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【自己紹介】やりたいことを諦めない!

こんにちは!
はじめまして、須永将平(すながしょうへい)です!

今あなたはやりたいことをやりたいようにやれていますか?

両膝の前後十字靭帯損傷
右肩関節損傷
両足関節重度捻挫
腰椎椎間板ヘルニア

などなど。

恥ずかしながら私の学生時代~20代はケガの連続。
私は自分のやりたいことが全力でやり切れたことがないまま競技生活を終えてしまいました。

そんな経験からこれからお話するように多くの経験と知識を得て専門家として人の体をサポートしたいとここまできました。

「体が思ったように動かせずにやりきれなかった」という悔しい思いをしてほしくないと思っています。

今悔しい思いを我慢している人。
その我慢をもう終わりにしたいと思っている人。
今よりもっと上のレベルで動きたい人。

そんな方々に向けて少しでも力になれるようこれまでの人生を記してみました。良かったら最後までお付き合いいただければ嬉しく思います。


1. 生まれ

「出身地は?」と聞かれると毎回とても困ります。
それがこの最初の流れに関わってくるのですが…

1984年7月31日
銀行員の父と主婦の母の元に次男として産まれました。兄とは2歳違い。それから2年後に弟も産まれ男だけの3人兄弟の真ん中として過ごすことに。

両親とも長崎県の出身なのですが、この当時父は転勤族というやつで地方を転々としている中でした。7月30日にはまだ京都府にいたそうで臨月の微妙な時期になんと飛行機で新潟県までお引越し。

この機内で出産…ということにはギリギリならず次の日無事出産。だから生まれは新潟県ということになるのですがここには2年程度しかいなかったのでほとんど記憶にはないのです。

だから出身地は新潟県?という感じです。


2. 小学生

前章の新潟県からお引越しです。幼稚園に入る前には東京都へ。
小学校はそのまま東京都杉並区の公立小学校。

運動は大好きで昼休みのちょっとした時間でも校庭でドッヂボールやバスケットボールなどやっていました。
完全に遊びに行ってましたね(笑)

それから兄の影響もあって学校のサッカークラブへ入ることに。
小学校3年生でのことです。
水泳教室にも入っていましたが自分の意志で始めたのはサッカーが最初のように思います。

1つ上の学年の練習に参加させてもらったり6年生ではキャプテンに指名されたり。それなりにやれていた気でいました。

この大きな勘違いが後の中学時代に影を残すことになるとは…。


3. お受験

小学5年生の冬。
衝撃的な事実が発覚します。

なんと進学予定の近所の公立中学校でサッカーが出来ない!

3年間校舎の長期間の工事で校庭が潰れてしまうという話が。
おまけですが校舎も使えないのでプレハブでの授業…。

ただ他のスペースで練習自体は出来たし試合にも出ていたそうです。
やれないことはなかったわけですが。

この校庭が使えないという事実。
運動大好きでサッカーがしたかった私にとっては目の前が真っ暗に。
これが私に「中学受験」という選択肢を与えました!
それも小学5年生の冬という時期から。

それからは初めての塾通い。
最後の追い込みでは朝から夜まで缶詰の日もありました。
いつも21時までに寝ていた人間が0時近くまで勉強し続けたのです。

そのかいあってか第2志望の日本大学第二中学校へと合格。
無事春から私立中学校へ入学です。


4. 中学生

1997年4月
私立日本大学第二中学校入学
最近では「おのののか」さんや「オードリー」のお二人の出身校です。
このときまだ156cm。

まったく新しい環境。
当初の予定通りサッカー部へ入部。
いろんな地域から来た人たちとサッカーをする初めての経験です。

このとき初めて自覚したのですが、
私は極度の「人見知り」だったのです。
振り返って思えばそんな兆候はいくらでもありました。
自覚するまでは至ってなかったのですね。

