破廉恥憧憬紀 十一
大貫は手の空いていた教師を総動員して臨んだ。献身的な教頭の姿に悔悟の念を覚えた。激しい催促が功を奏したのか、六時間目終了から僅か三十分で生徒たちは姿を消した。追手から逃れる諸姉たちは隙を見て机にチョコレートを押し込み、薄い望みを膨らませていった。そもそも、チョコレートに望みを託す時点で結末は知れている。それで恋が成就するのなら、初めから直接的なアプローチを試みればよい。
私は人の消えた教室で、寺内先生の手伝いをしていた。どうやら大規模な教室清掃に人手が欲しかったらしい。
「高島君、来なかったんだね」
「あいつの逃げ足だけは私も認めるところです。面倒なことに対するそれはピカイチです」
「あなたはこれを『面倒』と捉えているのね」
「あ、いや…語弊ですよ」
私の動揺を見て寺内先生は悪戯な笑みを浮かべて「冗談だよ」と言った。
「それより先生、教卓に配付プリント詰め込み過ぎですよ」
「やろうと思っていたんだけど先延ばしにしちゃって。ゴールデンウイーク、夏休み、冬休みを越えてきちゃった」
「何枚あるんだ…」
例年、この規模の清掃は生徒の手を借りて三月に行われていたようだが、今年度は二月中にあらかた整理しておくよう管理職から指示があったそうだ。教頭が非常にマメなようで、計画的な業務の徹底を促しているらしい。
「私は計画的にできないタイプだから、ありがたい! 私みたいな人間には、自分から少しだけ社会的に離れた立場にああいう人がいると丁度いいの。友達にいたら、きっと殴っちゃうね」
入学以降、寺内先生とつらつらと話す機会は初めてだった。高校生ともなると、学級担任との関わりは希薄になる。異論は認めよう。
教師の神話性が疾うに崩れ去り、やりがいなる首の皮一枚で瀕死ながらも延命を続けること二十年余り。かつて地域から崇め奉られ、拳をちらつかせながら社会の上位に踏ん反り返っていた教師は、量が肥大化し無意義を極めた業務に加え、家庭教育の減衰や狭量さを増す地域に担がれるようにして黒いお立ち台の似合う存在となった。数多の生業がある現代において好んで教師になろうとする者は、言葉を選ばずに言ってしまえば阿呆だと思っていた。こうして話してみると、私が彼女に対して抱いていた、いらぬ正義感を振りかざした頭の固い姉のような典型的な女教師像は雲散霧消していた。彼女は軽々しく自分と向き合い、他者を適切に利用する。自分自身を正しく愛しているように見えた。
我々が掃除を終えたころ、辺りは薄暗くなっていた。時刻は十八時前を指していた。
「ありがとう! 本当に助かった!」
「一つ、訊いてもいいですか?」
「何?」
「報酬を伴うにもかかわらず、なぜ我々に声をかけたんですか? 人なら他にいくらでもいたでしょう」
私の問いに、寺内先生は鼻を鳴らし、満を持して答えた。「私ね、人を見る目は自信あるの。君たちなら引き受けてくれると確信してたんだ」
「要するに、体の良い使い走りというわけですか」
「あなた、卑屈ね。そんなんじゃ将来潰れるよ。称賛だけは馬鹿正直に貰っておくぐらいが人生幸せ」
「冗談ですよ。ありがとうございます」
「私の目は間違ってなかった。あなたに頼んで良かった。本当にありがとう」
彼女の無邪気な言葉には、卑屈な私にも不思議と響くものがあった。
「私はこれから用事があるから、もう帰るね。戸締りと電気、よろしく。じゃあ」
そう言って、寺内先生は教室を後にした。彼女の残り香が、やけに良い匂いだった。
戸締りをしていると、寺内先生と入れ替わるようにして高島が入ってきた。「作戦準備完了だ」
大貫の居城に戻った我々は、御祭神たる桃色雑誌に再び祈りを捧げた。神々しさを感じずにはいられなかったことは黙っておいた。やはりエロは神秘である。
「作戦は簡単だ。君が片っ端からチョコレートをかき集める。それを俺が準備した神聖な会場で解き放つ。何があっても、グラウンドにたどり着いてくれ」
「当たり前だ。一世一代の大勝負に胸が躍っている。今なら駒としてお前の掌の上で踊っても構わん」
「馬鹿を言うな。俺たちは一心同体ではないか」高島は見慣れた悪戯な笑みを浮かべた。
決心を固めた我々を祝うかのように、大貫が入ってきた。
「人払い完了だ」
我々は顔を見合わせて頷いた。「破廉恥、開戦だ」
私は先鋒として薄暗い校舎へと飛び出した。