【第三章 時間的価値】/古いアルバムのように
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❝私の部屋にあるものは蒐集品ではない。その連想が私独自のもので結ばれている記念品の貼りまぜである。時間と埃をも含めて。
そのごっちゃなものがどんな次元で結合し、交錯しているかは私だけが知っている。❞ <瀧口修造 夢の漂流物>
大きくなった内孫、外孫があつまった妻の13回忌。普段は静かで広々としている墓ありじいさんの家も、この日ばかりはにぎやかな一日となった。
「妻も喜んでいるだろう」
墓ありじいさんは時の経つ早さと、その時間の流れがもたらす変化にしみじみと感じ入った。
ある日の午後、墓ありじいさんは衣替えをしようと箪笥から冬物を取り出していたとき、その奥に少し古びた家族アルバムを数冊見つけた。
「これは懐かしい…」
じいさん夫婦の新婚旅行の写真から、長男が生まれて三人でアパート暮らしをしていた頃の写真、娘も生まれ家族四人で行った動物園での写真など。
その中にあった一冊はまだ比較的新しく、じいさんはそのアルバムを開いた。
それは写真が趣味だった妻が撮った、日常を切り取ったスナップ集だった。
写真の中には風景だけでなく、家族の何気ない日常が映し出されていた。
また、友人や知人を写したもの、彼女の亡き母や父を写したものもあった。
妻が写っている写真は少なかったが、彼女がレンズをとおして見たもの、彼女と関係の深い者たち、そして愛した自然、風景だけでなく、花や小鳥や街がそこに生きていた。
それは墓ありじいさんも目にしてきたもののはずだが、妻が撮った写真には、彼女がフィルターをとおして、どう世界を観ていたかが現れていた。
墓ありじいさんは、生前、妻があまりに写真にのめり込んでいることに、ちょっとした嫉妬を覚え、それを茶化したことがあった。
「おまえは、自分の目で世界を見ているんじゃなくて、カメラのファインダー越しの虚像を見ているんじゃないか」
じいさんは妻にイヤミを言ったつもりだったのだが、彼女はしばらく考え、こう答えた。
「あなたは肉眼で見える事実がもっとも大事だと思うのね。
わたしが写真を撮るのは事実を残したいからじゃない。フィルターをとおした虚の世界にこそ、わたしの真実があるのよ」
それらにはたしかに彼女が世界とつながり、感じ合い、呼応しあった証があった。
数日後、13回忌の墓参りの片づけがてら、妻の墓へ向かった墓ありじいさん。
この間、孫たちと一緒にここへ来た跡形がそこには残っていた。
ふと墓ありじいさんの脳裏に、この間見つけた妻が撮った写真がよみがえった。
「写真と墓参りはよく似ている‥」
どちらも未来から過去を見ているし、同時に未来を想像する起点にもなっている。
いままでとこれからが交わる瞬間が「写真」なら、お墓はその二つが交わる「場所」なのだ。
この瞬間は過去になり、時間は移り変わる。
私たちはその中で誰かとつながろうとし、たしかにそこに存在したという証を記そうとしている。
彼女が見つめた世界というものを、自分もこれから見つめていきたい。
妻が眠る墓を前に、じいさんは心からそう思った。
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