青い池の人魚
《あらすじ》
十歳のとき、わたしは池のほとりで笑う人魚と出逢った。
祖母が住む山奥の土地に一夏預けられ、寂しさでいっぱいだったわたしの、幻のような話し相手だった。
十年が経って、都内で暮らすわたしは祖母の訃報を聞く。
祖母の死を口実に、わたしは人魚に会うため、再びその土地を訪れた。異様な雰囲気の漂う土地と、親戚たちを気味悪く思いながらも、わたしは人魚と再会した。
同時に思い出す。
十歳の時に交わした約束。不老不死を願う親族に閉じ込められた彼を、海に帰してあげること。
親族を手にかけるも、血肉を奪われた彼は、すでに泳げる状態ではなかった。
約束は叶わなくとも「そばにいて」彼の願いだけは叶えるために。
私は青い池に沈んだ。
【序】
池のほとりに頬杖をついて、美しい人魚が微笑んでいた。
頬や首筋に、まだらに青い鱗を散らして。頭の左右には、薄ら向こうの景色が透けるような鰭があった。
それは人とよく似た顔をしているのに、人とは違う生き物であった。
「君にあげる」
彼は細い指先を、池の中に入れる。そうして、池に沈んで見えない尾部から、鱗を一枚、剥ぐと、わたしの小さな手に握らせる。
夜の闇に浮かんだ鱗は、まるで鬼火のように、ほのかに青く光っていた。
鱗についた彼の血が、わたしの掌を濡らした。その血は、わたしとは違う青い色をしていた。わたしたちが違う生き物であることを、残酷なまでに突きつけてくる。
池の中にいる、あなた。
池の外に立つ、わたし。
わたしたちは、決して同じ場所で生きることはできないのだ。
「約束。いつか、わたしがあなたを×××××あげる」
どうしだろう。
あの人の膚の白さも、その鱗の輝きも憶えているのに。遠い夏に置き去りにしてしまったあなたの姿を、夜毎、夢に見るのに。
わたしは、あの人に何を約束したのか。
その約束を思い出すことができなかった。
【1】
父方の祖母が亡くなったのは、わたしが二十歳になった夏のことだった。
めったに帰ってくることのない父が、珍しく、わたしの暮らす都内のマンションに顔を出した日のことだ。
大学が長期休暇に入ったことで、アルバイトに明け暮れていたわたしは、家に父がいたことに驚く。
「おばあさまが亡くなったんですか?」
「そうだと言っている。何度も言わせるな、あいかわらず物覚えが悪いな」
細いシルバーフレーム眼鏡の奥で、苛立たしそうに、父の目が鋭くなった。
久しぶりに会ったというのに、あいかわらず娘のことが嫌いらしい。母が生きていた頃から、余所に家庭を作って、まともに帰ってこなかった人だ。もともと、わたしたち家族に対しては情が薄いのだろう。
とはいえ、情が薄いのは、病気で死んだ母もそうだった。
子どものときは分からなかったが、大人になった今ならば分かるのだ。
父も母も、わたしの誕生を望んでいなかった。結婚するつもりもなかったのに、私が生まれるから、と慌てて籍を入れたものの、二人とも相手に不満があたので、すぐに関係は破綻した。
離婚も考えたものの、わたしの存在が邪魔をした。どちらもわたしの親権を押しつけあった結果、母が死ぬまで、ずるずると婚姻関係を続けたのだ。
「お葬式は、いつになりますか? わたしも行きたいです」
「あの家には、葬式なんてものはない」
「うちうちで済ませるという意味ですか? 流行りの家族葬みたいな感じでしょうか?」
「葬式をしない、と言っているだろうが」
わたしには父の言っていることが、いまいち理解できなかった。わたしは、人が亡くなったら、葬式をあげるのがふつうだと思っていた。
しかし、これ以上、何かを質問したら、ますます父の機嫌を悪くしてしまうと分かっていた。
「葬式がなくても、弔問には伺うのでしょう?」
「行かない。ほとんど縁を切っているような相手だぞ」
それは困る、と思った。祖母の死を悼むような気持ちはなかったが、わたしは別の理由から、どうしても彼女の住んでいた土地に行きたかった。
「ほとんど縁は切っているけど、おばあさまの遺産は相続したいのでしょう? あとで弁護士でも行かせて、きっちり自分の相続分は貰うつもりのくせに」
父は眉をひそめた。
どうやら図星だったらしい。父は、お金に困っているわけでもないのに、お金にうるさい人なのだ。貰えるものがあるならば、当然、貰いたい、と考えるだろう。
わたしはにっこりと笑って、話を続ける。
「形だけでも、おばあさまの死を悼んでいる、という素振りを見せた方が良いのではありませんか? 自分は仕事で忙しくて行けないが、代わりに娘を行かせる。そうしたら、相続のとき、少しは他の人たちの心証も良いでしょう」
父は溜息をつく。
「お前、まだ、あの土地にこだわっていたのか?」
「はい。何度お願いしても、あなたは場所を教えてくれませんでしたが」
「勝手に行けば良かっただろう。役所で戸籍謄本でもとれば、調べることができたはずだ。お前の本籍地は、あそこだぞ」
「何度か行ったことがあります。でも、辿り着けませんでした。最寄りの駅に行っても、路線バスなんて出ていません。タクシーも走っていない。実際に地図を使って歩いたことも、免許を取ってからはレンタカーを借りたこともあります。……でも、ダメでした。分かっていて聞いていますよね? どうせ、わたし一人ではたどり着けるはずがない、と」
「諦めなかったのか? そういう厄介な土地だ、と知っても」
「その厄介な土地に娘を預けたのは、お父さんでしょう? わたしが、もう一度、あの土地に行きたいと思うのは、十年前の夏があったからです。あなたが原因を作ったんですよ」
十歳のとき、たった一度だけ、祖母の住んでいる土地を訪れたことがある。
母が長期入院することになり、わたしを一人でマンションに置いておくことができなくなった。だから、仕方なしに、父は祖母のもとにわたしを預けたのだ。ほとんど縁を切った、とまで言うような相手を頼ったのだから、よほど娘の面倒を見たくなかったのだろう。
あの夏の思い出は、十年経った今も、わたしの心の奥深くにあった。
どうしても、わたしはあの土地に行きたかった。
「人魚などいるわけないだろう。まだ、あんなものを信じているのか? 止めてくれ」
「人魚はいました。わたしは、そう信じています。信じたい、と思っています」
「淡海(おうみ)。お前が人魚の鱗、と言っていたのは、ただの青い石だった。何の価値もない」
