第7話「世界的質量保存の法則」下

 数分間、沈黙が続く。

 主人は煙草を吸い、遠くの空を見上げている。

 忘れていた寒さが不意に襲ってきたため、私は少しだけ身震いした。

 初めて会った人に当たるなんて、私は情けない。自分の不運を人に当てつけるなんて、自制心の利かない人間と変わらないじゃないか。

 私だって、利己主義の塊の最低な人間と同じじゃないか。

「すみません、強く言ってしまって……お代ここに置いて帰りま――」
「まあまあ兄ちゃん、そう慌てんな」

 申し訳なさと空気の重さから、切り出した私の言葉は主人の声に遮られた。

「一人一人が平等じゃないんだ、世界が平等なんだ。お前さんが、運が悪いと感じたら、他の誰かが、運が良いと、どこかで感じている。ただ、それだけのことなのさ」

 灰皿の水に煙草の灰を落とすと、ジュッという音が小さく響いた。

「どういうことですか?」
「平な地面があるとするだろ。掘れば掘るほど、掘った分の砂は山になる。だが、掘った砂を戻せば大体は元に戻る。多少、固まってた分は膨らむだろうがほぼほぼ元通り、そうだろう?」

「え、ええ、そうですね」
「掘られた部分は運の悪いもの、出てきた砂は運の良いもの、量的には変わらないのさ。いくら掘っても、そこにあった砂の量は変わらない。別の場所に移動しただけということさ」

 運が悪いと感じる人間の不幸量は、誰かの幸運量と同じということか。

「つまり、世界的に見れば運の良し悪しは同じ量だというわけですか?」
「そういうことだ。俺はこれを世界的質量保存の法則って名付けてるんだ、格好良いだろ?」

 主人はしてやったり、といった風な顔をしている。

 まぁ、言われてみれば確かに、幸運と不運の差は全体的に見れば変わらないのかもしれない。

 数量で言うのではなく、質量とするなら、運というものは平等なのかもしれない。

 主人の話に納得はしたものの、先ほど自分がしてしまった態度。その羞恥心に、あまり乗り気になれないまま返事をした。

「なんだか壮大な名前ですね」
「そうだろう、名前は大事だからバシッと決めたんだぜ」

 再び煙草を吸い始めた主人は誇らしげに返事をして、意味ありげに一人で頷いていた。

 ただ、「世界的質量」という言葉に私は違和感を覚え、気が付けば主人に問いかけをしていた。

「世界的質量ということは、運以外の他の事についても何か言えたりするんですか?」

 運の良い悪いなら、そんな大それた名前にしなくてもいいはず。

 少し意地悪な質問をしてしまったかと思ったその時、待ってましたと言わんばかりの顔で主人はぐっと顔を近付けてきた。

「おお兄ちゃん、意外と突っ込んでくるじゃねえか。そこまで聞かれちゃ答えてやらねえとなあ、何か適当に言ってみ?」
「そうですね、例えば人口とか、ですかね」
「おうおう、いいぜ」

 寒いだろうと、サービスで追加してくれたおでんを食べながら、私はその話に耳を傾けることにした。

 主人は客席の椅子を一つ、自分が座るために移動させ、煙草の火を消すと、丁寧に語り始めた。

「人間ってのは、犬や猫となんら変わらない動物だ。その人間が増え続けた結果、ある現象が起きているだろ? 絶滅危惧種というやつだ。人間が他の生き物の住処を奪い続けることで、人間は圧倒的に増えていった。つまり、人間という動物が増えれば、他の動物が減っているんだ。誰かが生まれれば、誰かが死ぬ。誰かが幸せなら、誰かが不幸なんだ。これが世界的平等ってやつさ。一つ一つの生き物としての運の良し悪しは、世界にとっちゃ平均なのさ。俺たちゃ、住む場所があるだけありがてえってことだな」

 言い終えた主人の表情はどこか悲しげだった。

 多分、ここに至るまでに私なんかよりも、もっと色々な経験してきたのだろう。

 気になる主人の表情については、あまり触れずにしておくことにした。

 私よりももっと深い闇のようなものが主人の奥底にありそうで、それ以上深く聞いてはいけない気がした。

 私はビールの入っていたジョッキを見つめた。

 元々、この中にはビールが入っていた。ただ、それは無くなったのではなく、移動しただけ。けして消えたわけではない。

 誰かの幸福の代わりに、不幸を私が飲み込んでいる……。

「世界の不幸の一部を私が背負っているんですね」

 誰か知らない人間の不幸を勝手に背負わされているなんて、やっぱり生きている意味なんてないのかもしれない。

「まあ、そう考えるな。嫌な方にばかり考えていたら、いつまで経ってもその不幸の連鎖からは抜けられないんだ。そうだ、一つヒントをやろう」
「ヒント、ですか?」

 あっけらかんとしている私を見て、主人は少し笑ったが、一瞬不機嫌になった私の表情を悟ったのかすぐに謝られた。

「すまんすまん、笑って悪かった。だが、そうしてればいいのさ。あんまり深く不幸を考えないようにする、これが最高の幸せさ、バカが一番さ」
「ふふっ、なんですかそれ」
「そうそう、そうやって小さな幸せを貯金しておくんだ。目薬の一滴みたいなものでもな。塵も積もれば山となるって言うだろう?」