思春期の人見知り。
しかも周りは知らない人だらけでサッカー部は今でいう陽キャの集まり。
見事に誰とも話すことが出来なくなってしまいました。

さらに追い打ちが。
小学校でやっていたレベルより数段上の選手ばかりだったのです。
もうこうなると完全に委縮したまま練習に臨んだ毎日でした。

途中からは後輩にベンチ入り枠をとられ、
そのまま全体練習では隅っこに追いやられる日も…。

実力不足はもちろんでしたが、
「自分から学ぼうという姿勢」
がないままになってしまったのは本当に惜しい日々でした。

漫画のような逆転劇もないまま中3の秋には逃げるようにサッカーは引退。
その後は中高一貫校だったため失った自信を癒すように遊び惚けてました。


5. 転機

遊び惚けていた数ヵ月。
数少ない友人Hから誘いを受けます。

「ハンドボールやってみない?」

友人Hもサッカーを続けないのは知っていました。
しかも実はこの時点で身長が180cmにまで伸びていたんです。
(中学3年間で30cmに迫る伸びだった!!)

日大二中・高校ではハンドボールは高校からしかない部活。
その友人Hも高校から始めたいから今の暇な時期に練習に行かないか?
とのことでした。

ハンドボール??
正直そのとき初めて聞きました(笑)

いきなり中学3年生が冬場にいきなり現れて練習に参加させてほしいと。
断られてもおかしくなかったのですが、先陣をきっていた友人Hのおかげで難なく参加。

みなさんの予想通りこのハンドボールにどっぷりはまってしまいました。
高校入学前に入部決定!!
これが暗黒の中学時代からの転機になってくれるのでした。


6. 高校生

2000年4月
内部進学で日本大学第二高校へ入学。
1クラス48人の12クラスのマンモス校です。
正直学年の半分も知らないうちに卒業したような気がします(笑)

高校入学してもクラスではほぼしゃべらないのは変わりません。
まだしっかり人見知りですから。

ただハンドボール部がありました。
みんな1からのスタート。
そして私にも劇的な変化が知らないうちに出てきていたのです。

身長が一気に伸びたのがひと段落したおかげか身体能力が開花!
瞬発系の数値が一気に飛躍。
高校1年でジャンプ力はリングに届くまでになっていました。
サッカーやっていて気づかなかったですが肩も良かったんです。

そのまま1年生から試合に出続け、2年生ではエースでキャプテン。
一気に自信も回復です。
ただここでもこのままスムーズにはいきません。

ついにケガが始まったのです。
始めは肉離れ。まともに歩けなくなりました。
足関節の捻挫。これも何回も。
慢性的な腰痛。ちょくちょく痛みに悩まされました。
最後に3年生の春大会で片方の膝の前十字靭帯。それを無理してプレーして最後の引退試合で反対の膝の前十字靭帯まで。

それでもハンドボール自体はとても楽しむことができた3年間。
20分ハーフで14点もとった試合までありました。
自分の人生を取り戻せた3年間と言っても過言ではありません。
誘ってくれた友人Hには今でもこの恩を返し切れていないでしょう。
この場を借りて感謝の言葉を。

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7. 進路

部活が終われば進学のことを考えなければいけません。

日本大学系列の高校で比較的偏差値も高かったので内部推薦で入ることが一番楽な道だったかもしれません。
ただいわゆる「サラリーマン」にはあまりやりがいを見出せず。

そこでふと自らの胸の奥にあったのが高校3年間で培ったケガの歴史。
自分が大ケガで動けなくなってもどうにかしてくれた「身体的な分野からの選手のサポート」
これが自分のやりたいことだ!と思い立ちます。

久しぶりの塾通い。
「理学療法士」「柔道整復師」「スポーツトレーナー」
これらの資格がとれる学校へ。
大学受験への道が始まったのです。

ただなかなか勉強に熱が入らない。
受験で使わない教科は捨てるという名目のもと学校の勉強も疎かになっていきました。
よく両親も黙って見守ってくれていたと思います(笑)

結局現役では全滅。
浪人の道へ進むこととなりました。


8. 浪人生活

浪人してまで中途半端な結果は出せない!
本格的に最大手の1つ河合塾へ入塾しました。
前述の友人Hも浪人しており、偶然同じ河合塾の駅反対側校舎へ。

朝から晩まで勉強しかしない日々。
友人Hも別校舎で同じクラスには誰一人知っている人はいません。
感がいい方はお気づきでしょう。
最大限人見知りを発揮し予備校通いの1年間ただ一人の友人も作りませんでした。
加えてひどいときは朝から晩まで一言もしゃべらない日もあったくらいです。

