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分倍河原

 分倍河原は府中市の中心地からやや西側にあり、JR南武線と京王線が乗り入れる同名の駅がある。「分配」「分梅」とも書かれたらしく(※1)、町名には「分梅」が使われている。
 この辺りには遺跡が多い。なにせ“府中”だし、古代から近世まで各時代のいろいろな意味での要所であったことから、歴史が重層的に残っている。武蔵国総社として信仰を集める六所宮(大國魂神社)も近く、見所たくさんで寄り道しそうだが、今回の目的地は「分倍河原古戦場跡」と決めていた。

 そう、新田義貞なのだ。鎌倉末期ここ分倍河原で勝利して勢い鎌倉へ進軍し幕府を攻め滅ぼした武将だ。名前はもちろん知ってはいるが、今これを書きながらも途方に暮れるくらい、人物像がわたしにはイメージできない。それでも、倒幕の功労者でありながら後醍醐天皇からも今一つ評価されず手駒のように使われ(たように見え)不遇の最期を迎えるこの人への興味と、「なぜ戦ったのだろう?」という疑問が、動乱の時代のこの地域を読み解く一つの視点になる気がして、まずはここに来てみた。

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 義貞は、上野国新田荘(群馬県太田市、桐生市、伊勢崎市あたり)を本拠とし源義家につながる新田氏の惣領家の嫡子として生まれた。新田氏は足利氏と同じような名門で同じような御家人の立場ながら北条からは冷遇されたようで、積もった不満が倒幕の一因とも言われている。幕府側として千早城の戦いにも加わりこの頃に後醍醐天皇からの綸旨を受け取ったらしい。1333年5月8日挙兵すると、鎌倉を攻めるべく鎌倉街道を南下した。11日には小手指原で桜田貞国の幕府軍をやぶり、15日~16日頃に分倍河原、関戸河原の合戦で北条泰家(高時の弟)に勝利している。途中各地の武士団が加わりながら進軍を続け、21日にはかの有名な稲村ケ崎攻めがあり、22日には市中へ突入、北条高時は自刃し幕府は滅んだ(※2)。

 ちなみに、この時代も武士の戦い方は騎馬戦を主力としたようだ。分倍河原駅前の義貞も騎馬像だ。同時代に描かれた合戦絵巻(※3)を見ると、いわゆる弓馬の道である。鎌倉街道はそれほど道幅が広くなかったようなので騎馬軍団での移動はなかなか大変だったのではと想像してみるが、だいたい大河ドラマの戦国時代くらいしかビジュアルイメージを持ち合わせていないので、それより300年も前の武士団の行軍がいかようなものかなど、分かるわけがない。絵巻で見る武将達の鎧兜のド派手感には驚くが、義貞も恐らくは色鮮やかな甲冑を身に纏っていたのだろう。坂東武者はまだこの頃も名乗りを上げての一騎打ちを重んじていたようだが、畿内での戦い方は変化していたようで、楠木正成のようないわゆる悪党と呼ばれる新興勢力はゲリラ的な戦法を取っている。なんとなく、この時代に少し取り残された感じが義貞の不器用さにつながる気がしてしまう。自ら滅ぼした鎌倉幕府、新しい世の中を求めたのにそれは自分を生かす世では無かったという切なさが、今のわたしの義貞像だ。

後三年の役

 分倍河原の戦いに戻ると、ここで義貞は一時撤退を強いられた。援軍を受けた幕府方に大敗し、狭山市の堀兼まで逃げ延びるがその際には国分寺に火を放っている。(ヒドイ!でも2年後には義貞自ら寄進して薬師堂を再建したらしい)。鎌倉幕府にとって多摩川は重要な防衛ラインで死守しなければならず、鎌倉街道の主道とも言える上道(かみつみち)が多摩川を横断するこの辺りは、必然、激戦の地となった。古戦場跡近くに三千人塚がある。今ではこの辺りの有力者の墓碑だとされているが、長くこの塚は戦いの戦死者を埋葬した碑だと語り継がれていた。そんな伝承が残るほどにこの辺りの戦いは激しかったのだろう。

※1 府中市HPより
※2 黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』中央文庫
※3 出典:東京国立博物館 後三年合戦絵巻 題材は平安後期の後三年の役だが、絵巻の制作は南北朝期(14世紀、1347年頃)とされる

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