 主人は親指と人差し指の間に小さな隙間を作り、この隙間分の幸せが、後々に大きくなっていくんだと諭してくれた。

「不幸の多さを、小さな幸せで補う。自分の不幸を数えるより、自分の幸せを数える……、みたいな感じですかね」
「そういうことだ。兄ちゃん、あんた見所のある奴だな。たまにここに来て俺の話相手にでもなってくれないかい? お前さんなら俺の話を理解してくれそうだ」
「私なんかで良いんですか?」

 自然と否定的な言葉を口に出してしまう。

 こんな私が、自分の家以外に新しい居場所を作ってしまっていいのだろうか……。
 そんな否定的な自分が自然とこの言葉を口から吐き出させた。

「こんな商売してるからさ、愚痴をこぼす連中が多いし酔っ払った挙句に金が無いなんて言い出す奴も居る。つまりはだな、真面目な人間に中々会えないわけよ」

 溜め息混じりの白い煙が宙へと消えていく。

「でも、私なんか何も無いですよ?」

 自分で言っていて悲しいが、本当に私には取り柄が無い。
 学業に運動、何をしても凡人並みの事しか出来ない。

 仕事だって時間内に捌ききれずに残業の日々だ。話をしても面白いことなんて言えない。私の中に居る人見知りと恥ずかしがり屋の双子が、社会的交友も阻害している。

「あんたさ、そうやってずっと自分のことばかり責めてきたんだろ?」
「え?」

 唐突な質問とその内容に私は思考が停止した。主人はそのまま、まあまあと片手で私を制して話し続けた。

「ずっと自分が不幸だって言いながらも、あんたは他人を責めることもせずにここまでやってきたんだろ。人を責めずに自分自身が苦しんでさ、不幸を自分の力で飲み込んできたってことだ。そんなこと、常人じゃ真似したくても出来ない立派な能力だと俺は思うぜ」
「……ただ断れずに流されるまま生きてきただけの私に、そこまで褒められるような権利も無いですよ」

 私は俯いて主人の賞賛を受け取らなかった。いや、受け取れなかった。
 この言葉を受け取ってしまえば、今まで我慢してきたものが弾け出してしまいそうで怖かった。

「ただじっと耐えて、それでも誰も責めずに生きてる。言葉にしてみたらあんた立派な人だぜ。そこらの飲んだくれのじじい共やフラフラしてる若者とは別物さ。他の奴が認めなくても、俺が認めてやるよ」

 高笑いする主人と対照的に、私はひどく憂鬱な気分がした。
 私が立派なんて、どこの世界でも承認されない内容だ。

 何も変えようともせず、逆らうことが怖くて、言うことを聞いていれば何も起きない。そんな楽な道ばかりを進んできたのだから、今こうして不幸だと思える環境も自業自得で仕方がないのだ。

「おう、そんなに暗い顔してどうした?」
「いや、私はそんな立派な人間じゃないですよ。ずっと楽な道ばかり選んできたのだから、こうして他人の仕事を押し付けられる環境を作ったのは私なんですから」
「あんたの楽な道ってのはどんな道なんだ?」

 自然な流れの問いかけに、気が付いたら私は口が動いていた。

「人って目配せや表情、口調、態度で大体どういう気持ちなのかってなんとなく把握出来るんですけど、解りますか?」
「ああ、そりゃもうこういう仕事をやる前から接客してたんだ。嫌でも分かっちまうよ」
「人は断られたり渋ったりすると、そこから個人的な壁を作ってしまうんです。この人はここまでだっていう壁を、人は人に勝手に作り上げて上限を設定してしまう」
「まあ、確かにな」

「その壁というのは仕事や目標達成の障害になるんです。出来ることなら危険は無い方が良い。機械仕掛けの、油を注さないといけない所に埃を被せるような状態にしてしまえば回るものも回らなくなってしまうんです。歯車は油を注さないと止まってしまう」
「ほうほう、つまり?」

「効率の良い仕事をするために人間関係は均衡を保たないといけないんです。少しの人間関係の狂いが全てに影響するから、私はそれが面倒臭いから逆らわず、ただ仕事をするんです。己の自己保身のためなんです」

