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夕方5時の幸福論

今年になって、はじめて暖房を手放した。電気をつけていない灰色の部屋に積もる空気は少し冷たくて、西日の作る影の輪郭をより鮮明にしているような気がする。外から若い男女のなにやら楽しそうな声が聞こえる一方で、自分はよれよれのパジャマを着て毛布にくるまっている。でも楽しそうな声が、本当は楽しくない声かもしれないことを想像できない大人にはなりたくない。最近なにをするにも眠気が身体の底からにゅっと顔を出して、わたしの思考の邪魔をする。きっとそういう時期なんだと思う、今は。

最近とあるものを読んでいたときに「淫らな欲望がぱっと爆ぜた」という一文に出逢った。別にいかがわしい何かを読んでいたわけではないんです、笑。ただその一文が、たまたまそういう場面だっただけで。でも、この一文を読んだときに、あ、これはわたしには書けない、書いたことがない種類の言葉だなって即座に思った。欲望が爆ぜる、こんなに的確な表現ってあるのかと、ため息をついた。どんな種類の欲であれ、欲望がきれいな形を保ったまま終わることはない。


それでも、その爆ぜた欲望の片鱗が表現な訳であって、わたしは最近その自分の爆ぜた欲望が、誰かを傷つけているのではないかと不安で仕方がない。特にこのnoteにおいて、大好きなよしもとばななさんの言葉を借りるのであれば「noteは私の最前線」であり、等身大なのだ。


始めたばかりの頃の下手な文章も、誤字も脱字もそのままに。誰かに見せるために整えられた、コンテンツとしてのnoteではない、ただの1人の女の手記がそこにはある。わたしであって、わたしでない文字の羅列。欲深いわたしはそんな文字の羅列を愛してほしいと願ってしまうけれど、鏡に映った自分のことをまだまだ怖いと思うからきっと全部はそこにはない。あるのに、ない。でも表現ってそういうものなのかもしれない。


自分の中身と、自分の外見(この場合の外見というのは単なる容姿や服装の話ではなくて、第三者から見たときの魂の形、に近いのかも)が一致していない、という自覚がなんとなくあって、文章から浮き上がる人柄と、実際の自分にかなりギャップがある。人は多面的だから、きっとみんなも形は違うけれど同じで、それが普通なんだとも思う。でも、そんなもう1人の自分を救うために書き始めた文章が誰かを傷つけていたら、ということがとても、本当に心底怖い。もっと、ずるいところを隠さないで言えば、傷つけることが怖いのではなくて傷付けて幻滅されて離れられることが怖いのかもしれない。外に出るのも、人と話すことも、この世の中は億劫で怖いことばかりだと思う。会社にも行きたくないし、友人付き合いも本当に限られた輪の中で良い。面倒だなあと思う、思う、心底思う。ただ、きっとそれじゃ「爆ぜない」。怖いから、嫌だから、爆ぜる。不健全で不健康、全然幸せとは遠い。でもその幸せに想いを馳せる距離が、皮肉にも溢れんばかりの、満ち足りた幸福を迎えるためのヒントなんだと思う。


幸せになりたい、という言葉を使わなくなったのは、自分が今少しだけ幸福だから。その幸福を5ミリずつ粘土みたいに広げていけば、幸せそうな人、にはなれるのかもしれない。でも、幸せになりたいのに、幸せになったのに、幸せそうな人にはなりたくないわがままをかかえて。時計は5時をすぎたけど、わたしは結局、今日も外に出ないような気がする。



2022.02.27
すなくじら

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