「あの頃は良かった」を覆す波は、いつだってすぐそこまで来ている。
時間は流れ、世の中の動きは常に留まることを知らず、動いています。
人は、「自分の居心地の良かった環境」にある程度固執し、その環境が変わろうとする時、感覚的に「あの頃は良かった」と感じることもあるのかもしれないと思います。
それを「あの頃は良かった」と口にする人もいれば、そうでない人もいる。
私は、どちらかというと、「あの頃は良かった」と思わない方です。
そういう形で昔のことを、殆ど思い出さない。
過去に起きた出来事を、「今の自分ならどう捉えるだろうか?」「今なら、こんな風に対応できただろうなぁ。」と、反省したり、過去の対応を恥ずかしく情けなく、ふと思い返すことはあるのですが、「あの頃は良かった!あの時に戻りたい!」と思ったことが実は、一度もないのです。
過去の記憶は本人が意識しないところで、「ものすご~く素敵な出来事」として美化されていたり、逆に、起きていた出来事以上に「自分は傷ついたという事実」に基づき、「ものすご~くひどい出来事」としてファイルされ、時々何かをきっかけにその記憶が自分の「記憶ファイル」から出し入れされている気がします。
おそらく、「あの頃は良かった!」の中にも、大変なことや、辛い経験もあったはずなのです。それでも、その中に、わずかでも、〈今の自分の置かれていいる状況より、居心地の良い場所があった〉という記憶がある場合には、「あの頃は良かった!」という気持ちになるのかもしれません。
そんなことを改めて考えたのは、学校でも、会社でも、子育てでも、社会において、明らかに圧力をかけるような、「昔は良かった」「自分の時はこうしてやってきた」という発言を、様々な場面で耳にした時に、私の中には、心がざわざわっとする大きな違和感が湧き上がるからです。
長男を出産し、布おむつを使っていたら、母親に、「私は布おむつ一枚一枚にアイロンをかけていた」と言われた時ことがありました。「布おむつの縁が赤ちゃんの肌にあたったら可哀想でしょ。」という理由でした。
へ~。なるほどね。
私は、干す時にできるだけシワ伸ばし、気をつけることもできるし、アイロンは不要だと思いました。アイロンかける時間があるなら、お母さんも昼寝でもして、元気を蓄える方が良いと思うのです。赤ちゃんにとっても、夫にとっても、できるだけ元気で機嫌のよいお母さんや妻が隣に居てくれた方が良かろうと。
「ただでさえ、産後で大変なのに、おむつにアイロンとか無理。おむつにアイロンかけなくても、赤ちゃんは育つから大丈夫。」と、母に伝えたことがあります。
内心では「意味がわからないんですけど。産後にそんなことできるか!!!」と思っていました。
首の据わらない子どもを毎日、毎日、生かしておくだけでも、スゴイことです。そこにどれだけ心身の全神経を集中し、目に見えない責任を感じているる。だから、それ以上のことを無理にしなくていいと思うのです。
きっと、母は、自分が子どものために頑張ってしたこと、大変だったことを、自分の子育てそのものを、認めて欲しかったのだろうな、と産後しばらくしてから思いました。
話が逸れました。
こういう「昔は、こんな風にしていた」「昔は良かった」という発言は、「昔は、どんな風にしてました?」「この事柄に対して、以前はどんな風に取り組んでいましたか?」という問いかけがあって、初めて現れる発言なのではないのかな、と。
「昔は良かった自分の立場」を保持しようとか、「昔は良かった自分の居心地の良い場所」を懐かしく思う気持ちもあるのだろうと思います。
純粋にその「過去の空気」を懐かしく思い出す場合も、もちろんあると思います。「あの時代はね、こんな感じだったのよ、」とおばあちゃんたちが懐かしくやさしく語るような気持ちで。
純粋に、「いいやり方だから教えてあげよう」とう気持ちも、あるのかもしれません。
よいときも、そうでないときも、時は脈々と流れていきます。
変わるもの、変わらないもの。
遺るもの、遺らないもの。
形を変えながら、遺っていくもの。
いつのまにか姿を消しているもの。
いろいろあります。
時代の流れという大きな波はいつでもやってきます。
それを留めることは、誰にもできないのだと思います。
その波に頑なに立ち向かうのか、
波の頃合いを見計らい、波の強さ、高さを感じ、乗りこなすか。
タイミングを合わせ、ひょいと軽く乗り越えて次の景色を観るのか。
波は寄せては返します。
波が来ない海では、水が澱み、生き物は絶えてしまうでしょう。
波は、新鮮な空気も運び入れてもくれます。
波をどう捉えるか。
どう乗り越え、乗りこなしていくのか。
自分次第。
自分次第、って好きなことばです。
そこには、自分でどのようにでも選択できるという自由があるのですから。
おおなみ こなみ ぐるりとまわって にゃんこのめ