映画「ロード・オブ・ザ・リング」第1部〜オーディオコメンタリーから考察する「神と自由意志」〜

 これも遙か昔に書いた文章ですが、備忘録がてら置いておきます。
このフロドとガンダルフのやりとり、すごく好きなんですよ。

 映画の場面で言うと、モリアの坑道の中で道に迷って小休止をしているときに、フロドとガンダルフが交わす言葉です。フロドはゴラムが自分を追ってきていることに薄々気が付いているんですね。自分が所持する指輪のせいでこんな厄介者(=ゴラム)が引き寄せられてくる・・・。それでこんな愚痴がこぼれるわけです。

“It’s a pity Bilbo didn’t kill him when he had the chance.”

“Pity? It is pity that stayed Bilbo’s hand. Many that live deserve death. Some that die deserve life. Can you give it to them, Frodo?”

“・・・・・・”

“Do not be eager to deal out death and judgment. Even the very wise cannot see all ends. My heart tells me that Gollum has some part to play yet, for good or ill… before this is over. The pity of Bilbo may rule the fate of many. “

“I wish the Ring had never come to me.I wish none of this had happened.”

“So do all who live to see such times. But that is not for then to decide. All we have to decide is what to do with the time that is given to us. There are other forces at work in this world, Frodo, besides the will of evil. Bilbo was meant to find the Ring. In which case, you also were meant to have it. And that is an encouraging thought.

…Oh! …It’s that way.”

瀬田訳準拠で翻訳しましょう。

「ビルボがあの機に、情け容赦なくあいつを殺してくれればよかったのに。」

「情け容赦なくじゃと?ビルボの手をとどめたのは、その情けなのじゃ。生きているものの多数は、死んだっていいやつじゃ。そして、死ぬる者の中には生きていてほしい者がおる。あんたは死者に命を与えられるか、フロド?」

「・・・・・・。」

「そうせっかちに死の判定を下すものではない。すぐれた賢者ですら、末の末までは見通せぬものじゃからなあ。わしの心の奥底で声がするのじゃ。善にしろ悪にしろ、かれには死ぬまでにまだ果たすべき役割があると。ビルボの情けは多くの者の運命を決することになるかもしれぬ。」

「指輪が私のところに来なけりゃよかった。何もこんなことが起こらなくてもよかったのに。」

「このような時代に生まれ合わせたもの全てにとってそうじゃとも。しかし、どのような時代に生まれるかは、決められないことじゃ。わしらが決めるべきことは、与えられた時代にどう対処するかにある。この世界には、フロド、悪の意志に加えて別の力も働いておる。ビルボはその指輪を見つけるように定められていた。そうだとすれば、あんたもまたそれを所有するように定められていることになる。ことによるとそう考える方が元気づけられるかもしれない。

・・・ふむ、道はこっちじゃ。」


 コメンタリーでは、以下のように発言しています。(日本語は字幕丸写しです。この字幕はそうはずれてはいないと思いますが;苦笑)

[PJ=Peter Jackson FW=Fran Walsh PB=Philippa Boyens]

FW「これは原作の核となる台詞。」(注;Do not be eager・・・以下の部分での発言です。)

PJ「原作では袋小路屋敷で言う。だが、この場所に変えて正解だった。」

PB「考えさせられる場面ね。ガンダルフはフロドにとても大切なことを教える。彼は自分の身の危険を感じていた。フロドを最後まで守れないと・・・。イアンは最高だった。」

FW「ここでは二つのことを教えてくれる。『簡単に死の判定を下さないこと』(Do not be eager to deal out death and judgment.) トールキンの人道主義が表れているわ。人は許すことで救われるのだと・・・。キリスト教の教えとも言えるわね。」

PB「それが偉大なものの務めだという。」

FW「『善悪の力に加えて運命の力が働くからだ』(There are other forces at work in this world besides the will of evil.)と。もう一つのメッセージは---『今 自分が何をすべきか考えること』(All we have to decide is what to do with the time that is given to us.)」

PB「つまり・・・。」

FW「自由意志(free will)ね。そして、この教えが---物語の基盤となる力強いテーマなの。これがトールキンの人生に対する考え方よ。カトリックの---教えね。」


 これを見ると、フラン・ウォルシュは教授が敬虔なカトリック教徒だという背景をかなり重視しているようです。キリスト教の考え方がこの物語に反映されており、映画の脚本にも当然そういう作者の考え方を反映させたと。

