不死身の男、死す ~最後の武闘派一代記~
若い頃にさんざん世話になった居酒屋のママから電話が来て、その夫である大将が亡くなった、と知らされた。
大将はたしか、70代後半であったはず。
いっぽうママは80代で、今も元気いっぱいである。
大将は、おそらく日本最後の、真の武闘派であった。
追悼の意をこめて、この機にひとりの武闘派の思い出を、まとめておきたい。
※
亡くなった大将は、空手の有段者であった。
大手の重工業会社に勤める技術者でもあり、全国の現場を飛び回った。
肩幅も顔も大きかったが、何と言ってもその声が大きかった。
地下鉄の敷設現場では、
「ひと駅ぶん隣まで声が届くのは、あいつだけだ」
と言われた。
とにかくケンカに強く、かなりの年輩になってからも、暴走族数十人を相手に大立ち回りを演じ、ひとりで勝ってしまうような人であった。
※
ケンカの現場には、常にいた。
あるとき、いつものように街でケンカがあり、やってきた警察官が大将へこう言った。
「お前、いつでもいるよな。なんでいるのよ?」
「はい、仲裁に来ました」
※
そんな大将は、前科一犯の栄光に輝く男である。
強姦を阻止して、過剰防衛で1年ほど食らった。
ことの起こりは……
ママと結婚して数年しかたっていなかった昔日のある夜、大将は空手のお師匠さんと飲んで繁華街を歩いていた。
すると道端に、1人の女性と、その女性へ乱暴を働こうとしているけしからぬ男が1人。
男は今で言う反社会勢力の者であった、とのちに分かる。
いずれにせよ空手の師匠はその場で大将に、
「おい、お前。ちょっと行ってとめて来なさい」
「ハッ」
ここで師匠はニヤリとし、
「命まではとるなよ」
「ハハッ」
大将はスタスタと2人へ近づき、
「あんた、やめれってホレ」
すると男は、
「俺の女に何しようと勝手だべや!」
という言い方をしたそうな。
そこで大将、こんどは女性に、
「あんた、この人の彼女か」
「いいえ! ぜんぜん知らない人です」
「ホレあんた、この人、あんたのこと知らないって言ってるべさ。したらホレ、この人あんたの彼女でないべさ。したっけホレ、あんたの言ってることおかしいべさ」
「なんだてめえ」
「なんだこの野郎」
すぐに、ケンカになった。
なるほどケンカ屋さん同士、話が早い。
それでも大将は、まず相手に2、3発殴らせた。
いっこう効かない。
続いて大将は、
「お前、10秒であの世行くのと、10秒で一生不自由な身体んなるのとどっちがいい? 好きなほう選べ」
「あぁ?」
「分かった分かった。10秒で一生不自由な身体にしてやる」
と言ったのは、さすがに師匠から「命まではとるなよ」ととめられていたからであろうか。
かくして大将は、相手の膝を軽くぽーんと1回だけ蹴った。
その瞬間、膝の皿は複雑骨折!
大将は正当防衛が認められず、あわれ御用と相成った。
そんなこととはつゆ知らず、いつものように店をやっていたママのもとへ、警察から1本の電話。
「奥さーん。おたくのご主人逮捕されましたんで、申し訳ないんだけどハンコ持って署まで来てくれます?」
そのときのことを、のちにママは述懐し、
「警察につかまるときってハンコいるんだね。おばさん知らなかったよ、すんどめちゃん」
感心するポイントが、ちと違うママなのであった。
※
小学校時代の大将にはYという同級生がいた。
Y氏もまた、すでに故人である。
すんどめがYを知った頃、すでに彼は引退した元プロ・ボクサーであり、反社会勢力の元構成員であり、そして現役の市民運動家であった。
運動家とはどういうことかというと、Y氏はそのルーツによっていわれのない差別を子どもの頃から受けており、そういった人権問題に関し人々を啓発する活動を、独自の見解によって展開していたのである。
そうしたYに対し、大将はなんの分け隔ても偏見もなく、いち友人として幼い頃から接し、ために二人の友情は長年にわたってYが亡くなるまで続く。
それにしても、Yのファッションは怖かった。
すんどめはYに初めて会って話したとき、なんの予備知識もなかったため、まるで反社会勢力の人のようだなアと思った。
が、ずっとあとになって、大将とママが口をそろえて、
「Yはやくざだよ。なに言ってんの」
「えっ! ほんものっすか?!」
「ほんものだよ。当たり前じゃん」
なんでもYがまだ現役の「その筋」だったある夜、大勢の子分か弟分か分からぬが、とにかく若い人たちを連れて店へ飲みに来た。
大将はいつものように、
「おう、Y!」
そのとたん、大将をぐるりと囲む若い衆。
「Yさん、いいんですか。こんなこと言わしといて」
するとY氏は、
「ああ、やめとけやめとけ。お前らが束んなってもかなう相手じゃねえ」
かたや空手の有段者。
かたや元プロ・ボクサー。
二人は、
「お互い60になったら決闘しようね」