そのおかげか本当に勉強に集中しました。
特に英語はかなり素晴らしい講師の方にあたり一度センター試験(今の共通試験)の模試で1問しか間違えない快挙を達成!
英語のみ偏差値は70近くを叩き出したこともあるのがこの時期唯一の自慢。

結局第一志望には届かず。
苦手な化学が伸ばし切れなかったのが敗因です。
あんまり化学は面白くなかったですね(笑)

それでも「理学療法士」と「柔道整復師」の資格がとれる大学に無事合格。
よりやりたいと感じていた「柔道整復師」の方へ入学することを決めました。

※両親としては大学のレベルとしても資格の種類としても「理学療法士」の方に言ってほしかったらしいです。ここでも少しの小言でOKしてくれた両親に感謝です。


9. 大学生

2004年4月
1年遅れで帝京平成大学へ入学。

柔道整復師の学科は新設の1年目。
校舎も千葉県市原。
自宅から徒歩~電車~バスで2時間半!
今考えると恐ろしいですね(笑)

さらにこれが裏の目的でもあったのですがこの大学には当時ハンドボール部があったのです。
恐ろしい通学時間の上にハンドボール部にも入部。
若さですね。

勉強自体はまったく問題ありませんでした。
浪人生活で培った勉強への集中力で資格勉強含め気軽にやっていれば大丈夫そうだなという感じです。
何よりやりたいことど真ん中の勉強。
楽しくないはずがありません。


そしてハンドボール。
人数が少なく1年から試合に出れることに。
実際に出てみたらそんなに甘いものではありませんでした。

浪人生活で落ちに落ちた体力に筋力。
ここでも発動する人見知り。
まったく本来の力を発揮できない上に1年の間にまたケガです。
時間差ですが両膝の前後十字靭帯損傷
ゆっくり治さず動いていたためそのまま2年になっても動きは戻らず。

ここでの転機は3年になる少し前の練習試合。
何かがふと噛み合った瞬間。
以前のように動けるようになってきたのです。
それから1試合最高20点。1シーズンで得点王!は惜しくもならず2位。
チームも昇格することが出来てまずまずの引退を迎えました。


10. 就職

大学卒業前に国家試験。
これはおかげさまでスムーズに合格することが出来ました。
晴れて柔道整復師です。

そこから就職先探し。
一般職とは違い連絡入れて履歴書持って面接へ。
他の人は伝手を使ってなどあるかもしれませんが、私はこんな感じで就職しました。

大学を選んだ段階ではスポーツ方面へ!
と熱意を持っていた自分は息をひそめ出来るだけ給料が良くて近くてきつくなさそうな職場を選んでいたのです。

最初の職場はそんな感じで選んだのですが最初の数ヵ月で仕事の影響で「腰椎椎間板ヘルニア」を発症。
強い腰痛と右下肢への痛みとシビレで苦しみました。

ただ最初の就職先が1年経たず閉院
そこから勤め先をいくつか変わります。
整形外科から整骨院へと勤め先を変えますが、やはり根本的なところで以前のような仕事への情熱なんて持ち合わせていません。

そんな中でもひょんなことから整骨院の分院の院長に。
前任者が急に退職になったための本当に急な話でした。
正直まだこの段階で独立や本当にやりたいことなど見えていません。

分院長を4年勤めたあるとき。
独立しないか?と考えが頭をよぎります。
本当にふと、です。
ここで踏みとどまってしまったら一生後悔する。
勇気を振り絞って独立を打診。
なんやかんやありましたが次の年の1月末に退職・独立となりました。


11.独立開業

2018年2月埼玉県東松山市に「すなが整骨院」開業。
人生何があるかわかりませんね。
周りの支えもあって自費専門も整骨院を開業させていただくことが出来たのです。
何の計画性もあったものじゃありません(笑)

開業初月も思った以上に。
2月目から完全に黒字で終えることが出来るようになったのです。
これは独立前から師事していた「上原宏先生」のおかげでもあります。
今も使っている手技である「DRT」の開発者です。

