「いちゃもん」感想③
見えない壁
この物語の鍵が
「第四の壁」
にあると仮定して考察を進めていこう。
あの時壊された「壁」は何だったのか。
単に、物語の中の登場人物が、舞台を降りて話しかけてきた、
というレベルではない。
舞台と客席がひとつながりになり、
さらに、見るものと見られるものが瞬間的に逆転する、
という現象がそこで起こっていた。
「安全圏から観ている人」という
自分の気配を一切消している状況から
一転して「観られる人」になった衝撃。
急に無防備を晒すことになった時に、
反射的に、何かが侵食される危険を感じた。
あの時、自分のアイデンティティに近い、
深いところの心の壁を殴られた気がした。
見てはいけない、見ることに抵抗のあるものが、
そこに映されているような気がした。
一瞬の隙をついて「壁」を壊されることで
普段は全く意識していなかったけれど
自分は普段、無意識に「壁」の中にいたのだ、
ということを、
逆説的にものすごく強烈に気付かされたのだ。
見えないけれど、そこにある壁。
普段は気にもしないけれど、
そこに触れられた時に、
強烈な違和感を感じる壁。
気づかなければ、気にすることもないのに
その存在に気がついてしまうと、
気になって仕方がなくなってしまう境界線。
気になって仕方がなくなるどころか
自分自身が揺らぎそうになるから
普段は見えないように目を逸らしているものが
その「境界」の向こうには、確かにある。
そんな世界観、メッセージを
それぞれのキャラクターが内包している、
と仮定すると、
どう考えられるだろうか?
+
ケース1 ギャラリーの女主人
彼女は、自分の価値観や自分の世界観に
強いこだわりを持っていて
自分の作り出す空間、スペースについて
名刺やパソコンの配置にまで神経質に気を配っている。
その自分のこだわりを詰め込んだ世界観に
敵うかどうか、許せるかどうか、
そこに訪れる客人や物事について、
吟味することを楽しんでいた。
彼女が持っている「境界」は
自分が作り出した空間「猫の家」。
この空間は、彼女が自分の偏向なこだわりを
思う存分爆発させることができる、
彼女のパーソナルスペースなのだ。
+
ケース2 劇団員の女
彼女の持っている「境界」は
セルフイメージ。
本名の自分と、自分が自分らしいと思う自分。
そこに隔たりを感じて、
名刺の名前を芸名にしている。
「さゆり」という名前に違和感があるわけではないのだ。
その名前に付随して、他人が勝手に抱く
他人から見た自分、のイメージに違和感を感じているのだ。
なぜなら、彼女は母の前では「さゆり」でいられるから。
対外的な場所での自分と、娘の立場の時の自分。
全く違う自分でありながら、どちらも自分。
ここにも、境界がある。
+
ケース3 さゆりの母とカーテン
彼女が一体何者なのか、生きているのか死んでいるのか
それとも「さゆり」の見た幻なのか、
それはわからない。
だけど、彼女は確信を持って繰り返す。
「私は死んでいるの」
彼女が語る「境界」は
生と死の境界。
そして「自分」と「自分ではないもの」の境界。
肉体があるか、ないか。
会話ができるか、できないか。
自分は生きていると信じているか、死んでいると信じているか。
本人なのか、それとも幻なのか。
彼女の言葉を反芻するたびに、
「生きている」ってどういうこと?