淡海。生前の母が、可愛くない名前、と笑っていたわたしの名前を、父の口から聞いたのは久しぶりのことだった。
もしかしたら、十年ぶりかもしれない。
「いいえ、あれは人魚の鱗です。わたしはそう信じています。お父さんが捨ててしまったけれども」
十年前、わたしの持っていた鱗を捨てるとき、珍しく、この人はわたしの名を呼んだのだ。
「付き合ってられない。好きにしろ。俺は止めたからな」
父の言葉は、娘を心配しているようにも聞こえるが、実際は違う。自分は止めた。だから、わたしがどんな目にあっても、自分の責任ではない、という言い訳だ。
おそらく父には予感があるのだろう。あの土地に向かったら、わたしが何かに巻き込まれる、という。
「ありがとうございます」
それでも、わたしは構わなかった。
十年もかかったが、ようやく、あの土地に行くことができるのだ。
(わたしは確かめたい。あの夏が幻でなかったことを、あの人が存在したことを)
誰もが、父のように、人魚などいない、というだろう。
しかし、わたしは祖母の暮らす土地で、美しい人魚に出逢ったことがあるのだ。
人魚など存在しない。寂しさのあまり、わたしが見た幻だった。そんな風に恐れながらも、わたしはあの人のことを諦めきれなかった。
もう一度、あの人に会いたかった。
『約束。いつか、わたしがあなたを×××××あげる』
あの人に会って、忘れてしまった約束を思い出さなければならない。
【2】
祖母の訃報を聞いてから、二週間も後になって。
ようやく、父から連絡があり、あの土地へ向かうための道を教えられた。
わたしは喪服のワンピースを纏って、夜明けとともに都内のマンションを飛び出した。
始発の電車に乗って、何度も電車を乗り継いだ。たどり着いた小さな無人駅は、祖母の暮らしてるはずの住所の最寄りではなく、そこから何十キロも離れた駅だった。同じ路線ですらない。
うだるような暑さに、麦わら帽子を深く被り直す。
四方八方から聞こえる、みぃん、みぃん、という蝉たちの声は、都市部の喧騒とは種類の違う五月蠅さがあって、めまいがするようだった。
わたしは紙の切符を箱に入れて、コンビニよりも小さな駅舎を出る。
すぐ前にある道に、見慣れない車が停まっていた。
いわゆる、いまどきの車とは違う。わたしは車に明るくないが、ずいぶん昔に生産されていたような車種だろう。乳白色のような薄墨色のような、そんな色合いのボディは、経年劣化でそう見えるだけで、もとは真っ白だったのかもしれない。
「淡海ちゃん?」
車の前には、ロングスカートにブラウスを合わせた、五十半ばくらいの女性がいた。服装だけなら、そう珍しいものではないのに、何処か古くささを感じた。スカートやブラウスの形が、今風ではないからだろうか。
白髪まじりの黒髪を結い上げた女は、父と似た顔をしていた。たぶん、シルバーフレームの眼鏡をかけたら、父とそっくりになるだろう。
記憶の片隅にいる女だった。たしか、父の妹である。
(お父さんの妹なら、たぶん四十歳くらい。それにしては、もっと)
もっと年上に見える。だから、父の妹だと思うが、確信が持てなかった。
わたしは小さく頭を下げて、車に駆け寄った。
「お久しぶりです。……あの」
「私の名前、憶えていない? ま、十年前のあなたは小さかったし、あたしもあなたに意地悪しちゃったから、忘れていたんでしょうけど」
意地悪。
確かに、祖母の家で過ごした夏、この人は外からやってきたわたしのことを目の敵にしていた。祖母の目がないところでは、いつも無視をされて、いないもののようにあつかわれた。
だが、あまり傷ついた覚えはなかった。
たぶん、わたしをいないものとしてあつかう大人は、彼女だけでなかったからだ。母も父も、娘であるわたしのことを煩わしく思っていて、できる限りいないものとしてあつかったから。
「すみません。お名前を間違えるなんて」
「良いわよ、謝らなくて。悪いなんて思っていないでしょう? 私のことは、叔母さん、とでも呼んでちょうだい。……やっぱり、あなたが一人で来たのね。自分の母親が死んだのに顔を出さないなんて。兄さんったら、ほんとう薄情な男。やっぱり外に出る男なんて、ろくなもんじゃない」
外。叔母さんの言っている外とは、自分たちの暮らす土地の外、という意味か。
地方から都市部に出て、そこで生活する者は珍しくない。わたしの大学にも、進学を機に、都内に出てきた学生がいる。進学だけでなく、就職や別の理由で出てくる者だって多いのだ。
だから、父が外に出たことも、非難されるようなことではない。
そう思ったが、叔母さんたちにとっては違うのだろう。
「父が薄情なわけではありません。仕事が忙しくて、休みを取ることができなかったんです」
「そうやって言い訳しなさい、と言われているのでしょう? それとも、庇っている? あんまり仲良しの親子ではなかったと思うけど。十年前のあなた、ろくに荷物も持たせてもらえないまま、うちに預けられたじゃない」
「……父が忙しいのは本当ですから。迎えに来ていただき、ありがとうございます」
「本当、感謝してちょうだい。あなた一人なら、きっとうちまで来れなかったのだから」
叔母さんは恩着せがましく言ってから、助手席のドアを開いた。わたしは彼女の厚意に甘えて、車に乗り込む。
車内は空調が効いておらず、蒸し暑さに、思わず眉をひそめてしまう。
「ごめんなさいね、空調が壊れていのよ。窓を開けるから、風で我慢してくれる?」
「修理に出さないんですか?」
こんな暑い季節に、空調もない車を運転するのは自殺行為だろう。この人は、毎年の熱中症のニュースを見ていないのだろうか。
「直しても意味ないのよ。お客様を迎えに行くときくらいしか使わないもの」
その言葉は、これから向かう土地に、お客様――わたしのような外の人間が来ることは滅多にない、という意味であった。
生まれ育った土地を捨てて、外の世界で生きることにした父だけが例外で。
きっと、その土地に生まれた者たちは、外に出ることなく生きてゆくのだろう。わたしの隣で、鼻歌まじりに運転する叔母さんのように。
「おばあさまのこと、お悔やみ申し上げます」
「お悔やみ。ふふ、そんなことを言ったの、淡海ちゃんが初めて。家の連中は、やっと死んでくれた、と祝杯をあげているわよ」
「そんな」
「私もそう。やっと死んでくれた。良かった、本当」
