愛を込めて花束を

会社に行って、送別会で特大の花束をもらった。本当に会社の人の善意に支えられている。みんな優しくて、いい職場だった、と遠目にもそう思う。でもやっぱり、私にはこの絶妙な薄くて歯痒い感じが苦しくて、「本物」を追い求めてずっと泳いでしまう。自分が自分でいられなくなる場所を少しずつ減らしていくことが必ずしも大人な選択であるとは思わないけれど、手放した分だけ舞い込んでくるものもあるはず。そう今は信じたい。

本音が宿る一瞬を探して今を生きてるんじゃないかって思わされる瞬間がある。先日、親友に恋人ができて「彼の好きなところは思いやりがあるところ」という発言にひどく落胆した。思いやりがある、優しいってそれ以外に何もなかったの?なんて、私こそ何様だよと思いながら、大事な人にこそ期待していることを思い知って、でも今日みたいな「外」の範囲には期待すら持てなくて。見えないものと見えないものの狭間でまた少し泣いた。

マッチングアプリで会った男の話も新婚旅行の話ももう聞き飽きたし、どのテーブルも恋愛かキャリアの話で持ちきりだし、他人の善意がとにかく重い、重すぎる。もっと素直に喜べたらよかった。本当にごめんなさい。

「友達」と「仲間」は違う、と昔ある本で読んだ。例えば会社にいる間に毎日一緒で、たまにご飯を一緒に食べる間柄は「友達」。仕事を辞めても仕事の話を抜きにしてずっと会えるのは「仲間」らしい。身体的に近い距離で日々を共有することが必ずしも仲間になり得ない、という話。私は今の会社で仲間はできなかった。仲間に会える瞬間はいつだって予期していなくて、でもちゃんと、私の見えないところでその人たちはしっかりと息をしている。そう思うだけで救われる瞬間がある。この息苦しさは会社を辞めたら解放されるのだろうか。私は仲間をちゃんと大切にできているのだろうか。せめて半径5メートルの内側だけでも幸せであってほしい。


2022.12.13
すなくじら

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