固い約束を交わしていたが、還暦を目前にしたYの発病と、その後の長い闘病とのために、ついにその約束は果たされることがなかった。
※
居酒屋の経営はママが一手に引き受け、大将は現場のないとき、あるいは技術職を引退後、店でママを手伝った。
そもそもこの店、戦前から続く老舗である(ママは2代目)。
しかも、学生街に位置している。
ママと大将は、数えきれない学生たちを長年にわたってかわいがった。
尋常なかわいがり方ではない。
親代わりとは、まさにこの二人のためにある言葉であった。
山岳部の女の子が山で遭難し、下山して入院したと聞けば、二人は下着から湯たんぽから、あらゆるものを用意して駆けつけた。
そもそもそんな情報がすぐに入ってくるのも、当の女の子自身が親よりも早くこの店に電話をかけて、
「おじさん。おばさん。心配かけてごめん……」
泣きながら謝るからであった。
大将は例のバカでかい声で、
「お前! そのままじっとしてれ! なんもすんなお前! な、言ったべ? 山なんてそんな甘いもんでなかったべ? タオルも着替えも、必要なもんはママがぜんぶ持ってくから、そこに寝てれ!」
心優しく恫喝するのであった。
このように、親元を離れた学生たちの親代わりとなって、なにくれとなく面倒を見る、ママと大将。
いつしか実家の親たちから、
「うちの子をなんとか卒業させてやって下さい。お願いします……」
と託される始末。
そんなとき大将は、当の学生へ向かって、
「いいかお前! 単位1つ落っことすたんびに、ゲンコツ10発だぞ!」
くり返すが、大将は空手の有段者である。
簡単に「ゲンコツ」と言っているが、余人のゲンコツとは違い大将のそれはりっぱな凶器ではないか。
この「激励」はさすがに効果てきめんだったと見え、学生は一念発起の猛勉強。
無事に卒業していったという。
※
このようにママと大将の店にはたくさんの学生たちが通っていたのだが、中でも大学応援団は長年にわたる常連であった。
ところが、である。
大将はあるとき、
「俺が援団をつぶす!!」
烈火のごとく怒り狂ったことがあるという。
それは、応援団の連中が店で酔っぱらった挙句、大将の大切な着物を血だらけにしたからであった。
恐らく壁際のエモンカケにでもかけてあった着物へ、酔った団員が倒れかかっておおかた顔でも強打し、鼻血でも噴射したのであろう。
猛り狂って吠えまくる大将。
すると応援団の歴代OBたちが店に大集結し、大将の前でいっせいに土下座をした。
「あの子たち土下座上手なんだよ~、すんどめちゃん。あの土下座見たら、許さないわけにいかないもんね~」
やはり感心するポイントがやや違う、ママなのであった。
※
さてこの豪傑、若い頃はいったいどんな人だったのだろう。
なんでも大将は19歳だった年の元旦、北海道は襟裳岬の崖から酷寒の太平洋へ単身飛びこんでいる。
なんのためにそんなことをやったか。
それは、単にやってみたかったからやってみたのである。
「命なんていらないと思ってる年頃だもんね」
と、ママはばっさり切り捨てたものだ。
大将は、厳冬の大海原へ飛びこむ方法をすんどめに教えてくれた。
いや、別にやってみるつもりはないのだが……
ともあれ、いきなり崖の上から身を躍らせるわけではない。
ふんどし一丁になり、なんと身体にふとんを巻き付けて、まずは波打ち際からゆっくりと海へ入っていく。
むろん、すぐさまふとんに水がしみてきて、飛び上がるほど冷たい。
しかし、慣れてしまえば水の中にいる方が温かいのは周知のとおりである。
こうして水温に慣れたのち、ゆっくりと海から上がる。
冷たい水でびっしょびしょのふとんは身体に巻きつけたまま、トボトボ歩いて崖の上まで登る。
さぞや重たいことだろう。
そんなことまでして飛びこみをしたいか?!
という疑問はさておき、こうして岬の突端まで来た大将は、やにわにバッ! とふとんを脱ぎ捨てる。
すなわち、ふんどし一丁で厳寒の襟裳の強風に立つのである。
言うまでもなく、耐えがたい酷寒!
しかしその一瞬、ためらうことなく大将は跳躍!!
寒さを感じるよりも先に海中へダイブをする、というわけだ。
さて折しも、岬の近くで車を停めてタバコを吸っている大人がいた。
運の悪いことに、それは「北海道新聞」か「北海タイムス」の記者であった。
「な……なんだ、あいつは!?」
仰天した記者はすかさず大将の飛びこみを写真に撮り、「正月のバカ」みたいな記事にしてしまった。
これで実家のお父さんにバレ、電話でこってりとあぶらをしぼられた大将であった。
※
ふんどし一丁で1月の襟裳の海を泳いでも死ななかった不死身の男が、年老いて死んだ。
不死身の人が死ぬ、というのは、やはり何らかの時代の終わりであろうか。
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