叔母さんは嬉しそうに言う。それから、わたしに話しかけてくることはなかった。
どんどん山奥に向かってゆく車に、わたしは遠い夏を思い出す。
あのときは、父の運転する車に揺られていた。道路というには粗末な道を行く車に、これから山に捨てられるのだろうか、と恐れたものだ。
(あのときのわたしは。お父さんにとっては、とっくの昔に捨てた娘だったのかもしれませんが)
やがて、叔母さんの運転する車は、山奥の村に着いた。
日暮れを迎えた村は、ぽつり、ぽつり、と木造の家があったが、両手で数えることができるくらいの数だった。わたしの住んでいるマンションの戸数よりも、ずっと少ない。
そして、しんと静まりかえった村は、恐ろしいことに外灯ひとつない。
家々から洩れる明かりも、室内の電気の明かりというよりも、囲炉裏や提灯から洩れる明かりのようであった。
当たり前のように、鞄から出したスマートフォンは圏外だった。
(あのときはスマートフォンなんて持っていなかったから、気づかなかったけど。ネットにも繋がらないんですね)
この村だけ、遠い昔のまま、時を止めているかのようだった。
「あなたのそれ、持っていても意味ないわよ。いんたーねっと? には、どうせ繋がらないもの」
「普段、外とは、どうやって連絡をとっているんですか?」
「……? 外と連絡を取る必要があるの?」
心の底から不思議そうに、叔母さんは言う。まるで、質問しているわたしの方が異常であるかのように。
「父には、どうやって、おばあさまの訃報を?」
「麓に降りて、郵便局からお手紙を出したのよ。たまに、そこでお手紙も受け取るの」
父から連絡があるまで、二週間もかかるはずだ。電話やメッセージアプリなら一瞬で済むことに、手紙を使っていたのだから、時間もかかる。
電気も通っておらず、インターネットに繋がらないどころか電話も引いていない。
十年前のわたしは、あまりそのことを深く意識することはなかったのだろうか。これほどまでに閉鎖的で、異様な場所だということを、理解していなかったのか。
十年も経てば、薄れてしまった記憶も多い。
どれだけ憶えていたくとも、零れてしまった記憶もある。
だが、それにしたって、多くのことを忘れているのではないか。自分で自分のことが信じられなくなりそうだった。
(大丈夫。信じている。信じたい、と思っています。あの人は、たしかにこの土地にいた)
青い池のほとりで、わたしに微笑んでくれた人魚はいる。彼に約束した何かを忘れてしまっても、彼の存在は憶えている。
車から降りると、築何年かも分からないほど古い木造平家建ての屋敷があった。
門からでは見渡すことができないほど広い。広いが、ところどころ手入れが行き届いていないのか、どこか陰鬱で、廃墟のような印象を受けた。
「いらっしゃい。ゆっくりして、とは言わないわ。ゆっくりできないでしょうから。あなたが来ることを、良く思っていない人たちも多いのよ」
【3】
真夏の湿気にまじって、い草の香りがした。
ずらり、と座敷に並んでいるのは、十数人の人間だった。こんな昼間から集まるには大人数に思えたが、どうやら全員、親戚らしい。
そもそも、この山奥に暮らしているのは、本家と分家という括りはあれど、皆、親族なのだという。
叔母さんは給仕に回っているらしく、彼女の姿はない。他にも何人か女性がいるようだったが、その人たちも同じだろう。
座敷にいるのは、みんな、わたしよりも年上の男性だった。
わたしの父くらいの年齢の中年から、腰の曲がった老人まで、年齢は様々だったが、皆そっくりの顔をしている。
父とも似ている、と思った。
わたしは母親似だから、ここの人たちと血の繋がりがあると言っても、きっと傍から分からないだろう。
男と女。似たような顔。
二つの意味で、わたしだけが異質なものとして弾かれているようだった。
わたしは自分の前に置かれた膳を見る。
こんな山奥である。食事に期待していたわけではないが、それにしても食欲の失せるような膳であった。
(お魚、でしょうか?)
お造りも塩焼きも、魚を中心とした膳である。
こんな山奥なのだから、当然、海の魚ではないだろう。そもそも、ろくに外と交流を持っていなさそうな場所に、海の魚なんて届くとは思えない。
きっと川魚なのだろうが、いやに生臭い。
周りにいる人たちは、何の抵抗もなく口に運んでいたが、どうにも食べる気がしなかった。
しかし、出されたものを食べないわけにはいかない。
吐き気を我慢しながら、なんとか咀嚼する。
「それで。どうして、余所者の娘がいるんだ?」
座敷にいる誰かが、そう口にした。途端、その場にいる人間の視線が、すべてわたしに向けられる。
「父の代わりに、弔問に参りました」
「あんな外に出ていった男、うちの人間じゃないだろ。いまさら娘を寄越すなんて、出ていった身で、あつかましい」
あつかましい、という言葉に、相続のことを気にしているのだろうな、と思う。
「相続のお話なら、追って、父とお願いします」
実際には、父と言うよりも、父から依頼をうけた別の人間が来るだろうが、そこまで言う必要はないだろう。わたしに言われても困る、ということだけ伝われば良かった。
「あいつに継がせるものなんかない」
「それを決めるのは、わたしではありません」
わたしは声のした方を振り返った。
この人も見覚えがある。たしか父の従弟だったか。十年前は、今のわたしと同じくらいの若い男だったが、あの頃とはずいぶん印象が違う。
なんというか、十年どころか、二十年も三十年も老けたように見えたのだ。
年齢のわりに、肌つやは悪く、目も落ちくぼんでいる。他の人たちも同じようなもので、実年齢よりも、ずっと年上に見えた。ここまでわたしを連れてきてくれた叔母さんも、そうだった。
皆、不健康そうに見えるのだ。
ここの人たちのいう《外》の人間の方が、よっぽど健康的に見える。
「相続と言うが、ここに大したものはない。だから、あいつも外に出ていったんだろうよ」
「ここから帰ったら、わたしから父に言え、と? 継ぐものなんてない、大した価値のないものしか残っていなかったから、早く相続放棄した方が良い、と」
「こっちは親切で言っている」
「父が継ぐと困るものでもあるんですか?」
「……何が欲しい? 屋敷と土地? 余所者にとっては何の価値もないだろう」
たしかに、こんな山奥にある屋敷も土地も、特別な価値があるとは思えない。父は、そのあたりの金になるかどうかの判断が、わたしよりもずっと正確だ。屋敷も土地も要らない、と言う気がした。
