困っている人がいたら助ける。ただそれだけ。
帰宅ラッシュ時間の品川駅。ホームで人が倒れた。
ぼくは肩を抱えて一人の女性に駅員に連絡してもらうように伝えた。
スーツを着た人々は倒れた人の周りは早足で歩く。
そのひとたちは、一体何を考えて通り過ぎるのだろうか。
なぜ通り過ぎることが出来るのだろうか。
ぼくはこの世界を勘違いしていた。「困っている人がいたら助ける」ということは、誰にでもできることではなかった。
2022年2月28日 戦争が始まった。
ぼくは南コーカサスに位置し、東欧とも呼べるジョージアを生活拠点にしている。しかし、戦争の火蓋が切って落とされたそのときはタイの首都バンコクにいた。
ネットニュースは戦争のトピックで持ちきり。
1日3時間以上は戦争にまつわるニュースを見ていた。
見ていただけだった。
日本に帰省していたある日、このようなTwitter投稿を目にした。
帰省したばかりのぼくは、日本でのすべての予定を無くし、ポーランド行きの航空券を取得。
ポーランドは寒いらしい。ジョージアで冬服に着替えてからポーランドに向かった。
3月21日
ポーランドの旧都クラクフに着いた。
この地には知り合いもおらず、土地勘も無い。
これが俗に言う「右も左もわからない」状態だ。
人道支援組織やボランティア団体の募集要項には基本的にロシア語・ウクライナ語・ポーランド語の言語スキルが求められている。
ぼくのスキルセットは日本語・韓国語・英語なので、ちっとも役に立たない。
勢いよく来てみたはいいが、「もしかして自分はこの地に不要なのではないか」そんな疑念を抱いた。
さらに、手段が目的となりボランティアをしたいがためのボランティアになることを恐れた。
ネットの情報も乏しく、現場の現状がわからないため国境に向かうことにした。
小鳥のさえずりと旧市街が美しいクラクフの町並みに心酔していたものの、クラクフ駅に着いた瞬間に現実を察知した。
構内の椅子は全て埋まっていて、物資配給の窓口には長蛇の列。様々な情報が記された張り紙。その目で避難民の現状を確認した初めての瞬間だ。
いままでに体験したことのないほどの自分の気の引き締まりを感じた。
クラクフ駅の窓口で国境の最寄り駅、プシェミシル駅までの乗車券を購入。電車は数分後に来るから急がなければならないと思ったが、1時間遅れているらしい。
電車を待っている間はクラクフ駅の構内を散策した。
その最中にひとりのジャーナリストを発見。首からは日本パスポートを下げている。
朝日新聞国際報道部の遠藤さんだ。
ちょうど取材を終えたタイミングで30分ほどお茶し、共通の知人の話やポーランド,ウクライナの情報を共有した。共有と言っても、一方的に教えてもらったことがほとんど。
そんな偶然の出会いがあったクラクフから電車に揺られること2時間。国境の最寄り駅、プシェミシル駅に着いた。
この駅からはポーランド国内の都市だけではなく、ベルリンなどにも直通の電車が出ている。
駅舎の中は多くの避難民が待機しており、多くのボランティアスタッフが配給や案内の活動をしていた。
そんなプシェミシル駅の現状を視察した上で、ぼくに出来ることは何も思い浮かばなかった。
「もしかして自分はこの地に不要なのではないか」という疑念や、「手段が目的となりボランティアをしたいがためのボランティアになること」への恐れも相まって、まるで何かの行動を起こせるようなメンタリティではない。
疑念や恐れはきっと無知から生まれるものだと仮説を立て、この日は国境のボランティアの宿場町となるジェシュフのゲストハウスに情報収集をしに行くことにした。
ゲストハウスに行けば情報があるという謎の確信は、なぜか正解だった。ドミトリーにチェックインして数分後、ひとりの男性がチェックインしてきた。
その男性の名はアンディー。この出会いからすべてが連鎖的に動き出す。
部屋にチェックインしてきたアンディーは、すぐにぼくに話しかけてきた。
「Hi, Are you Korean?」
ぼくを見た目で韓国人だとわかるひとはアジアでもほとんどいない。
謎の千里眼によって当てられた驚きから会話が続くことは容易だった。
その日はアンディーと部屋でビールを飲んだ。
アンディーはフリーランスとしてポーランドのテレビ局のカメラマンアシスタントをしている。上司がウクライナ人のため、ボランティア活動のため3週間の休暇を取得することは難しくなかったようだ。団体には加盟せず、ぼくと同じく個人でボランティア活動をしている。直近の1週間は国境で炊き出しの手伝いをしていたそうだ。
彼はボランティア活動をするにあたって、友人からは「ウクライナ人なんか助けるな」という否定的な声も受けたが、本人は気にしていないようだ。
避難民に対して本気の受け入れ体制を取るポーランドだが、民間のだれしもが賛成なわけではない。
反対派は避難民の受け入れで人口増加による家賃高騰や、働き口の減少が主な理由だそう。
