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個人的なもの「言っていることが変わる人間に対しての感情整理」

 私は現在、地元の工場で働いているのですが、教えてくれる上司の言うことがコロコロ変わるので、そのことについて話していこうかと思います。

 上司に対しては少しイラっとしてしまいましたが、私なりの気持ちの落ち着け方をここに書こうかと思います。


・一つ目

 以前、上司に言われたことは「始業時間前は仕事じゃないから何もしなくていい」とのことでした。

 なので、私は動いていたら注意されるので、チャイムがなるまで待機するようになりました。


・二つ目

 上司が休んだ次の日に、報告するタイミングを失ってしまい、そのまま上司が休憩に行った時にでも報告しようかと思ったら……。

「昨日なにをしてたのか、来たらきちんと報告しろ」と注意をされました。

 上司が仕事をしている最中に話しかけるのは申し訳ないと思っていたら、どうやら上司は報告を待っていたらしいのです……。


 まとめると、

 始業時間前は作業をしなくていい。そして、報告は朝のうちにきちんとするように、とのことだと私は解釈しました。



 それから数週間後……。

 上司が休んだので、次の日、チャイムが鳴ってから報告。面倒な仕事を終わらせて多少なりとも褒められるかと思いきや…………。


「チャイムとか関係なく、来た時点で仕事だろ。報告は始まる前にしないとその日の段取りが出来ないだろ。前にも報告はしろって言っただろ」と。

 前に言われたことと、自分の中で解釈していた内容とだいぶ食い違っています。

 ただ、ここで反論すると感情的になる上司なので「はい、すみません」ととりあえず謝りました。


 確かに、来た時点で仕事というのは納得できます。それに、報告をしなければならないことも重々承知です。


 ただ、上司の言っている内容が二転三転するので、かなりストレスがかかりました。


 始業時間になるまでは仕事じゃないと言いつつ、仕事の報告をちゃんと仕事が始まる前にしろと。

 前にも言われたので、この間に上司が休んだ時は仕事が始まってから報告をしました。その時はなにも言われなかったので、「ああ、これでいいんだな」と思っていたのですが、私の落ち度のようです。


 言うことが変わられると、さすがにイライラします。言ったとおりにしているのに、言っていた通りにすると怒鳴られる。

 とりあえず。体と心を分離して、身体は仕事をさせて、心の中で考えます。


 心と体を分ける……という表現が正しいのかどうかは分かりませんが。

 私はこういう時、相手も自分もどこかに置いて客観的に物事を見ようとします。逃げに近い気もしますが、こうすると落ち着くのです。


 ということで、私と上司のことをある程度、客観的に考えていきます。


 まず、上司の言っていることは正しい。けれど、いちいち怒鳴るような言い方をすることではない。

 怒鳴られれば委縮して、声かけが余計に難しくなる。状況の改善を図るなら、声を荒げることなく冷静に注意するべきである。

 そして、私は上司の意図をくみ取れなかった。上司の常識、仕事上のルールを把握せずにしてしまった。

 質問すれば解決することを質問せずに仕事をしてしまった。その点については、私にも責任がある。


〇上司の態度

 ・怒鳴る必要性がない。

 ・言っていることが矛盾している。

 ・その時の見たままの状況しか捉えない。


〇私の態度

 ・分からないことを質問しない。

 ・自分の中でまとめてしまって話し合おうとしない。

 ・自己解決しようとする。


 結果的には、聞かなかった私が悪い。

 ただ、そういう聞くことが難しい態度をとる上司も、仕事上の効率や環境改善を妨げているので、より悪のように思います。


 こうして、私の中で上司の「人」としての評価が下がりました。

 己の言ったことを捻じ曲げて、感情的に人に当たるような人を、私は最も嫌うタイプだから。


 と、このような形で終わっておきますが、最後に少しだけあとがきがあります。

 散文のような、よくわからないものですが、ご興味あればお読みくださいませ( _ _)



 凝り固まった価値観は、誰かになにを言われても変わらない。

 私がそうであるように。人もそうであると思っているから。


 感情の沸点が低い人ほど、視野が狭い。

 他人の気持ちに触れることもせず、己の感情だけで判断する。

 物事を客観的に捉えず自己主張する。


 私は人の目が気になるから、

 相手の感情が気になるから、

 必ず一歩ひいてしまう。


 私は怒られれば委縮する。

 そして、怒られた理由を解析して、どちらが本当に悪いのか白黒をつけたがる。

 不合理な、理不尽なことが続けば、私は堪忍袋の緒が切れて、その相手がどうでもよくなる。

 それは、置物と変わらない存在と化す。

 その相手に感情をまき散らすことはしない。

 ただ、無感情になる。

 誰かが作ったものの方が価値があるほどに、その人物の価値が私の中でゼロになる。

 だって、どうでもいい相手に怒ることも、説得することも、話をすることも、すべて無駄なもののように感じてしまうから。

 仏の顔も三度。


 私は、私の信念と逆側のことをされても、まだ許せる。

 私は、相手の言っていることが矛盾しても、まだ許せる。

 私は、押し付けられてもそれが仕事なら、まだ許せる。

 私は、仕事中の私を貶されても、許せる。

 私は、誰かが誰かにきつく当たっていても、許せるだろう。

 私は、誰かの手助けをしていることを注意されても、私が言われるだけならば許せる。


 ただし、これらがすべて重なった時に、私はその人物をオブジェクトとしてしか見なくなる。

 私の生き方を、考え方を、価値観を否定されるのならば、それは私にとって限りなく必要のないものだから。

 私の人生に、必要のないものだから。

 見なくていいもの、私の成長に繋がらないものは要らない。

 なぜなら、私の価値観は私が築いていくものだから。

 他人に私の価値観を指摘される必要はない。


 人は、必要なものを求めて生きていく。そして、手に入れればその場を去っていく。そうしてまた、必要なものを探して生きていく。


 私は思う。

 私に必要のないものは、私の元から離れていく。そして、私が必要なものは私の周囲に集まってくる。

 時には、不必要なものが混じっているから、それを取り除かないといけない。

 それは紛れているから分かりにくい。

 けれど、心のどこかに引っかかるものがある。

 それが異物であり、人の成長を阻害するもの。


 人生のなかで、様々な感情、環境、成長を経て、人は磨かれていく。

 輝くなにかを求めて生きていく。


 そう思うと、人生は泥水の中で砂金を探すような作業と似ているのかもしれない。

 汚れた手に、いつか綺麗な砂金が握られる日を夢見て。

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忍原富臣
人を変えることはできないけれど、誰かの心に刺さるように、私はこれからも続けていきます。いつかこの道で前に進めるように。(_ _)