だが、それ以外に何かあるかもしれない。いかにも古そうな家だ。何かしら換金できるような骨董品でもあるのだろうか。
「だから、その話は父としてください。わたしは父の代わりに、弔問に参った、と言いました。それ以上のことはしません」
「弔問。お前の言うそれは、どういうつもりだ? 大奥様に何をしたい、と言っているんだ?」
大奥様。一瞬、誰のことか分からなかったが、おばあさまのことだろう。
「ご挨拶を。仏前なのか、お墓なのか分かりませんけど。それが終わったら、帰りますよ」
本当の目的は違うのだが、祖母の死を弔う、という建前で来ているのだ。
座敷が静まり返った。まるで、わたしの口にした言葉が理解できない、とでも言うように。わたしは戸惑いながら、話を続ける。
「亡くなったのは、昨日、今日の話ではないのでしょう? こんな暑い季節では、おばあさまのご遺体、あまり長くは置いておけません。とっくに焼き場に持っていっていますよね。そうしたら、仏壇に骨壺を置いているとか、納骨を済ませた、とか。何かしら、あるでしょう?」
もしかして、火葬ではなく、別の方法で葬ったのか。たしかに、土地によっては、火葬以外も許可されるときがある、と聞いたことはある。
だが、わたしの考えていることとは、どうも違う気がした。
「あんなごうつくばりに、そんなもの用意するわけないだろ」
ごうつくばり。おばあさまのことを言っているのだ、と気づいたとき、わたしは驚く。
あまりはっきりと憶えているわけではないが、十年前の祖母は、この家でも強い権力を握っているようだった。こんな風に、彼女のことを悪し様に言う人はいなかった。
(止めよう。考えても仕方ない。おばあさまが亡くなったことは、この土地に来るための口実なんだから)
祖母の遺体のことは引っ掛かるが、わたしが気にするようなことではないのだろう。
わたしは、ただ十年前のことを確かめるために、ここに来た。それ以外のことは、相続のことも含めて、わたしにはどうでも良いことだった。
「いつまで、ここにいるつもりだ? こっちは話し合うことがあるんだ。そこは、お前の父が来ると思ったから用意した席だ」
父ではないならば、話し合いに参加させられない、ということらしい。そもそも、
わたしが父の代わりに訪ねてくることは、叔母さんから聞いていたのではないか。
そう思ったが、わたしは口答えせず、そのまま席を立った。
出されたものを残しておくのは気が引けたが、まずい食事を口にしながら、こんな人たちに囲われるくらいならば、さっさと出ていきたい。
【4】
夜になって、わたしは屋敷を抜け出した。
スマートフォンを懐中電灯の代わりにして、暗闇のなかを進む。
電気が通っていないのは不便だったが、持っている充電器が、たまたま手動式で助かった。あいかわらずの圏外であったが、あたりを照らすには役に立つ。
(いまどき、電気も通っていない、電話も引いていない、インターネットも繋がらない、なんて土地があるんですね)
十年前、この土地に預けられた夏も、同じ状況だったのだろう。
ただ、あのときのわたしは子どもで、とても狭い世界を生きていた。自分の世界は、目に見える範囲だけだった。自由にできることいは少なく、小さな端末ひとつで外の世界に繋がる、ということも知らなかった。
だから、あまり不便とも思わなかったのだろう。
それに、当時は、厄介払いのように、この土地に預けられた寂しさでいっぱいだった。
あの頃のわたしは、まだ期待していたから。余所に家庭を作って帰ってこない父にも、自分の境遇を憐れむばかりでわたしを見ない母にも。
わたしは十年前の記憶を頼りに、屋敷の裏にある林に入った。
方々に伸びた木々の枝葉をかき分けて、本当に、この先に目的の場所があるのか不安を感じながらも進んだ。
やがて木々が消えて、ぽっかり穴のように空いたところに辿りつく。
一面、青く染まった池であった。
池の周りには、おびただしいほどの露草の花が群生していた。水面さえも、花の青に染めあげるようであった。
こんなにも暗い夜なのに、この場所が青いことは分かるのだ。
池のほとりに、生白い腕があった。ほとりに細い腕をついて、そこに頭を預けるように、美しい人魚が眠っていた。
わたしは自然と、自分のまなじりから涙が伝っていくのを感じた。
――あの夏、わたしが心を寄せた人魚は、確かにいたのだ。
あのときと変わらぬ姿で、あの美しい人がいる。
わたしは池のほとりに駆け出した。露草のうえに膝をついたとき、男の長い睫毛が震える。
「淡海?」
十年前、寂しいわたしに寄り添ってくれた人魚は、あの頃と同じようにわたしの名を呼んだ。それだけで、また涙が止まらなくなった。
「泣いているの? 君は、いつも泣き虫だね」
「十年も。十年も、あなたに会いにくることができなくて、ごめんなさい」
男は不思議そうに首を傾げる。
「たった十年くらいで、どうして謝るの? おかしな子。ああ、でも、人の子は、すぐに老いる。十年も経てば、君も変わってしまったのかな。ずいぶん大きくなっている」
池のほとりに頬杖をついて、男は微笑んだ。
それは十年前と変わらない笑顔だった。
「あなたは変わらないです」
「知らなかったの? 人魚は不老不死なんだよ」
人魚が不老不死。それは聞いたことがあるような、ないような話だった。
わたしが知っているのは、人魚の血肉を食べて、とても長く生きた、という女性の話だ。
人魚そのものが、不老不死なのかは知らない。
だが、この人が言うならば、それは真実なのだろう。彼という人魚にとって、それは当たり前のことなのだ。
「本当に、老いることも、死ぬこともない?」
「そう。だから、たった十年くらいでは変わらない」
たった十年。わたしにとって十年は長かった。だが、彼からしてみたら一瞬だったのかもしれない。
「ごめんなさい。あなたがくれた鱗も捨てられてしまって」
泣きじゃくりながら、わたしは許しを請うように言った。
青くきらめく鱗は、十年前、この土地から連れ帰られる途中、父に見つかって捨てられた。
山奥の土地から、少しずつ遠ざかってゆく車のなか、わたしの持っている鱗に気づいた父は、険しい顔のまま鱗を取り上げた。そうして、車の窓から山中に投げ捨てたのだ。
わたしが泣いて嫌がっても、父は構うことはなかった。