 私は言い終えた後に俯いた。

 主人は新しい煙草に火を点けて、もう一服しようとしていた。火を点け終えてから煙草の煙を肺まで流し込むと、主人は静かに話しかけてきた。

「自分の仕事を抱えた上に、周囲のことまで考えながら仕事してる時点であんた凄いことしてるのに気付いてないのかい?」
「いや、でも、私は今までそうやって生きてきたので」
「普通の人間はな、自分の事だけで一杯一杯なんだよ。他の誰かを構っている余裕も、誰かを助ける余力も残ってないのさ。あんたは苦しみながらも周りの人の事を考えて行動出来る。あんたが思っている以上に周りはあんたのことを頼りにしてるかもしれないぞ」
「そんな、冗談を……」

 苦笑して返事をした私を、主人は呆れ顔で笑っていた。

「まあ、そういうのは自覚症状が無いもんさ。長話させて悪かったな、ほら、長くなっちゃったし追加でサービスしとくよ、食べてくれ」
「あ……ありがとうございます」

 冷えた体におでんの温かさが全身に広がっていくようで、でも、おふくろの味とはまた違うタコ坊主の味という謎のフレーズを思い出して、私は吹き出しそうになった。

 ここなら、また来てもいい、のかな。

「また、ここに来てもいいですか?」
「おう、絶対来てくれよ。今日はもうそろそろ店仕舞いしねえといけねえや」

 主人は言い終えると、煙草を口に加えてゆっくりと椅子や細かい備品の片付けをし始めた。そういえば時間の事を全く気にしないで過ごしてしまった。

 時計を確認してみると、時間はもう二時を過ぎていた。

「んじゃな兄ちゃん!」
「ありがとうございました、美味しかったです」

 お金を支払い、次はいつ頃この辺りに来るのかを聞いてから、私はその場を後にした。久しぶりに自分の気持ちや考えを人に話せたおかげか、気持ちがとても楽になっていた。心のもやもやとした曇天は、いつしか秋晴れのようにからっとしていた。

 そういえば明日も仕事か。今までならこんな時間まで起きていれば、遅刻してしまうかもしれないという不安で徹夜を選択するしかなかった。ただ、今はそんなことすらどうでもよく感じる。

 私は私に出来ることをやろう。

 気分良く家に帰り、玄関の鍵をゆっくりと閉めた。

「ただいまー、なんて」

 誰も居ない真っ暗な部屋に向かって声をかける。なにをやってるんだろう、と軽く笑ってしまったけれど、これくらいのお遊び、誰も責めやしない。ここは自分の居場所だ。

 風呂を沸かしている間に、私は今日の出来事を忘れないように日記へと書き写した。

 今日の事を忘れてはいけない。忘れそうになったら、またあの人に会いに行こう。不幸を幸せに変えるために、幸せをたくさん作れるように。質量自体が変わらないというのなら、不幸の質量を幸福に変えてしまえばいいんだ。

 世界的質量保存の法則か。
 風呂を済ませた私は、布団に寝転びながらテレビをつけた。

「――さて、今日、土曜日は綺麗な紅葉が見られる最高の一日になるでしょう」

 テレビを見ないまま目を瞑り、寝る態勢に入る。こうしてテレビをつけて寝ると眠りが浅くなるおかげで朝の目覚めが切り換えやすくなる。仕事で身に付いてしまった嫌な習慣だが、社会で生きる為に身に付けたおまじないみたいなものでもあった。

「明日は土曜日か……ん?」

 土曜日、そういえば曜日を確認しないままだった。私は机の上に放り出した携帯に手を伸ばした。

 二〇二一年十月二三日土曜日三時三六分――

 携帯は土曜日をしっかりと表示してくれていた。

 土曜日は私の休みの日だった。週七あるうちの唯一の休みの日。久しぶりに気分の良い休日を過ごせそうな気がする。

 大学時代に読んでいた、途中で読むことを止めてしまった小説を読み直そうか。いや、それとももう一度、あの屋台に顔を出してみようか。

 ああ、でも明日は別の場所で屋台をするのか。まあ、また会えるのだからゆっくりしよう。

 なんだか心がとても穏やかなのを感じる。ゆったりと揺れる稲穂のように、私の気持ちは心静かに呼吸をしている。あの人に巡り会えた事に感謝しよう。

 布団の柔らかさが、次第に暖まっていく布団の居心地が、いつもより数段嬉しく思えた。心を暖めることがこんなにも大切なことだったなんて、何故気が付かなかったのだろう。

 誰かの不幸を私は背負っているかもしれない。でも、それで誰かが助かっているなら、それはそれでいいのかもしれない。

 不幸を庇うことも、目には見えずとも、誰かの助けになっているのだから、私にも生きている意味があるのかもしれない。

 誰かの為に私が生きている。そう思うだけでも、生きている価値を多少なりとも見出せる。

 若い頃の、純粋だった私は、誰かの為に何か出来ていたんだろうか。誰かを救う事は出来ていたんだろうか。これから誰かを助けられるだろうか。

 うとうとしながら答えを探しているうち、私は深い眠りに落ちていった。

人を変えることはできないけれど、誰かの心に刺さるように、私はこれからも続けていきます。いつかこの道で前に進めるように。(_ _)