見出し画像

滅びゆく田舎と人間関係

うちの村くらいのレベルの田舎になると、インフラの仕組みは都市に比べると脆弱です。そのため、フツーの人間がインフラに組み込まれています。

都会ではシステム(専門家)で解決していたことが、住人を動員することで解決される。これは東京で暮らしていた自分にとって、大きめのカルチャーショックでした。引越してきて5年ですが、消火活動に参加したり、災害時に土嚢を積み続ける…みたいな経験をするとは想像していなかったです。

実際に暮らしてみて、田舎でインフラをメンテナンスしようと思うと、人間関係をメンテナンスしないといけないのだなと肌で感じています。

これが田舎が変化や外れ値を嫌っており、人間関係が濃厚な理由のひとつでしょう。水道管に異物混入を防ぐ/異物を取り除こうとするのと同様に、人間関係を守る意識がはたらきます。電気施設の点検を行い必要に応じて修繕するのと同様に、他の人間に関する点検や介入が行われます。

いざという時(そして、いざという時は年に数回ある)に、暮らしを守ることができるような状況を人間関係として維持する必要があるのです。

都会の人間関係は、暮らしの基盤とは切り離したところでの構築が可能です。特に、物理空間との切り離しにおいては田舎との差分が大きいです。アパートで隣の部屋に誰がいるのか知らない、なんて生活が可能ですから。物理条件を無視して、興味関心で人間関係を構築できるのが都会の自由です。

ともすれば「人間の温かみ」などとも評される田舎の不自由さは、インフラと人間関係を切り離せないことで発生する側面があるのは確実です。

そんなわけで、田舎がこれまでのインフラおよび運用を継続する限りにおいては「人間関係維持のために行う〇〇」や「公共的なインフラとしての個人的な労働力供出」が苦手なひとが田舎で暮らすのは、かなりストレスフルにります。田舎の"闇"として揶揄されるのはこれが表出したものが多いはず。

以前、西粟倉に安宅和人さん達「風の谷」メンバーが村に来られた際、いまの田舎に住める人間の性格は限定的。それが田舎の未来を限定している。ということを宇野常寛さんが言っていました。それはまさしく、この『インフラに組み込まれるフツーの人間』問題なんじゃないかと思っています。

さて、田舎から都市への人口流出は著しく、西粟倉もこの5年で1477人から1361人に人口は減少しています(9%ほど減ったことになります)。

こうなるともう現状の延長線上に未来はありません。更なるストレスに耐えられるインフラとしての人間を育成・獲得するか、インフラの運用に何らかの変化を与えるか、インフラの対応範囲・対応基準を引き下げるか…。田舎に暮らしを維持しようと思うと、何らか対応が必要です。

手っ取り早いのは、インフラをシステム化できる程度の人数を一挙に獲得してしまう方法だと思います(淡路島のパソナとか、ラジニーシプーラムとかが比較的近そうなイメージです)。でもそれだと多分一般的に言われるところの「地方創生」だったり、「風の谷」になったりはしない。

では田舎はどのようにして生き残るのか?何かを変えていかなければならないでしょう。でも何をどう変えればいいのか分からないのが正直なところだと思います。誰もこのままでいけるとは思っていないけれど、誰も何をどうすれば希望があるのかはフワッとしていて掴めていない。

そもそも、希望がある必要があるのか?なんていう議論もあります。
だいたい都会に集めていくのが「正しい」感じもしますから。
田舎は滅びゆく運命にあるのだ、という圧を感じることもしばしば。

どちらが良いのかという議論はひとまず置いといて、僕としては正しくないものの側にありたいので、トボトボともがいていきたいなーという所存でございます。どうぞよろしく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?