ぜんぶ忘れろ、人魚などいなかった、と口にして。
「鱗? 欲しいのなら、またあげるよ」
「要りません。あなたに痛い思いをさせたくない」
あの日、剥がされた鱗には青い血がついていた。あんな風に彼を傷つけたくなかった。
「不思議だな。僕が痛い思いをしたって、どうでも良いでしょう? 君には関係のないことだ」
「関係あります。あなたが痛い思いをしたら、わたしの心も痛くなる」
「可愛いことを言う。そう、君は変わらず、僕のために泣いてくれるんだね。――でも、だめだよ。君は、二度と、ここに戻ってきてはいけなかった。僕のことなんか忘れて生きるべきだった」
柔らかな拒絶だった。わたしは首を横に振る。
「できません」
「できるよ。人は忘れることのできる生き物だ」
彼の言葉は、自分は忘れないけれど、という意味でもあった。
「どうして、そんなことを言うんですか。わたしは、ずっとあなたに会いたかったのに。あなたを忘れたくなかったのに」
「忘れたくなくても忘れる。君は、ぜんぶを憶えているわけではないでしょう? 人にとっての十年は長い。僕は、君と過ごした夏のことを、昨日のように思い出せるけど。君は違うでしょう? きっと」
彼の言うとおり、わたしは忘れてしまったことも多い。
『約束。いつか、わたしがあなたを×××××あげる』
交わした約束さえも、もうわたしの掌からこぼれてしまった。
会いにきたら、思い出せる。そう信じていたのに、結局、わたしは当時の約束を思い出すことができない。
「僕は知らないけど、外には、たくさんの素晴らしいものがある。あのときの君は、寂しさのあまり、僕みたいな化け物と一緒にいてくれたけど。僕と過ごした夏よりも素敵なものが、君にはたくさんあったはずだ」
「そんなこと。そんなことありません」
たしかに、わたしは外にあるたくさんのものを知っている。この年まで、着るものにも、食べるものにも、住むところにも困らず、きっと恵まれた生活を送っていた。大人になるにつれて、自由にできることも増えた。
「だって、不自由なく生きていても。恵まれていても。そこに、わたしを見てくれる人はいませんでした」
父も母も、どんなに願っても、結局、わたしのことを顧みなかった。仲良くしてくれる友人たちだって、わたしよりも大事なものがたくさんある。
わたしなんて、消えたところで代わりが利く。
大人になったわたしは、生きてゆくのは、そんなものだと分かっている。
父母からの特別な愛も、友人たちからのかけがえのない情も、求める方が我儘なのだ。それらが与えられなかった人たちは山ほどいて、それが当然だ。
わたしだけが特別、可哀そうなわけではない。
愛も情も与えられなくたって、それなりに生きてゆくのだ。
「十年経って、あなたの言うとおり忘れてしまったことが多くても。わたし、あなたにずっと会いたかったです。……あなたに会いたかったわたしの気持ちだけは、どうか嘘だと言わないでください」
男は寂しそうに目を伏せる。
「それでも、だめだよ。君は、ぜんぶ忘れて生きるべきだ」
「嫌です。やっと、また会えたのに」
「お願いだ。怖い人たちに見つかる前に、はやく屋敷に戻って。それで、明日にでも、この土地を離れるんだ」
お願い。そんなふうに言われたら、わたしは聞き入れるしかない。この人は、そのことをよく分かっている。
「もう二度と、会いにきてはいけないよ」
小さな子どもをなだめるように、彼はそう言った。まるで、十年前のわたしに語りかけるように。
その顔が悲しみに濡れていたから、わたしは彼の言葉を拒むことができなかった。
【3】
朝を告げるように、鳥の鳴き声がする。
夜が明ける前に、わたしは屋敷に戻った。あれ以上、彼に悲しい顔をさせたくなかった。リュックサックから着替えを取り出して、喪服のワンピースに着替える。
弔問を終えるまでは、ここにいる口実がある。
(なんとか引き延ばして、ここにいる日数を増やしましょう)
どうせ、わたしが都内に帰らなくとも、誰も気にはしない。
他に家庭を持っている父は、わたしが帰らなくても、自分には責任がない、と見ない振りをする。母は死んでいるし、母方の親戚とも疎遠になっているから、連絡も取っていない。
通っている大学とて、もう長期休暇に入っているのだ。遊ぶ約束をしていたような友人もいない。アルバイト先も、わたしが連絡が取れなかったところで、別の誰かを探すだけだろう。
わたし一人が消えたところで、何事もなかったように、ぜんぶ上手くまわっていく。
過去もずっとそうだった。これから先も、きっと変わりはしない。
「早起きなんだな」
昨日のうちに案内された客間を出ると、そこには父の従弟がいた。
「つい、目が覚めてしまって。旅の疲れかもしれません」
「そうか。夜、どこかに行っていたのかと思った」
「……人様のお家にお邪魔しているんです。そんなことしません」
わたしはそう言いながら、自分の声が震えていないことに安堵した。少し間が空いてしまったが、疑われるような受け答えではなかったはずだ。
「人様のお家、ね。だが、十年前だって、お前は好き勝手していたじゃないか。大奥様から、何度も折檻されたくせに。こりもせず、しょっちゅう屋敷を抜け出した」
折檻。祖母から、そのような真似をされた覚えはない。だが、彼は、わたしの知らない当時のことを憶えているのかもしれない。
「わたしが抜け出したからって、どうして、おばあさまが怒るんですか? 勝手に預けられた孫のことなんて、べつに、どうでも良かったでしょう」
この土地を出ていった息子が、自分勝手に、孫娘を押しつけてきた。たった一夏のこととはいえ、祖母からしてみたら、煩わしかっただろう。あまり憶えていないが、大事にあつかわれていた、とは思えなかった。
「お前が泥棒みたいな真似をしたからだろう。余所から来たくせに、うちの大事なものに手を出した」
「泥棒……?」
まるで覚えがなかった。今も昔も、人のものを盗んだことはない。そもそも、そんなこと考えたこともなかった。
人のものを奪ったところで、本当の意味で、わたしのものにできるわけではない。
「大奥様は、ぜんぶ自分で独り占めしていた。誰にも分け与えようとしなかった。そうだっていうのに、ぽっと現れたお前みたいなのが勝手をするから、怒ったんだろうよ」
要点を得ない話に、この人は、わたしの質問に答えたのではない、と分かった。ただ、当時の怒りを思い出して、吐き出しているだけだ。