と、認識が揺らぐ。
また、彼女は
物語の中で、象徴的に用いられる
「カーテン」という「境界」を
いとも簡単に行き来する。
このカーテンも、「さゆり」の認識において
「境界」としての役割をいきなり与えられた象徴の一つである。
認識する前は、その存在は全く気にならなかったのに、
その向こうに、女主人の母親の遺体がある、と知った瞬間から
その「境界」の向こうにいるであろう、
目には見えない存在に敬意を払う。
気になって、仕方がなくなる。
「境界」として、カーテンが機能し始めた瞬間に、
彼女の世界観が変わり、言動が変わる。
その場において、変化したものは何もないのに。
+
ケース4 超能力少女
彼女は、自分が超能力を持っていると主張する。
しかし、彼女の能力は、決して証明されることはない。
証明することができない能力は、
果たして本当なのか、偽りなのか。
彼女の中で、パンツのひまわりは、確実に在るのだ。
でも、それが本当に在るかどうかは目に見えないのでわからない。
真偽を証明できるすべはない。(パンツを脱がすことを除いては)
さてそれは、真実なのか、嘘なのか。
在ると言えるのか、無いと言えるのか。
この目で見られないから、在る、無い。
証明できないけど、真実、嘘。
それを決めるのは、自分でしかない。
真実とはなんだろう。
彼女の持っている「境界」は、
そんな、誰もが心の中に持っている「秘密」。
+
ケース5 先輩
ファンキーな格好をした彼女は、
きっととても面倒見が良いのだろう。
少女が無邪気に心を開いて懐いていることや
あの神経質な女主人が空間を作る際に頼ったというところからも
それを伺うことができる。
しかし、彼女には、おそらく二面性がある。
幼稚とも言える少女の冗談に
目線を合わせて一緒に戯れているように見えるが
明らかに二人の間には年齢差があり、
そして、彼女の言動からも、
少女の話を純粋に信じているとは思えない。
おそらく、とても賢くて優しいのだろう。
目の前の相手に合わせて共感を示し
相手が不快にならないように立ち回る。
無意識に、そういう技に長けているのかもしれない。
聞き役に徹し、自分の感じたことは様子を見て心にしまう。
そんな風に、生きてきたのかもしれない。
だから、
無邪気にはしゃぐ少女に合わせて、
「ひまわり!」と連呼する彼女の姿は、
少し、痛々しいのだ。
本当に楽しんでる?
と、聞きたくなる。
目の前の人の、受け手として、
聞き役として、頼れる友人として、
相手に合わせて生きる人。
彼女を、そう仮定するとしたら、
彼女の持っている「境界」は、「自己」。
相手の写し鏡を演じる自分は、果たして、自分なのだろうか。
そんな場面を、
私自身も、演じてきていた記憶が刺さる。
++++
気づかなければ、気にすることもないのに
その存在に気がついてしまうと、
気になって仕方がなくなってしまう境界線が
何気ない日常の中に、
こんなにもあるものか、と驚愕する。
ドラマチックでもない、脈絡もない
そんな日々の暮らしの中だけど
それぞれの心の中にはいろんな物語がある。
それは、例えば、表舞台からはかけ離れたような
サイケデリックでドラマチックな裏舞台。
場転が明けた瞬間に瞳を刺す
白い光の眩しさに囚われて
幻だったのかと思い込んでしまうけれど
私たち一人ひとりもまた
違和感を抱えながら、壁を隔てながら
ドラマを演じている物語の一つ。
気づいているのに、気づかないふりをして
無いものとして視線を逸らしている境界の向こう。
もしかしたらそれは、
そこに踏み込んで、向き合った瞬間に、
同化して消えてしまうような、ドーナツの穴なのかもしれない。
あの時、勇気を出して
丸めた背中を伸ばしたように、
小さな違和感から目を逸らさないように
丁寧に生きていきたいなぁ、と、
思う今日この頃だったりするのである。
++++++
さて、そんな感じで
随分と長く書いてしまったので
この位でこの長い感想文を締めようと思います。
仮定の上に妄想を爆発させながら
何日にも渡り、楽しませていただきました。
とてもとても、面白かったです。
豊かな観劇体験を
本当に、ありがとうございました。
朝に夕に、冷え込みが徐々にしみる季節となってきました。
劇団員の皆様方におきましても
どうぞお体ご自愛くださいませ。
次回作も、とても楽しみにいています。
ありがとうございました。
+++++++2022年10月21日 久米++