苦労は糧になるが盾にはならない
ぼくはけっこう悪いヤツです。
他人を陥れて嘲笑うタイプの人間です。
具体的には、
男性芸人が女性芸人にブスと言っていると笑います。
女性芸人が男性芸人にブスと言っていると笑います。
Twitterで個性的な人を晒しあげておもちゃにします。
全く悪気はありませんので、改善の余地もありません。
ガンジーでさえも暗殺されるこの世界で、100人が100人聖人である可能性がゼロであることは明らかです。
ものごとの善悪という概念は人工物であり、極悪と言われる『殺生』ですら、自然の摂理の中で100%悪と断言するには無理があります。
歴史上で殺生を繰り返し、ヒーローとされる人もいますが、遺族側からみれば憎しみが絶えません。
”善悪の基準”は個人によって異なります。
それでは収集がつかないので、人類は法律を作りました。
法はとても便利です。
法は人間にとって都合のいい社会を作るフレームであり、秩序を整えてくれます。
しかし、人間社会はアリやミツバチの社会に比べると、たいそう自然の摂理に逆らっているため、とても不安定です。
法律遵守のもとでも、マナーやモラルを遵守していかなければ、社会は乱れます。
マナーやモラルという不完全な定義は欠陥が多く(欠陥がなければ法になっている)、見方によっては『法の落ち武者』。それを利用しているともいえます。
マナーやモラルは法と異なり、明確なものさしが無いため、やがて人々は個人のものさしで善悪を区別するようになりました。
「自分が不快に思うものは悪」
「自分が愉快に思うものは善」
そう思っているうちは平和なものの、
ソーシャルメディアの普及とともに、人間は個人の善悪で他人を裁くようになりました。
人類総裁判長時代です。
ここで一度、この記事の冒頭部分を引用します。
この時点で読者の行動は分岐します。
「自分が不快に思うものは悪」
→右にスワイプ
「自分が愉快に思うものは善」
→下にスクロール
タイトルは全体像が把握できないようにし、
クセの強い内容なので、間違えて入ってきてしまった人に対してこのように行動を分岐させてみました。
よって、ここまで読んでいただいている方は『芸人ブス発言』に逐一、悪い気はしていないと予想します。
この記事の冒頭で分岐した読者は、個人のものさしで善悪の判断をしたにすぎず、あくまでも個人の思想にとどまります。
ここからは、個人のものさしで他人を裁く裁判長の話へと移っていきます。
矛盾したような話ですが、ぼくもまた裁判長なのです。ぼく個人のものさしでは、”裁けない裁判長は悪だ”と感じるので、裁けない裁判長を明確に否定します。
ぼくは、生活中でTwitterという匿名性の高いミニブログのソーシャルメディアを主に利用していますが、そこには、多くの裁けない裁判長がいます。
Twitterの利用者はとても多いもので、日々多くのひとが何気ない日常を投稿したり、感動したものや共感したものをフォローで繋がるコミュニティへと共有しています。
Twitterのユーザーは大きく分けて二種類に分けることができ、上の一文から要素を抽出します。
・何気ない日常を投稿
→発信者
・感動したものや共感したものをフォローで繋がるコミュニティへと共有
→閲覧者
全体に対して、発信者の割合は1%にも満たないと感じています。
単刀直入に言うと、ひとつの情報発信に対して全ての閲覧者(ユーザーの99%)が善と判断する可能性はゼロです。繰り返しますが、ゼロです。
世界最強のインフルエンサーである「猫」の写真や動画であっても、悪とするひとは少なからず存在します。
服を着た猫を見て、幸せな気持ちになるひともいれば、猫を哀れむ気持ちになるひともいるのです。
今回の否定ターゲットは、ひとつの情報発信に対して善悪の解釈が分かれて当然の世界で、
「自分が不快に思っているからみんな不快に思っている」
これを突きつけてくるひと。すなわち裁けない裁判長と化した人です。
ぼくの好きな画像にこのようなものがあります。
自分のものさしで悪と感じたものを、空っぽのエビデンスを掲げて裁きにかかってきます。
以下はプロによる精巧なコラージュ画像であり、決してぼくに寄せられたダイレクトメッセージでは無いのですが、具体例として掲載しておきます。コラージュですよコラージュ。
「申し訳...」、「クレーマーではない」、「共通の知人」を保身と言う名の盾を使いつつ、多くの人を守るために、正義のヒーローに憧れたのか裁判長役を買って出ています。
実に勇敢な印象を受けます。
しかし、ひとつの発信内容に対して閲覧者は常に善悪の解釈が分かれます。
爪を切ると短くなるくらい当たり前のことです。
当たり前のことを耳打ちされたら、それはギャグとして面白いので、共有したくなってしまいます。
メロンを持って歩いていて、知らない人にいきなり「メロンは甘い」と言われたら怖いか面白いかのどちらかです。
どちらにせよ、友達に会ったら伝えたい事件です。
これが、裁けない裁判長の姿の例です。
多くの情報を見ていると不快なものも多々ありますが、裁けないものは裁きにかからなくても良いのではないでしょうか。
そして驚くべきことに、ようやく前置きが終わりました。
苦労は糧になるが盾にはならない
昨日、このようなツイートをしました。
ここでも冒頭の例のように、”解釈の分岐”が起こります。
このように分岐の想定を立てたので、前者は元気付けることができます。
後者は裁いてくるので、裁かれるならば裁かれてぼくが成長することができます。
見知らぬだれかが裁けない裁きをくだしてくるならば、ぼくは悪いヤツなのでおもちゃ箱行きにします。
これらの共通項は苦労を盾に裁けない裁きを下していることです。
みなさん過去に辛いことは幾度となくあったことでしょう。
不毛な煽りの通りに不毛な回答をしていくならば、
と、実にどうでもいいです。
苦労自慢の相撲なんてこれほどに不毛です。
偉そうな言い方をしますが、
彼らと、ぼくには決定的な違いがあります。
苦労を盾にしているか糧にしているかです。
苦労を盾にしようと矛にしようと装備品としては役に立ちません。
苦労を糧にし始めると、苦労が欲しくなるので自ら苦労の環境を作りに向かいます。
そうしてぼくは無一文から始まる世界放浪の旅をしていました。
3日間水分を摂取していないときは一時危険かと思うような状況もありましたが、その経験が糧となって過剰なほどの自信に繋がっています。
ましてや他人のインターネット投稿で感情が沈むなんてことはありません。
苦労は糧になるが盾にはならない。
苦労はおいしいですよ。どうぞ、召し上がれ。
Twitterでは、このような「本当のこと」をボヤいています。本当のことって、耳が痛いですよね。