そもそも、まともにわたしと会話するつもりがないのだ。
車で迎えにきてくれた叔母さんも、昨日の座敷にいた人たちも同じだ。この土地にいる人たちは、この人に限らず、みんな、わたしとまともに遣り取りするつもりがない。
余所から――外の世界からやってきたわたしのことを、早く追い出してしまいたい、と思っている。
「お話は良く分かりませんが。おばあさまに、御挨拶しても良いですか? わたしは、そのために来たのですから」
「だから、そんなものは用意されていない。父親から聞いていないのか?」
父からは何も聞いていない。だが、男の口ぶりからして、一族では当たり前のことが行われているのかもしれない。
「父からは何も聞いていません」
「娘にくらい言えば良かったものを。大奥様は皆に恨まれていたから、まともに葬られなかった、と。うちで生まれ育ったなら、そんくらい分かっているだろうに。これだから、外に出たやつは。口にするのも嫌なくらい、こっちのことが嫌いなら、そもそも娘なんて寄越さなきゃ良いものを。十年前も今も」
それは、父が、わたしのことなんてどうなっても良い、と思っているからだ。
どうでも良いから、自分が嫌っている――嫌うだけの理由がある場所に、娘が行っても構わない。父は、この土地でわたしがどんな目に遭っても、わたしが勝手をした結果、と思っている。
結局、わたしの疑問に答えることなく、男は何処かに行ってしまう。
おそらく、昨日の座敷にいた、彼以外の誰かに聞いても答えてくれないだろう。
(叔母さんに聞こう)
彼女とて、わたしに好意的、とはいかないが。まだ話が通じる気がした。
「お母様に挨拶? そんなの良いから、手伝ってくれない?」
あちらこちらを歩いて、ようやく見つけた炊事場に、叔母の姿があった。
「手伝う?」
「火加減、見ていてほしいのよ」
古めかしい釜戸の火加減など分からない。
わたしは、恐る恐る、ぐつぐつと煮立った鍋を覗き込む。
味噌を使っているためか、生臭さは、ほとんどない。しかし、やはり、この料理にもあの魚が使われているらしい。
こんな山奥にいながら、こうも連日、魚にこだわる理由が分からない。
電気が通ってないことを思えば、冷蔵庫などもないだろう。食材が痛むのが早いのだから、せめて長持ちさせるように保存するなどすれば良いだろうに、そんなこともしていないようだった。
「他の方々は?」
今日は他の女性はいないのか、彼女ひとりだった。
「分家の人たちは、今日はいないわ。昨日は話し合いがあったから来ていただけ。纏まらなかったみたいだけど」
「……わたしが途中で追い出された、あの話し合いですか? 叔母さん、わたしが父の代わりに来るって、言わなかったんですね」
彼女は子どものように目を丸くしたあと、声をあげて笑った。
「あの人たちの嫌そうな顔が見たかったの。とっても気分が良かったでしょう?」
「とっても居心地が悪かったです。……わたしは、ここには、おばあさまに御挨拶するために来ました。仏前でもお墓でも何でも構いまえんが、孫娘として挨拶させていただければ、あとは余計なことをしません。相続のことを気にされているなら、父と……」
「相続、ね。兄さん、出ていったくせに、今さら惜しくなったのかしら?」
ころころと笑っていた叔母の声が、急に冷たくなった。氷のような声に、思わず、わたしは肩を震わせる。
「それだけ、おばあさまの遺産が大きなものだったのでは? わたしは知りませんが」
「ねえ。兄さん、病気でもした?」
脈絡のない問いだった。父が病気をしているとしても、叔母さんが気にすることではないだろうに。叔母さんも他の人たちと同じで、余所に出ていった男、と父のことを嫌っているようだから。
嫌いな人間が死んだところで、ここの人たちは、きっと胸を痛めない。
叔母さんが言っていたのだ。おばあさまが死んだというのに、みんな祝杯をあげている、と。同じ土地で暮らしていた祖母の死さえ、そんなものなのだから、父が死んだところで、清々する、くらい言いそうだった。
「さあ? わたしは何も訊いていませんが、父もそれなりの年齢ですから、調子の悪いところはあるかもしれません。……あとは、もしかしたら、本人ではなく家族が病気になった、とかもあるかもしれませんね」
「家族って、あなたのこと?」
「いいえ。余所の」
あの人には、わたしでも、亡くなった母でもない家族がいる。たしか子どもまでいるらしいから、そこでは、おそらく幸せな父親というものをやっているのではないか。
わたしの知らない父は、わたしに冷たくした顔で、その家族に笑いかけるのだろう。
「あなた、やっぱり兄さんから大事にされていなかったのね。十年前も今も。もしかしたら、生まれたときから、そうなのかしら? かわいそう」
かわいそう。そんな風に言いながらも、叔母さんの声には、わずかな憐れみもなかった。
(あの人が、むかし言ってくれた『かわいそう』は、もっと優しかった)
忘れてしまった記憶が、零れてしまった思い出が、頭を過った。
『かわいそうな淡海』
そう言って、池のほとりから手を伸ばして、あの人はわたしの腫れあがった頬を撫でてくれた。あれは、もしかしたら、祖母に折檻されて、傷ついたわたしに向かって、彼が口にした言葉だったのだろうか。
「叔母さんが、おばあさまのことを教えてくれないなら、もう良いです。別の方のところに行きます」
「……? 別の方ところに? なに、母様を殺した人たちのところでも、順番にまわっていくつもり? けっこうな人数になると思うけど。一日かかるんじゃない?」
「は?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
亡くなった祖母のことを、皆で殺した、という意味に聞こえたのだ。
青ざめたわたしに気づくことなく、叔母さんは話を続ける。
「ずっと人魚の肉を独り占めしていたのだもの。あれは、皆で分け合うものなのに。私たちが何回言っても、話し合いにも応じないで。だから、皆、しびれを切らしてしまったのよ」
そのとき、視界の端で、何かが青く光った。
ところどころ黒ずんだ俎板に、魚の切り身が置いてあった。その隣には包丁と、青い鱗が転がっていた。
青く光る、まるで宝石のような鱗。
(あの人の鱗だ)
そう思った瞬間、わたしはうずくまって吐いてしまった。