技術はもちろん心のあり方を本当に学ばせていただいています。
今までマイペースで自分の力で進み切る!というタイプだった私が周りへの感謝の心を持てるようになったのも上原先生のおかげです。
ありがとうございます。

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12.自分のやりたいことを思い出す

独立して時間的にも精神的にも余裕が出来たタイミング。
ふと昔自分がやりたかったことを思い出します。

「身体的な分野からの選手のサポート」

スポーツ方面でご活躍されている方々へ目が向くようになりました。
そこで独立前からYoutubeでよく見ていた「岡部将和」さんに直接会いに行くことにしました。
きっかけは本当にドリブルうまいなぁという程度の認識。

イベントに行ったりオフ会で直接お話する機会もいただきました。
オンラインサロンにも入りました。
その中で岡部さんのお話を伺う中で「チャレンジ」という言葉。
これが私の心に刺さりました。

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せっかく独立したのに自分のやりたいことにチャレンジしないでどうする!?

オンラインサロン内でもチャレンジ宣言する場があり、思い切って宣言。
「プロ選手のサポートをするような人間になる」
と。

そこから本格的にスポーツ方面に動き出します。
まったく人脈も経験もない状態。
とにかく動き出すしかない。

SNSを有効活用し面白そうなところには積極的に顔を出すようにしました。
その中で少しずつ。
本当に少しずつですが道が拓けてきたのです。

自分がやりたいことをやっていくにはそこに通じる苦手なことにも着手しなければならないこともありました。
ここでもネックは「人見知り」
この段階ではだいぶ克服することが出来るようになってきていました。
それでも人と接する機会が少なかったこともあり、自分のことを相手に伝えるという能力が絶望的に磨かれてこなかったのです。

それも自分がこうありたい自分に近づくため。
本気で磨き始めます。
まだまだこれからですがどうにかYoutubeの撮影が出来るくらいにはなっています(笑)

心も磨き技術も磨き。
様々な競技のプロ選手のサポートをさせていただく機会をいただいています。
ドリブルデザイナー岡部さんにお会いしなければなかったことでしょう。
そして、コーチングによって私を引き上げるサポートをしていただいている岡部さんのマネージャーのダイさん。
本当にありがとうございます。

最後に最愛の家族。
私が好きに動けているのも妻が家庭を支え2人の娘が私を信じて待ってくれているからです。
感謝の言葉しかありません。

まだまだスタート地点。
選手のサポートをしていく上で選手以上のチャレンジをしていけるよう日々慢心することなく突き進んでいきたいと思います!

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13.やりたいことを諦めるな!

ここまでお話してきた通り私は数多くのケガを経験してきました。
いまだに両膝はゆるゆるのままです。
それでも今の私の全力で動くことに何ら問題はありません。
それだけ自身の重症な体をも治してこれた知識と経験を手にしています。

さらに私自身もチャレンジを進めています。
最近では人生で初めてアラフォーでバク転にチャレンジも。

私自身も選手と一緒にチャレンジし続けていきます!
安心してあなたもチャレンジしていってください。

✅体の痛みがどうやっても治らない
✅大きなケガを負ってしまった
✅自分が思ったプレーに体がついてこない
✅もっと今より成長したい


そんなあなたのやりたいこと諦めないでほしい!!

どんなに周りより成長が遅れていても

どんなに周りからもう無理と言われたケガをしたとしても

それを理由にやりたいことを諦めてしまうのは本当に悔しいこと。
私が体のプロとしてあなたの「やりたい!」を一緒に引き上げていきます!

あなたの「やりたい!」は何ですか?
今のあなたの体がそこに追いついてくれていないなら体を変えていかなければいけません。

そのために私は「すながメソッド」を体系化しました。
今までトレーニングに励んできた選手にも必ず伸びしろが隠れています。
それを最大限引き出すためのメソッド。
「姿勢」「重心」を中心に立ち方から変えていくものです。

自分の可能性を自ら閉ざすことは待ってください!

周りにも好きなように言わせておきましょう!

あなたの体にはもっと可能性が隠れているのかもしれません。

あなたのやりたいことは何ですか?
それは今本当に実現できていますか?


今までよりもっと楽に体が動くようになった!
その言葉が聞ければ最高に嬉しいことです!

最後までお読みいただきありがとうございます。感謝いたします。

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