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刺し子をしながら

刺し子をしながら、こう考えた。
なんて書いたら夏目漱石先生に叱られるかしらん。
でも、チクチクと手を動かしているとき、心の中や頭の中を整理しするのにはいい時間。チクチクしながら頭の中に思っていたのは、亡くなった方の供養のこと。

思っていたひとつは、私の母方の祖母の命日だった日の母との会話のこと。
母は祖母の命日にも体調が悪くてお墓参りに行けなかったので、母の実家に行ってお仏壇にお線香をあげて、母の弟(私のおじさん)とお茶飲みながら、ちょこっと世間話をして帰って来たよ、と言っていました。


方言か分からないけど母は命日の事を「オタチビ」と呼んでいます。
「オタチビ」ってどういう字を書くの?」と聞くと
「サア、知らんけど、昔からオタチビっていうナア」と特に気にしていない様子。

恐らく、旅立つ意味の「旅立つ日」の事を「オタチビ」と呼ぶのだと思います。

「オタチビ」と言う言葉からは、死者を弔ったり葬ったりする宗教的な響きはあまり感じられません。亡くなった親しかった人を偲ぶ気持ちが良く表されてるなあと思います。


もうひとつ頭の中にあることは、先日、実家に帰った折のこと。
父が仏壇に手を合わせているのを見て
「お父さんは何を思って手を合わせとるの?」とフト聞いてみたら
「うーん、イヤ。特に何も。」と返事が返ってきました。
そしれにしてはいつも熱心に時間をかけて手を合わせているし、お経もあげているから父には信心があってやっていると思っていた。ずいぶん意外な返事だった。
「それじゃ、ご先祖様や仏様に、ありがとうって気持ちで手を合わせているんじゃ無かったの?」と聞いたら
「ウン。手を合わせるのは自分の心を落ち着けるためににやっとるだけだな」と言うので
「なんだ、そうだったのか」とすごく驚いた。

父は古い家の長男で、二十代で跡を継ぎ、実家のお墓と位牌を守りながら親戚から色々言われて苦労してきた。若くして父親を亡くしたので分からないこともあったけれど、頼れる人がいないので心を悩ませながら法事もしてきた。檀家の世話役としてお寺とも付き合いをしてきて、お金にもずいぶん苦労していたのを私も小さい頃から見てきたから知っている。

けど、それらをもう、父は自分の代で終わりにすると言う。
父は「することは全部やってきたから、もう何言われてもいい。お父さんが死んだら、そのまま火葬にして墓に持って行ってくれれば良いから。坊さん呼ばなくて良い。戒名不要。葬式やお経も要らん。」と言う。


「葬儀も戒名も無くていい」、とそこまで言い切れるようになるまでに、きっと父は檀家制度の中で苦しんでいたのだと思います。自分の死んだ後、自分の味わった苦労を子孫にかけさせたく無いのがのが本音でしょう。父にとっては世間と家のつながりだけでお寺と付き合っていただけで、仏とは概念だけで実体が無い存在なんだろうな、と思います。



もうひとつ浮かぶのは、先日、仲間と一緒に集まって食事をした時のこと。
今、自分の楽しんでいることや仕事のことなどお互い話して楽しく時間を過ごしました。
そうしているうちに、数年前にもう他界した仲間のひとりの名前が出てきて、生前、一緒に温泉に行ったり同窓会で幹事をした事とか、亡くなった日のことなどが話題になりました。

亡くなった人を偲ぶ気持ちは人間的な気持ちです。
生きていた日のことをみんなで思い出して話すのは、あとに遺された者のために大事だと思う。それに、その方が派手な葬儀やお金をかけた法要より、亡くなったその人へのいちばんの供養になるだろう、と私は思います。

グリーフケアっていうのかな。
お茶を飲みながらで良いし、お経あげたりしなくても、お坊さんいなくても大丈夫。
儀式や形式や死者のための祈りから目を転じて、遺された人がそこから前へ進んでゆくための、生きている人中心の供養の在り方で、良いんじゃないかと私は思います。

供養とは、故人とゆかりのある人たちが折りに触れて話したり一緒に過ごして、失った悲しみを分かち合って、ショックを少しずつ和らげ、気持ちを癒していく時間と捉えたい。






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