開戦後のポーランドの現状の他、メジャーなレンタカーサービスや、英語で放送されるインターネットラジオ、国境は8つあって主に2箇所が忙しい、その日に何人が国境を越えてくるかはだれにも予想がつかず、人の流れに波があるなど、たくさんの情報を教えてくれた。
この夜、全くの無知だったぼくの脳は十分な情報で潤った。
また、アンディーは支援活動を恒久的に続けていきたいが、資金的な問題があるので仕事に戻らなければならないことを課題視していた。多くの活動家は早かれ遅かれこの問題に直面するだろう。
ぼくはポーランドに来るにあたって、持続可能性のある支援の形を模索している。その取組のはじめの一歩として、日本の友人から預かった活動資金の一部をアンディーに渡した。
ぼくたちはシェンゲン協定内のビザなし滞在期間が3ヵ月など、外国人としてなにかと制限のある中での活動となる。しかし、ポーランド人活動家のアンディーのようなひとが恒久的に活動したほうが長期的な価値がある。
彼のような現地活動家を支援することは、避難民支援において本質的だと思った。
彼も1泊1000円のドミトリーでお金に出会うなんて思わなかっただろう。
情報をこさえたぼくは、再び国境に向かった。1日ぶりのプシェミシル駅。昨日よりすこし待機者が増えている気がした。
この日はプシェミシル駅から、国境のメディカへ。
駅からは国境はタクシーで15分だが、白タクのため3000円かかる。配車アプリを使った場合の4倍くらいだ。やたらと高い。
国境では世界中から様々な団体がテントを出しており、物資・食料・医療のサポート体制が整備されていた。
国境から出てきた避難民は、ここで一時的な休憩をし、無料の巡回バスでプシェミシル駅に向かう。
また、国境メディカでは朝日新聞国際報道部の遠藤さんと再会した。国境を渡ってきた避難民にインタビューしているところ便乗して情報収集をした。
ポーランドの大学で日本語を教えている通訳の日本人女性は、青汁王子が大好きらしい。なんでその話になったんだろう。
この国境に来てみてわかったことは、ほとんどの避難民は行き先が決まった状態で越境してきている。
開戦直後は一心不乱に出国してきた人もいたかもしれないが、海鮮から1ヵ月が経つというタイミングではポーランドやその他の国でホストファミリーと連絡をとった上で移動してくる人が多い。
すなわち、逆を言えば「アテ」が無いと出たくても出れないひとの存在を予見した。
国境の視察を終え、再びプシェミシル駅に戻ると、ここでは聞こえるはずのない音が聞こえてきた。
韓国語でアリランの生歌が聞こえる。しかもなかなか下手だ。
音の聞こえるほうを見ると、駅舎の前で韓国人男性3人が路上ライブをしていた。
BTSのようなアイドル系ではなく、ソジュがよく似合いそうなおじさんトリオだ。
国境を越えて疲弊した避難民が待機する、やや緊迫感のあるプシェミシル駅の前で誰も知らない韓国語で誰も知らない韓国の歌を歌うのは、フルスイングで空気が読めないおじさんたちだという印象だ。
反面、目立ちすぎてかなり気になるので話しかけることに。まずは歌わされた。ちなみに韓国人の年長者の前ではこのような物事の順序や礼儀は日本以上に重要である。
おじさんズのメンバーに加入したところで、ようやく話を聞かせてもらった。「自分たちに出来ることをしよう」と国境に物資を届けて、駅舎に待機する避難民を励ますため歌っているとのこと。
果たしてそれが避難民の励みになるのかという疑問は晴れないものの、ぼくはおじさんズ、いや、バンド仲間たちから大きな気づきを得た。
「相手がどう思うか気にせず、行動すること」
相手がどう思うかは気にするべきなのは間違いないが、気にしすぎると保守的になって何もすることができなくなる。それならいっそ、気にしないくらいのマインドのほうがアクションを起こせる。そう気づかせてくれた。
おじさんズの歌声によって避難民が勇気づけられたかはわからないが、彼らの存在は確実にぼくの背中を押した。
ゲストハウスで出会ったアンディーは西のヴロツワフという街に住んでいる。
アンディーはヴロツワフでオランダ人のレストランチームの炊き出しに参加するとのことで、ぼくも参加するため一旦国境地域を後にし、西に500kmのヴロツワフへと移動した。
朝9時から夕方5時にかけて行う配給は、人々が絶えず訪れる。
そんな忙しさの中、近隣に済む日本人の駐妻さんたちも加勢してくれた。
そんな怒涛の炊き出し後に、レストランチームのみんなで飲みに行くビールは格別だ。
そんな炊き出し活動の最中、ぼくがポーランドに行くきっかけとなったSho Itoさんから依頼が。
国境からは500km離れているが、朝一の電車で向かえば間に合うだろう。
昼過ぎの到着を目指したが、実際は夕方に着いた。
炊き出しの慣れない立ち仕事と、根性の立ち乗り乗車で軽度のぎっくり腰とぎっくり背中が華麗にコラボ発生していた。