昨日、わたしが口にした魚がなんであるのか、わたしが何を食べていたのか、理解してしまう。
「ちょっと! 汚い。こんなところで吐かないでよ。はあ、もう良いわ。どこか行って。せっかく、お手伝いしてくれるなら、淡海ちゃんには、おまけしてあげよう、と思っていたのに」
「おまけ?」
「そうよ。男どもは、料理なんて女の仕事、と言うけれど。あいつらの口に入る前に、つまみ食いできるんだから、悪くないと思わない?」
「これが。これが何であるのか知っているんですか?」
「あなた、さっきから、どうしたの? 知っている何も、あなただって十年前から知って知っているじゃない。母様から教えられたでしょう?」
冷や汗が額に滲む。
忘れてしまった記憶が、少しずつよみがえる。わたしの信じたくなかった恐ろしい事実とともに。
これは人魚の肉である。その鱗を剥がして、丁寧に肉を削いできたもの。
そうだ。たまに鱗がついたままになっているから、処理が大変なのだ、と祖母は笑っていた。
十年前の夏、わたしは泣いて、あの池に向かった。
おばあさまたちが、あなたに酷いことをしていた、と知って。
ずっと昔から、この土地に住んでいる人が、あなたのことを池に閉じ込めて、その血肉を食べていた、と知って。
『いつか、あなたを海に帰してあげる』
だから、わたしは約束したのだ。あの人のことを、こんな地獄のような場所から連れ出すことを。
わたしは立ちあがって、包丁を手にとった。
その後のことは、あまりよく覚えていない。覚えていないが、気づいたら、叔母さんが血だらけで倒れていた。
ぴくりとも動かなくなった彼女を見ても、わたしは何も思わなかった。
死んで当然だと思った。
あの人を傷つけてきた女だ。彼女だけではない。この土地に住まう者たちは、ずっとあの人の肉を食らってきたのだ。
どうして? そんなの決まっている。
人魚の血肉を食べると不老不死になれる。そんなばかげた話を信じて、ここにいる人たちは、あの人を食べ続けたのだ。
昨日の話し合いは、あの人のことを巡っての話し合いだ。
祖母が独り占めにしていた人魚の肉を、誰が相続するのか、という。
父のことを警戒していたのも、外に出ていった父が、今になって人魚を手に入れよう、としているのではないか、と疑っていたからだろう。
きっと、こんなことが、いつの時代も起きていた。繰り返された。
誰もが、あの人のことを、あの人の血肉を独り占めしたかった。老いることも死ぬこともない、あの人の傍で、老いて死ぬ人間たちは醜い争いを繰り返してきたのだ。
(ずっと、あの人は傷つけられていたのに。痛かっただろうに。……誰も、あの人の傷にも痛みにも寄り添わなかった)
今日に至るまで、こんなにも大事なことを忘れていたわたしも同罪だ。
わたしは近くにあった布巾で、包丁の刃についた血を拭った。それから、喪服のワンピースの後ろ手に包丁を隠した。
するべきことは決まっていた。それだけが、わたしにできる償いだと思った。
――すべてのことを終えたときには、もう夜になっていた。
わたしは血塗れの身体で、夜のなかを歩く。青く染まった、あの池を目指して。
【4】
おびただしいほどの露草の花に囲われた池は、夜であるというのに不思議と明るかった。まるで、露草の青が、池の水面をも染めあげるかのように。
池のほとりで、美しい人魚が頬杖をついている。
「人魚の血肉を食べたら、不老不死になれる、なんて、誰が言い出したのだろうね? そもそも、どれくらい食べたら不老不死になれるのかな」
その言葉は、ずっと、この人が搾取されてきた証であった。
老いに怯えることも、死を恐れることもなく、果てなき時間を生きたい。それは誰もが願うことであり、決して、叶えられてはいけない願いでもあった。
わたしは池の中に手を伸ばした。池に沈んだ彼の腰のあたりには、継ぎ目のようなものがった。そのまま手を滑らせると、人のような膚から、魚のように弾力のある感触に変わる。
魚で言うところの、尾部のようなものだろう。
だが、海を泳ぐことのできたはずの、それは。
もうほとんどの鱗が剥がれてしまって、痛ましいくらい、肉が削がれていた。
美しく、何処までも泳いでゆくことのできるはずだったのに、ひどい有様だった。今もな癒えることなく、血を流している。
魚の鱗を剥いで、その身を下ろすように。
この土地の人間は、彼の身を下ろして、自分たちのために食べていた。
人魚は不老不死。老いることも死ぬこともない。だが、負わされた傷は老いではなく、決して戻らないのだ。
この池は、露草の青を映して、青く染まったのではない。
彼の身から流れる血が、池の水を青く染めあげていたのだ。
「どれだけ、あなたを食べても。誰も、あなたと同じにはなれなかった?」
「誰も同じにはなれなかった。どうして、人は老いに怯えて、死を恐れるのだろう? 終わりがあることの幸福も知らず。……そもそも、人魚の肉を食べたら不老不死になれる、ということが間違っている。僕たちが不老不死でも、僕たちを食べたら不老不死になれるわけではない。もし、食べたものと同じになれるのなら、獣や魚を食べても、その子たちと同じにならないと」
獣も魚も、人よりもずっと短命な生き物が多い。だからと言って、それらを食べた人間が、それらと同じ寿命になるわけではない。
「あなたは、それを言わなかったのですか?」
「言ったところで、誰も信じなかった。人は信じたいものを信じる。それが嘘偽りであったとしても」
頭では分かっていても、納得できなかったのだろうか。
それほどまでに、老いと死を恐れていたのは、こんな閉鎖的な土地にいたからではないか。外の世界を知らなかったから、ここには老いと死しかなかったから、そればかりを怖がった。
「あの人たちは、みんな、いなくなりましたよ。あなたを閉じ込める人たちはいない。あなたは自由です」
黙り込んだ男に向かって、わたしは話を続ける。みっともなく声は震えてしまった。これから自分が言うことが、どんなに意味のないことなのか知っていた。
知っていたのに、わたしは言わずにはいられなかった。
「十年前の約束を叶えます。あなたを海に帰してあげる」
『いつか、あなたを海に帰してあげる』
それが子どもだった頃、わたしが彼に約束したことだった。何の力もなかったわたしが一方的に口にした、無責任な言葉であった。