 まず、第一に「許し・慈悲」(人道主義)を挙げています。確かにキリスト教の基本的な精神ですね。これは、原作でも最後にフロドがサルマン(=シャーキー)を許す、という場面ではっきり示されています。温厚なホビットたちでさえ殺したいと思ったサルマンをフロドは許す。フロドの許しの言葉を聞いてサルマンは感嘆するのです「あんたは成長したな、小さい人よ」。かつて偉大であったサルマンにとって取るに足りない存在であったはずのホビットが、いまやその精神において自らを凌駕する存在となったことをフロドの言葉からサルマンは悟り、敗北を認めます。「許しこそが救いである。」この精神は物語の中で、サルマンとフロド双方に救いを与えているのです。(しかし、映画ではこのシーンはないのだろうか?「ホビット庄の掃討」は撮影していないことを監督は明らかにしていますが。)

 第二に「自由意志」という言葉を挙げています。全てを自分の思った通りにすることは出来ませんが、それでも自分の意志で決定できることがある、それが「自由意志」です。例えば、生まれる時代、場所、両親などは自分の意志では決定することは出来ません。これを決定する力が「other forces」でしょう。フロドはサウロンが力を取り戻しつつある時代に指輪所持者となってしまったという運命、アラゴルンは失われた王家の末裔として生まれついてしまったという運命、これが「other forces」によるものです。しかし、そんな状況でも自分の意志で決定できることがあり、その決断をしていかなくてはならない、人生とはそういうものだと、ガンダルフを通してトールキンは説いている、そうフラン・ウォルシュは考えて、ここの台詞を「トールキンの人生観の表れ」だと述べているのでしょう。(一方、この「自由意志」を奪う存在がサウロンということになります。)

 「other forces」を神の意志と考えると、キリスト教の考え方になってくると思います。そして、キリスト教の考えならば、「other forces」が「besides the will of evil」だと言うことも重要な意味を持つように思います。キリスト教において、唯一神は「完全なるもの」です。そして、悪は「不完全なもの」であり、「不完全なもの」は「完全なるもの」には内包されない。キリスト教では(特にカトリック)「善悪は対等」ではないのです。

 この場合、悪の存在は神よりも下位になります。故に、キリスト教では悪の象徴であるサタンは完全なる神の下僕たるルシファーが堕落したもの、という考え方が出てくるのでしょう。サタンはけして神には及ばない存在なのです。そして、同じ関係をトールキンは至高神エルとマイアの長であるメルコオル(=モルゴス)との間にあてています。フラン・ウォルシュはこのことを踏まえて「カトリックの教え」と述べているように思います。(ただ、’forces’ と複数形になっているところが微妙なんですが)

 全能なる神は全てを定めることが出来る。では、人間というのは神の定めた運命に従うだけの存在なのか(これはキリスト教神学において重要な問いの一つでしょう)。それに対して「自由意志」という考え方が出てきます。人間にも自分の意志で決定出来ることがある、そのような自由が与えられている、とするのが「自由意志」の意味です(ただし無制限の自由という意味ではない)。教授自身の「自由意志」に対する考えは資料がないので分からないのですが、シルマリルを読むと、「自由意志」はエルフと人間の違いの重要な要素として書かれているように思います。人間は定命の存在ですが、そのかわりにエルフより人生に対する自由がより多く与えられているようです。(映画ではもちろん「自由意志」を物語の重要なテーマとしています。)

 カラズラスでガンダルフは指輪所持者に尋ねます。「(どの道をゆくのか)指輪を持つ者に決めさせよう」。指輪をどうするのか、それは指輪所持者であるフロドの自由意志に委ねるべきだ、とガンダルフは考えているからです。したがって、フロド(指輪も含む)が行く道は自由意志に基づいてフロド自身が決めねばならない。そして、ガンダルフはあくまで助言者であって決定者ではない、それがガンダルフの考えです。この場面、決してガンダルフは道程の決定を無責任にフロドに丸投げしたわけではありません。そして監督は、SEEで裂け谷を出発する場面を追加することで、そのことをより明確に描き出そうとしています。(余談ですが、「千と千尋の神隠し」でも「自由意志」は重要なテーマですよね。こちらでは「名前」が「自由意志」の象徴ですが。)

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