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#10分で読める小説「池袋と歳を重ねて。美久仁小路の夜」

美久仁小路――池袋の喧騒から少し離れたその路地の名前を、彼は上京してすぐに耳にしていた。雑誌やネットで何度もその存在を知り、通りかかったこともあった。だが、若い頃の彼には、どうしても足を踏み入れる勇気がなかった。狭い路地に並ぶ年季の入った飲み屋たち、その一つ一つに染み込んだ歴史や空気に、彼は自分がまだふさわしくないと感じていた。

彼が池袋に住み始めたのは、20代半ばの頃だった。東京に出てきたばかりで、仕事に追われ、街の華やかさに圧倒されながらも、どこか浮ついていた時期だ。美久仁小路は、池袋の繁華街のすぐ近くにあるにもかかわらず、彼にとっては別世界のように感じられた。そこには、夜の街を知り尽くした大人たちが集い、長年積み重ねられてきた時間が流れているようだった。若い彼は、その世界に足を踏み入れることができなかった。いつか自分も、そんな場所にふさわしい年齢になったら――そう思いながらも、時が経つのを待っていた。

そして、月日は流れ、彼もすっかり中年となった。仕事も落ち着き、池袋という街に馴染んだ今、ふと美久仁小路を思い出した。あの頃、遠巻きに眺めていた場所に、今なら自分も入っていけるのではないかと感じるようになったのだ。かつて感じた「若さ」という壁は、いつの間にか取り払われていた。自分も歳を重ね、周囲の目や空気に臆することなく、ただそこにある時間を受け入れられるようになったのかもしれない。

その日は、池袋の夜風が心地よかった。彼は、いつもの通勤路とは違う道を選び、美久仁小路へと向かった。細い路地に入ると、すぐに独特の匂いが鼻をつく。焼き魚やタレの焦げる香り、古びた木造建築の染みついた風合いが、まるで過去の記憶を呼び起こすかのようだった。だが、その記憶は自分のものではなく、ここを通り過ぎた無数の人々が刻んだ時間だった。

「そろそろ自分も、この場所にいていい年齢だろう」

そう自分に言い聞かせるようにして、一歩、また一歩と路地を進んでいく。かつては入りづらかった古びた居酒屋やバーが並ぶ通りを、今では静かに眺めながら歩けるようになっている自分に、彼は少しだけ誇らしさを感じた。

路地の先にぽっかりと開いた空き地が見えた。ここには、つい最近まで木造の飲食店があったはずだ。何度か前を通ったときには、カウンター越しに賑わう様子を覗き見たことがある。だが、その店はもう取り壊され、今は何もない。ただ地面にぽつぽつと捨てられた空き缶が、わずかに残る名残を物語っていた。建物がなくなってしまったことで、かつての賑わいも一緒に消えてしまったようだ。

空き地を見つめる彼の心に、何とも言えない感慨が湧いてきた。長い間、彼にとって手の届かない場所だと感じていた店も、こうして消えてしまうことがある。美久仁小路という路地が持つ時間の流れは、彼が想像していたよりもずっと速く、そして容赦がなかった。若い頃の彼が、足を踏み入れられなかったその場所は、今となってはもう二度と戻ってこない。

「歳を重ねれば、そのうち行ける場所が増えるものだと思っていたけれど、逆に消えてしまう場所もあるんだな」

心の中でそう呟き、彼は一人静かに美久仁小路を歩き続けた。路地の隅に並ぶ古びた店の明かりが、彼の足元を照らしている。どの店も、そこに集う客たちの顔を見れば、何十年もここに通い続けているのだろうと思わせる風情があった。自分もその中に加わっていいのか――まだ少しの躊躇が残っていた。

彼は足を止め、ふと上を見上げた。サンシャインシティのネオンが、暗い夜空に浮かんでいる。昔はあのビル群を見上げるたびに、東京にいるという実感を抱いたものだ。大きくて、煌びやかで、どこか遠い存在のように思っていた。だが今は、そのネオンもただ無表情に街を照らしているだけのように感じる。彼自身が歳を重ねたせいか、あの光にはもう何の感動も覚えなくなっていた。

美久仁小路をもう一度ゆっくりと見渡し、彼は心の中で何かを決意した。この場所に自分が来るべきタイミングは、若い頃ではなかったのだ。今だからこそ、この路地の空気を受け入れ、店の中で自分の時間を過ごすことができる。取り壊されてしまった店もあれば、まだそこに残っている店もある。すべてが失われるわけではない。自分の中で、まだ残っている何かを見つけるために、今こそその扉を開ける時が来たのだ。

彼は意を決し、一軒の小さな居酒屋の暖簾をくぐった。店内には、年季の入った木の匂いと、静かな賑わいが漂っていた。彼はカウンターの隅に腰を下ろし、静かにビールを注文した。美久仁小路の一部として、この夜を過ごすことができる――それだけで十分だった。


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