「こんな身体で、どうして海を泳ぐことができるの? 帰ったところで、海の底に沈むだけだ。何も変わらない。ただ、僕を閉じ込める場所が、この池から海底に変わるだけ」
「じゃあ。じゃあ、どうしたら良いんですか?」
十年前、わたしはこの人を助けたかった。痛みや苦しみから遠い場所に連れて行きたかった。
十年も経って、わたしは大人になったのに。あの頃の無力な子どもではなくなったはずなのに。
どうして、わたしはこの人を救うことができないのだろうか。
男は、そっと手を伸ばして、わたしの両頬を包んだ。体温のない濡れた手が、まるで慈しむように、わたしの頬を撫でる。
「血の匂いがする。僕のために、みんな殺してくれたんだね」
わたしが、この池に来たときから、この人はわたしが何をしたのか分かっていたのだろう。どんな理由があったとしても、人は人を殺してはならない。それは人の世で生きてゆく限り、許されてはいけない罪だった。
だが、わたしはそれで良かったのだ。
たとえ人の世で生きてゆけなくなったとしても、それが何だろうか。そんなものは、この人の受けてきた痛みとも傷とも等価にならない。
「でも。ぜんぶ手遅れでした。いまさら殺したって、あなたの身体は戻らない。十年前、海に帰してあげる、と約束したときだって、あのときにはもう遅かったのでしょう」
あのとき、どんな気持ちで、この人はわたしの約束を聞いていたのだろうか。
彼が返事をしなかったのは、わたしの口にした約束が、叶うはずのない絵空事と知っていたからだ。
「手遅れではないよ。あのとき、君がそう約束してくれたことが嬉しかった。叶うことのない約束であっても、君の気持ちが嬉しかった。僕のために泣いてくれた、僕のために心を砕いてくれた」
「気持ちだけじゃ、心だけじゃ、あなたを救えなかったのに?」
「救われたよ。それに、もう一度、君は会いにきてくれた。大きくなったね。大きくなった君は、子どもだったときよりも、ずっとたくさんのことができるようになった。僕のことなんか、ぜんぶ忘れて、幸せになることができたのに。……ばかだね」
彼の声は震えていた。ばかだね、という言葉に、喜びを感じてしまったわたしは、きっと彼を悲しませる悪い子なのだろう。
この人は、きっと、何もかも忘れて、わたしが人の世で生きてゆくことを願っていたのに。
愚かなわたしは、この人を救うなんて、できもしないことをしようとして。
この人の願いを踏みにじったのだ。
それでも、わたしは思うのだ。
「あなたを忘れて、幸せになったとき。わたしは、きっと、自分を許せなかったと思います。あなたのことを、なかったことにして、人の世で生きてゆくなんて。わたしにはできなかった」
十歳のとき、わたしは青い池のほとりで微笑む人魚と出会った。
熱を持たない冷たい身体をした、どうしたってわたしと同じではない異形だったのに。誰よりも、わたしのことを真っ直ぐに見つめてくれる人だった。
父も母も、わたしのことを見ない振りをした。邪魔なものだったから、わたしが何をしても煩わしそうにした。
その孤独に、その傷に寄り添ってくれた人を、どうして忘れられるだろうか。
彼は、わたしが自分のために泣いてくれたことが嬉しかった、救われた、と言うが、わたしだって同じなのだ。
小さなわたしを、かわいそうに、と憐れんでくれた。
あのとき、わたしは確かに救われた。
「そっか。それなら仕方ないね。君が、人の世では生きてゆくことができないなら。ぜんぶ僕にちょうだい」
それは、ねだるような物言いだったのに、わたしの耳には、ごめんね、と彼が謝っているように聞こえた。
「ぜんぶ?」
「そう。君が生きていた過去も、これから続くはずだった未来も。ぜんぶを捨てて、僕だけを選んで。そうしたら、僕はきっと大丈夫。何処にも行けなくても、どんなに痛くても、果てのない時間を過ごすことができる」
「そんなことで良いの?」
「そんなことじゃない。我儘でしょう? 本当は、君のことを、ちゃんと帰してあげたかったのに。僕は帰れなかったけど、君は帰ることができたのに」
わたしは泣きながら、首を横に振った。
「あなたと一緒が良いです」
帰る場所など要らなかった。そもそも、最初から、人の世には、わたしの帰るべき場所などなかった。
わたしは両手を伸ばして、彼のことを抱きしめるように、青い池に身を投げた。
【終】
遠くの空が、紫に染まっていた。直に訪れる朝を思わせるように。
僕は息絶えた少女の身体を抱きあげて、冷たくなった少女の首筋に頬をすり寄せる。熱を失った彼女の膚と、熱を持たない僕の膚には、もう隔てるものがなかった。
池の中にいた僕と。
池の外にいた彼女。
かつて僕たちの間にあった境など消えて、僕と彼女が融けてゆくようだった。
十年前、外からやってきた女の子がいた。何も知らない彼女と過ごした時間は、僕にとってひどく心地よく、手放しがたいものだった。
あの子だけは、僕に不老不死を願わなかった。
真実を知ってからも、傷つけられた僕を思って、涙を流してくれた。
「僕の痛みに涙してくれたのは、君だけだった」
誰もが、僕は人と違うからといって、僕がどれだけ傷ついても気にも留めなかった。誰もが、僕と同じになるためなら、どれだけ僕から奪っても構わないと思っていた。
それなのに、君だけが僕のために泣いてくれた。
だから、僕は欲を出してしまった。
この子が僕のものになったら良いのに、と。
「分かっていた。君が、いつか僕のもとに戻ってくることを」
その傷に、孤独に寄り添えば、彼女は必ず戻ってくる。
僕は、あのときの少女が一番欲しがったものを、彼女に与えることができた、という確信があった。
だから、もう彼女の欲しがったものは、人の世では手に入らない。
僕のところでしか、その傷も孤独も埋まらないのだから、あのとき人の世に帰しても、必ず僕に会いに来てくれる。
そのために、『海に帰してあげる』なんて叶うわけない約束を、僕は否定しなかったのだ。
君のすべてがほしかった。
生まれも育ちも、今まで得てきたものも、すべて捨てて、僕だけを選んでくれたら。それは、君の身も心も、僕のものにできたということ。
奪われるばかりであった僕の生に、かけがえのない愛が与えられたということだろう。
それだけで、僕は果てのない時間を生きてゆける。
傷だらけの身では、どこにも行くことができなくとも。
「ありがとう」
青に染まった池のほとりで、人魚は幸せそうに微笑んだ。