絶対的絶命論

 いつからだろうか、「死にたい」と考えるようになったのは。
 いまでは「消えたい」に変わりつつある想いを、生涯の一部として丁重に、自らの内に包んでおく必要があると思った。以下は、その記録である。


 いつからだろうか、「絶対的に死ぬには」と考えるようになったのは。
「絶対的な死」とは、「肉体的消滅と、他者の記憶における我が存在の被忘却」である。
 それゆえ、単純な自死を選択することはむしろ逆効果となる。自死は、生前の私が他者ひいては社会においていかなる存在であったとしても、強烈な精神的ショックを現世に残してしまう。肉体的消滅は叶えど、記憶からの忘却には関係者全員の死を待たねばならない。

 では、遺体が見つからない自死はどうであろうか。現代日本の科学力や警察の高い捜査能力を考慮すれば、遺体が見つかってしまっては特定されるのも時間の問題である。遺体が見つからないということが鍵である。遺体が見つからなければ他者の認識における私の死は確定せず、死がもたらす精神的ショックを避けることができる。青木ヶ原樹海で遭難する、という手もあるが、これも現代日本の高い科学力と捜査能力の網にかかり、腐敗寸前程度の状態で発見されるのが関の山であろう。

 であれば、肉体を一瞬で葬るに限る。それなら痛みを感じるのも刹那、都合がよい。読者諸賢は幼少の折、「太陽に近づきたい」と考えたことはないだろうか。私はある。その夢想へは「溶けてしまう」という指摘が必ずと言っていいほどついて回った。溶ける。これだ。蒸発するほどの熱源に飛び込む機会を得ることができれば、「絶対的な死」を迎えることができるかもしれない。ただ、蒸発が可能なほど太陽に近づくには多大なる金銭と時間を要する。加えて言えば、太陽に接近するに伴って迫りくる死への恐怖に耐えられる自信が私にはない。そもそも耐えられる精神を備えていれば、端から死など求めない。たとえ眼前に迫った死を退けて地球に帰還したとして、そこからどう生きたらよいか分からない。自分で決めたことすら成し遂げることができなかったという烙印を自らに焼き付けることになる。その熱では肉体的消滅に至ることすらできない。そして私は「絶対的な死」を求めて再び彷徨うことになるだろう。太陽に近づくのはあまりにも非現実的である。

 そこで思いついたのが、火山に飛び込むことである。火山であれば、太陽に比べ安価かつ短時間での遂行が可能になる。また、死が迫りくる恐怖も刹那、都合がよい。ただ、それはあくまで火口までたどりついた場合の話だ。火口にたどり着くまでには登山による体力の消耗、それに伴うマイナス思考の出現、到着が近づくにつれて芽生える死への恐怖など多くの困難が待ち受ける。登山を中止し引き返すことになれば、結末は太陽の例と同じである。熱源までたどり着けずに終わるならば、家で寝ているしかあるまい。

 では、不慮の事故はどうだろうか。肉体的消滅が必ずしも自死である必要はない。事故の方が心の準備も整わぬうちで都合がよい。しかし、これも自死と同様に私の死が世間に流布することは必至であり、「我が存在の被忘却」が叶わない。ダメである。

 よし、では知り合いを皆殺しにしよう。ここまでくればやけくそである。私を知る人物たちを皆殺しにし、私も自死する。アメリカなどで見られる銃乱射事件犯の手口である。しかし、この手口にも大きな問題点がある。私がこの事件を起こすことによって、私を知る人物が新たに生まれ、またその人物を殺さなければいけなくなる。文字通り、皆殺しである。これまでのどの案よりも非現実的である。これもダメである。

 失踪ののち、寿命を全うするのはどうだろうか。この場合、被忘却を先に成立させることによって半死状態とする。「絶対的な死」にとって、大きな障壁となるのはやはり被忘却の実現であるから、この案は悪くない。しかし、半死状態であるがゆえに他者の認識から消えないということもある。つまり、肉体的消滅が果たされて初めて被忘却が始まるということだ。被忘却が先に成立する人間は、この世にはいないだろう。両親がすでに他界していようと、誰の認識にも記憶にも残らぬ人間はいない。よってこの案もダメである。


 結局、どれもダメであった。長々とかいているうちに、死ぬのが馬鹿らしくなってきた。人間はどのみち、「絶対的な死」など成し得ない。ならば、せめて肉体的消滅がやってくるその日まで、できる限り生きるのが健全なのかもしれない。

 明日も起きる。大事な人が待っているかもしれない世界を、ふらりふらりと生きてゆく。

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