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#10分で読める小説「失くした形見が導く真実と、取り戻した家族の絆」
冷たい夜風が男の頬を撫でる。駅前の交番の前で立ち尽くし、ゆっくりとしゃがみ込んだ。顔を手で覆い、視界が滲んでいく。だが、涙をこらえる力はもう残っていなかった。行き交う人々が彼の存在を気に留めることはなかったが、それがかえって心の痛みを増幅させた。
道行く人々の影が、まるで彼に関わらないように薄れていく。彼らの無関心さが、男に孤独を押しつけてくるように感じられた。誰もが自分の生活に追われ、彼の心の中にある深い喪失感には気づかない。いや、気づいても、あえて目を向けないのだろう。
「もう、ダメだ……」
その小さな声は、夜風にかき消され、誰にも届かない。彼の胸の中に溜まった思いが、出口を見失ったまま鬱積していく。涙は頬を伝い、冷たい夜の空気にさらされる。すべてが遠く感じられ、彼は無力感に打ちひしがれていた。
交番のドアが開き、警察官が外に出てきた。パトロールの交代なのだろうか。彼は一瞬、男の姿を見つめたが、その顔に浮かぶ悲しげな表情を見て、足を止めた。疲れた様子で書類を抱えていたが、男の姿に何か引っかかるものを感じたのだろう。少し迷ってから、静かに声をかけた。
「どうされましたか? 何かお困りごとですか?」
男は、声が震え、言葉が出ない。感情が溢れ、声にならない嗚咽が喉の奥に詰まっていた。警察官は、やや業務的な態度ではあったが、男の様子に表情を少しだけ緩め、静かに近づき、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「何があったんですか? お話しできれば、助けになれるかもしれません。」
男は、しばらく沈黙した。言葉を発しようとする度に、胸の奥からこみ上げてくる悲しみが、彼を押し潰そうとするかのようだった。ようやく、震える声で口を開いた。
「……妻からもらった形見の……黒い財布……それを、失くしてしまいました……」
その財布は、ただの財布ではなかった。1年前の強盗事件で命を奪われた妻と息子が遺した、男にとって唯一の形見だった。あの時のことが、頭の中で鮮やかに甦る。財布の中には、亡き妻と息子との唯一の写真と、息子が最後に書いてくれた手紙が入っていた。彼にとって、それは日々を生き抜くための支えであり、どれだけ傷ついても決して手放せないものだった。
あの日、彼の世界は一瞬にして崩壊した。
家族との日々は、何気ないものでありながら、かけがえのないものであった。仕事を終えて帰宅すると、息子の笑顔が迎えてくれ、妻がキッチンで夕食を作っていた。何気ない会話が、今となっては宝石のように輝いている。その日常が、どれだけ彼にとって大切だったか、あの事件の後で初めて知った。
「財布が……それだけが……残されたものなんです。」
声が震える。胸が締め付けられるような痛みに襲われた。
警察官は表情を変えず、淡々とした調子で質問を続けた。
「それは、事件の際にもお持ちだったものでしょうか?」
男は深く頷く。
「あの日、妻が持っていたものです。事件の後、遺品として返ってきました。でも、今回……気づいたら、財布を失くしてしまって……」
「わかりました。もう一度探してみますが、時間が経っていますので、見つかるかどうか……」
警察官は言葉を選びながら慎重に応じた。彼の目には、男がどれだけその財布に執着しているかがはっきりと映っていた。だが現実は厳しい。大都会で失われたものが再び見つかる可能性は、決して高くないのだ。
男はゆっくりと立ち上がり、無言でその場を去った。
頭の中は空っぽだった。足は無意識のまま彼をどこかへと運んでいた。やがて彼は、息子とよくキャッチボールをしていた公園に辿り着いた。そこは彼にとって、特別な思い出が詰まった場所だった。
風が静かに木々を揺らし、公園は人影もなく静まり返っている。ベンチに座り、彼はしばらくぼんやりと空を見上げていた。夜空には無数の星が瞬いているが、その光はあまりにも遠い。どれだけ手を伸ばしても、決して届かない。
彼は、この公園での記憶が鮮明に蘇ってきた。息子と何度もキャッチボールをして笑い合った日々。それは、彼にとっての幸せの象徴だった。
「ここで……いつも一緒に……」
手元にはもう、キャッチボールの相手も、待っている家族もいない。その現実が、彼の胸を痛めつける。
彼はそっと目を閉じ、冷たい風が頬を撫でるのを感じた。涙はもう出ない。感情の波は、いつの間にかすべてを洗い流してしまったのだろうか。
一週間が過ぎた。彼は日常に戻りつつも、失くした財布のことが頭から離れなかった。それはただの物ではなく、過去に繋がる唯一の手がかりであり、未来への光でもあった。
その頃、警察から一本の電話が入った。
「先日お話ししていた財布ですが、無事に見つかりました。遺失物として届けられたんです。」
男の胸が一瞬だけ高鳴った。そんなことがあり得るだろうか? 現実感がないまま、彼は震える手で電話を持ち続けた。
「本当ですか……?」
「ええ、届けられた財布の中には、あなたがおっしゃっていた息子さんからの手紙も入っていました。ですが、少し変わったことがありまして……」
「変わったこと……?」
「実は、再度調べたところ、その手紙に不審な指紋が残っていたんです。当時の捜査では、財布や中身に明確な手がかりが見つかっていなかったのですが、今回の発見で改めて精密に鑑定したところ、指紋が一致しました。犯人の可能性が高いです。」
男は驚きと戸惑いで、言葉を失った。
「どうして……事件の時には、何もわからなかったのに……?」
「事件の当時は、手がかりが少なく、捜査が混乱していました。ですが、今回再発見されたことで、より慎重に調査を行った結果、犯人の指紋が手紙に残されていることがわかったんです。今、その指紋を基に捜査が進行中です。」
男は放心状態で電話を切った。長い間心に抱え込んでいた無念が、少しずつ解消されていくような感覚だった。妻と息子が命を奪われてから、ずっと抱えてきた苦しみが、ようやく少しだけ軽くなり始めたのだ。
再び夜風が優しく彼の頬を撫でた。それは、まるで亡き妻と息子が彼の背中を押しているような温かさだった。
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