笑いに自信が持てない時代

今の創作と昔の創作で決定的に違うことは、何か。
それは、笑いに対する自信である。
昔の創作作品群は、明らかに自らの「笑い」に自信を持っている。
それが受けないことも、気づかれないことも、まるで恐れていない。

たとえば1937年の映画『スタア誕生』(ウィリアム・A・ウェルマン監督、米)を観よ。
ヒロインたる田舎娘が女優を夢見て家出。
祖母が、その家出をひそかに手伝う。
しかし祖母と、ヒロインのおばとは仲が悪く、またおばは女優を目指す姪に大反対している。
だから家出をするとき、ヒロインは祖母に言う。
「おばさんが知ったら腰を抜かすわね」
すると祖母は、
「それを30年間夢見たわ」
この痛烈なユーモア(あるいはエスプリ)に、すんどめは腹を抱えて笑ったが、しかしこれに対してヒロイン側からのフォローは、何もない。
すぐ次の会話へ入るだけである。

また、同映画にはこんなシーンもある。
キャンピング・カーのようなもので新婚旅行中のカップル。
山中、車の不調で立ち往生を余儀なくされ、夫は車内のシャワーを浴びるのだが、そこへ天の助けか1台の車がやってくる。
すると妻は夫を外へ出し、助けを求めるようにとせかす。
「風邪をひくよ」
と文句を言う夫に対し、
「後にして」
ここでもまた、妻の仕打ちに対する夫のつっこみは特にない。
そう。
本来、つっこむのは「視聴者の役割」なのである。

昔の映画にはこうした笑いが頻繁に見られ、実に楽しい。
そしてこうした笑いに接するたび、
「こういうのって現代の映画にはないな」
と思ってしまう。
いや、映画どころか、小説、マンガ、CM、そして恐ろしいことにお笑いそのものにまで、「ない」と感じてしまう。
何が違うのか。
それは明らかである。
現代の笑いには必ず、それが発せられた直後に、
「え!? そこ、つっこむ?」
だの、
「こいつどんだけ〇〇なの」
だの、
「なんやこいつ~」
だの、
「ダメじゃん」
だの、
「そっちじゃねーよ!」
だの、
「それめっちゃ〇〇なやつじゃん」
だのと、登場人物自身が手垢のついた退屈な言葉でフォローをしてしまう。
笑い声が入るアメリカのホーム・ドラマというのも古い手法ではあるが、それとはまた別の手法で、ハイここは笑うところですよ、とオーディエンスに押しつけてしまっている。
文字通り、
「こいつどんだけ、自分の笑いに自信ないの」
である。

現代とは何か。
もしかすると、プロの作り手たちが自らの笑いに自信が持てなくなって以降が、現代なのかも知れない。

(引用はすべて記憶によるもの。)

拙著『シェーンの誤謬』 ここから購入できます
https://www.amazon.co.jp/dp/B07FYT4Q65/


いいなと思ったら応援しよう!