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2019.5.29(水) 「友だち」とか「仲が良い」とかってどういうことだろうねと考える

最近、月曜日に客先での定例ミーティングがあって、火、木、金はお客さんのオフィスに行って作業なので、外出ばっかりで、かつお客さんと会う仕事ばっかりでして。
それで、水曜日だけが誰にも合わなくて済む貴重な一日なのです!

正直、ホッとします。

なんて、あんまりこんなことを言いすぎるとだいぶ誤解されるんですけど。
別に人間嫌いでもないし、引きこもりというわけでもないので!
人に会うのが嫌いってわけでもないし。

この感覚をうまく伝えるのって難しいよなと思っていたら、こんな記事がTwitterで流れてきました。(基本的にTwitterが主な情報源なので)

インタビューで話しをしているのは漫画家のさわぐちけいすけさん。
cakesで「僕たちはもう帰りたい」を連載していて、すごく面白かったので興味がある人はぜひ。

それで、さわぐちさんの人間関係とか友だちへの距離感や考え方が、けっこう僕と似てるかもなぁと思いました。
「友だち」って何なんだろう? って考え始めると、ほんとよくわからなくなるんです。
誰が「友だち」で誰は「友だち」と言えないのかとか。
誰かのことを「友だち」と呼んでいいのかどうかとか。

小学生の子供じゃあるまいし、「友だちだよね」なんて確認するような馬鹿な真似はしないし、「友だちになりましょう」って言って友だちになるわけでもない。
「友だち」というのは結婚のような「契約」ではないから。
確認するものではないし、確認できるものでもないと思うんです。

――友だちは「その時の自分」の感性で、選んで、選ばれて。

お互いそうじゃないですかね。ある程度、礼儀がしっかりできてるから付き合ってもらってる自覚もありますし。「友だちだと思ってたのに」という意見はかなり苦手。

「選ぶ」という言い方が棘があるように聞こえますけど、成り行きで仲良くなった人の中でお互い礼儀を保てる距離感の人が友だちになっている。自然発生的に選ばれたのが友だちだと思います。消去法に近い……(笑)。

「友だちだと思ってたのに」は僕も苦手ですね。
そんなこと言われても、知らんし……
あなたが僕のことを友だちだと思うのは勝手だし、思ってくれるのは嬉しいけど、あなたの友だち像を押し付けるのはやめてくれって思う。

あれだ、SNSとかで有名人やインフルエンサーに向かって、「そんな人だとは思いませんでした」って、勝手に理想像を押し付けておいて、勝手に失望する人だ。
あんまり言われることはないけど、そういう人は勝手に失望して、勝手に離れていくので、そういうことをしない人が結果的に「友だち」として残ることになるんですよね。

「消去法」って、例えばそういうこと。

――『僕たちはもう帰りたい』では、主に職場ですけれど、「絆とか物理的な近さとか、そういう繋がりがないと人間関係は豊かじゃないのか?」という問いがある気がします。その思い込みから解放されて世の中を見ると全然違って見える。

友だちでも、夫婦でも、仕事関係でも、一緒にいるのは仲良くないと難しいかもしれないけど、それもやっぱり順番がおかしくて、仲良いと思うために一緒にいる人が多いですね。

「仲良いと思うために一緒にいる」というのが順番的に逆だというのもよくわかるんですよ。
女子高生とかじゃないんだから大人になったらその感覚はわかるだろうと思うんだけど、意外とわかってない人が多いみたいで。
「一緒にいるから仲が良い」んじゃなくて、「仲が良いから一緒にいられる」んですよね。
この違いがわからない人も多い気がしている。

今、親しくしている人たちはたくさんいるけれど、それはたまたま成り行きでそうなっているのであって、常に流動的で移り変わっていくものだという感覚が僕にはあるんです。
環境が変わると、付き合う人もガラッと変わりますしね。

小、中、高、大と学生時代に仲よかった友だちとは今ほとんど縁が切れているし、ダイビング仲間も色々あってお休みしたタイミングで切れてしまったし、前の職場の人とも会わないし、他の趣味友だちも同じ感じだから。
そういう「場」が無くなると同時に、人間関係もバサッと無くなるっていうのもどうだろうと思うけど、それくらいでちょうど良い気もしてるんですよね。

「場」が無くなっても繋がっていられる人とだけ、ずっと付き合えれば良いし、繋がったり、離れたり、それが自然であって、繋がりとか絆とかに固執したくはないなと思っているのです。

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Zakky
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