そんな日々の活動の様子や発信を見て、友人たちからの支援金が集まり始めた。自分がひとの発信に影響を受けたように、ぼくも誰かに影響できたことを嬉しく思う。
ちなみに、支援金の記録帳簿は誰でも見れるように公開している。
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1DNRCfLTqRr3rVvaST_H5YBftebg58zR2qBf1zMtMgpE/edit?usp=sharing
再びやってきた国境の最寄り駅、プシェミシル。
昼過ぎにポーランド側に出てくる予定の避難民1名は、夕方時点でまだウクライナ側の国境に並んでいるようだ。
その日はちょうどリヴィウにミサイルが落ちた。
避難中の彼女はどのような心情なのだろう。今朝までいた街にミサイルが落ちている。メッセージではなんともなさそうだが、きっと不安に違いない。
リヴィウから14時に国境に着いた避難民は、なんと20時になってもウクライナ側でまだ列に並んでいるとのこと。夜になって気温も下がり始め、体感気温は9℃。最悪なことに雨がパラつき始めた。
23時。
23歳初海外のウクライナ人、ルナと合流。国境行列8時間、シャトルバス待ち1時間、電車待ち5時間。地元は戦禍で未来は不明。
これが現場のリアルだ。
その日はお互いの体力は限界に達していることもあり、始発を待たずタクシーで宿場町まで移動。数少ないホテルを当日予約し、ようやく寝れたのは3時半になってからだ。
合流した避難民と話していて、疑問に思うことがあった。
日本は退避可能な国だが、なぜ日本に行くのか。
彼女の答えは「日本食や日本文化への興味」。
客観的には非常に薄い理由であることは間違いない。日本への退避希望を阻止する権利はないが、現実は伝えた。それでも行くというならば、出来るだけの支援はする。
国境で合流した翌日、彼女は風邪を引いていた。そりゃそうだ。
ワルシャワに戻るとまずは日本行きのビザ申請。ぼくが保証人となり、24時間でビザがおりた。
そこからは依頼元のSho Itoさんにバトンタッチし、日本での受け入れを進めた。
これまでのフィジカルな動きの間に、オンライン上でも進めていることがあった。
避難民支援活動のDX化だ。
この時点でのポーランド内の日本人活動家は「即行動」のエネルギッシュな人たちばかり。ようするに効率や細かいことを後回しにしているため、いっぱいいっぱいになってきているところだった。
そんな活動家の現状を、クラクフ在住でガイド業をしているウプシュイックあやかさんに、インタビューという形で直接聞いてみた。
チャンネル運営者のばりかたさんは、ぼくのTwitter投稿を見てマルタから駆けつけてくれて、動画編集者のオカザーマンはジョージアから編集技術で支援してくれた。
インターネットがある時代に生きているんだから「得意」はどこにいても発揮できる。
そんなノマドボランティアの叡智・技術を結集できる場として一つのSlackワークスペースを立ち上げた。
友人からの紹介や、SNSで見つけてくれた人たちが続々と集まり、メンバーは各セクションで主体的に課題をキャッチアップし、解決に導いている。
活動における会議やマニュアルはほとんどなし。チームでもないけど個人でもない。主体性だけで成り立つ優秀な空間。
便宜上、後に団体名としてUkrine to Japanと名づけられた。
そんなUkrine to Japan後援のもあって、前例の少なく情報も曖昧な環境の中、日本に渡るルナの様子は日テレのニュースで放送された。
ぶつけ本番の取材なので、なんの言葉も用意していなかったけど、自然に出てきたシンプルな言葉がぼくの意識そのもの。とくに難しいことは考えていないし、知能的にそこまで難しいことを考えることはできない。
まっすぐ、正直に、ただ進めばいい。
仕事のため一時帰国する必要があり、現地活動家としてぼく後任に名乗り出てくれた人が見つかったため、ここから1ヶ月は後方支援側にポジションを変更。
ぼくがいなくても現地活動が回るように、仕組み化や人員募集の土台を整備する課題を背負って復路の飛行機に乗った。
(続く)
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Ukraine to Japan では、ポーランドでの現地活動家を随時募集しています。
英語かロシア語かポーランド語かウクライナ語が話せて、心身がたくましく、自身の生活に余裕があり、1ヶ月くらい滞在でき、念のため運転免許証保持者が理想です。
該当する方はTwitterからDMください。
https://twitter.com/Luck81O
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