったわけではなく、仕事する上で必要な要素を一時的に失っているのです。
すなわち、フリーランスは買ってでも上記の要素を補完するか、強い意志や自己管理能力で補完する必要があります。
知見の高いひとは、後者の「強い意志や自己管理能力」がフリーランスには必要と説きますが、確かにそれもそう。ということは俗にいう "強者" でなければフリーランスになれないのか?と言ったらそうでもありません。
新人研修プログラムは師匠を持ち、しごかれることで補完したり、メンターをつけてモチベーションを維持したり、コミュニティで環境構築してネットワークを強化したり、
ゲームやアニメの主人公が新たな装備を身につけながら冒険を進めるように、会社から至れり尽くせりのサービスを受けていた分の装備不足を補完します。
ーーーでも、それってお金かかりますよね?
はい、もちろんです。会社は人材にお金やリソースを投資して最適な環境を整備しています。個人になっても、必要なものに必要なだけお金がかかるのは驚くことではありません。
とくに日本の税制では正当な経費支出は売上から控除されるので、自己投資するには悪くない税制です。
ぼくが拠点とするジョージアは、ほとんどのフリーランスが税率1%となるタックスステータスを展開していますが、それは売上課税なので、日本のような経費控除の概念はほぼ無いと言っても過言ではありません。
ーーーところで孤独の壁って?
話を戻すと、
監視の目となる上司
相談できる同僚
任せられる後輩
これらの人々との人間関係がどうであれ、貴重なネットワーク資産です。
"会社" というものはある意味 虚像 で、労働者の集合体、要するにコミュニティとも言えます。
そんなコミュニティで周りのひとがいるから大きな仕事ができるし、遅刻しないように起きれる。そんな当たり前の日々は、孤独の中では難易度超級コースなんですね。
どれだけプロでも1人前しか仕事量をこなせないし、怒られないなら朝なんて起きたくないじゃないですか。
歴史を見ても、商人は商工会や商店会や近所付き合いで互いに情報交換をしたり、困ったときは助け合ったり励ましあったりコミュニティの中でやりくりしてきました。
しかし、フリーランスの自由を履き違えたり、引きずる中二病によって自分は最強のソロプレイヤーだ!と勘違いしたり、コミュニティから抜け出してまっすぐ虚無へ突き進んでも、その先が明るい可能性は低く、リスキーな選択といえます。
実際に最強のソロプレイヤーとして才覚があるひとも、ある程度稼いだらそこには口座残高と業務実績が蓄積されるだけで、一定のラインから仕事どころか人生への飽きが訪れてきます。
それもそのはず、働かなくても問題なく生きていける社会保障の手厚い社会で、仕事というソロプレーの暇つぶしがカンストしたら限りなく虚無に近い暇がやってきます。
そのころに周りを見渡しても、最強のソロプレイヤーなので、周りには誰もいません。
同級生は結婚やローンの支払いに忙しく、今までそんなレールの上を走るような生き方を心のどこかで蔑んでいたのに、レールの上を走る同級生の周りにいる家族や職場などのコミュニティが羨ましく思えてきます。
これは一見、無いものねだりのようですが「孤独の壁」を攻略してしまえばそのようなリスクを回避できるでしょう。
最近は趣味で古代史の勉強をしているのですが、最強のソロプレイヤーは今のところ登場しません。どの時代もコミュニティで効率よく狩猟したり建築をしたり、人々は協力し合っています。
インターネットの発達を理由に、21世紀からはソロプレイヤーの時代でしょうか?
もしそうなら今までの人類史の中で、とても大きな出来事になります。「個人の時代」とは10年前から聞いていますが、決してそんなことはありません。
ーーーどんなコミュニティの属せばいいの?
" 学区域 " で繋がった小中学、
" 学力 " で繋がった高校大学就職、
現代社会のシステムも強制的にコミュニティに属させる仕組みです。
フリーランスは確かに自由度は高いので、コミュニティに属すも属さないも選択は自由です。
そんな中でもコミュニティの属し方に " 感性 " で繋がるという大人こそが使える技が有効です。
フリーランスがコミュニティと感性で繋がるうえで一番簡単なのは、業種問わず "フリーランス" と繋がること。フリーランス自体がマイノリティである間は、フリーランスというだけで、ある程度の感性に偏りがあります。
次に業種でつながるコミュニティは有益性が高く、キャリアアップとの相性も良いでしょう。
幸福度が高いのは感性のド真ん中で繋がること。生き方や暮らし方などのマインドを中心点としてコミュニティが存在すると、今まで人間関係が苦手だったひとも、人間関係が苦手だったのではなく、感性の合わない人との関係が苦しかったことに気づくかもしれません。
そのようなコミュニティに属す手法はオンラインサロンでも飲みサーでもいいのですが、商工会や商店会のような機能的価値を持つ環境に身を置くことで、孤独の壁を破壊することができます。
21世紀では、インターネットの発達でコミュニティは地域の垣根を超えました。
沖縄と北海道の人が同じオンラインコミュニティで出会い、格安航空券と数時間があれば合流できます。19世紀や20世紀の人々から見たら、これはまるで超能力のようでしょう。
感性を中心点に置いたコミュニティは、フリーランスのキャリアや生活を豊かにするきっかけとなります。
逆に、コミュニティが無ければ孤独の壁にいつか衝突します。
感性で繋がれるようなコミュニティが、もっと増えたらいいと思うんですよね。一般的に「コミュニティ」は怪しい言葉に思われる気がするのですが、いつからそうなったのでしょうか。
古代史で出てくるような時代からコミュニティは存在し、コミュニティを怪しんでいる人はコミュニティの中で生活しているので、もっと堂々とコミュニティコミュニティコミュニティって言っていいと思いますよ。
怪しみの裏にそれっぽい理屈なんてないのです。
感性で繋がれるようなコミュニティがもっとこの世に増えれば、人の生活も経済も少しは調子良くなるのではないでしょうか。
「一度きりの人生、仕事も遊びもエンジョイ」のような揚々とした感性がセンターポイントとなる日本最大のノマドコミュニティ、ノマドニアは公開から2年で400人を突破しました。
これだけ人数がいればいろんな機会があるので、今日にだけ限ってもタイ、アメリカ、ジョージア、ルワンダにいる日本人ノマドたちとプロジェクトを進行しています。たまにどこかの国で会うと嬉しくて酒を飲み過ぎてしまうのが傷です。
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