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芥川龍之介『アグニの神』 「運命」とは何なのか? 本来の「運命」を人間が感じる条件とは

作品の概要 ※ネタバレ注意

インド人の婆さんが、自らの占い業のために日本人の女の子、妙子を幽閉していた。それは占いの結果を教えてくれる、アグニの神を女の子に乗り移らせるためだった。ある日妙子を探す日本人、遠藤が現れて妙子は脱出しようと試みる。それは、アグニの神が乗り移って眠ったフリをして、「妙子を解放しろ」と婆さんに言うといった作戦だった。だが実際にアグニの神を降臨させる儀式が始まると、妙子は魔法にかかり、眠ってしまった。するとなんとアグニの神は、婆さんの質問に答えることもなく、「お前は悪いことをしている、妙子を解放しなさい」と言い放ち、婆さんを殺してしまった。儀式の一部始終を覗き見ていた遠藤は、その後目を覚まして驚く妙子に、「私が殺したのではなく、アグニの神が殺しました」と厳かにそう囁いて伝えた。


運命の捉え方

今夜の計略が失敗したことが、-しかしその為に婆さんも死ねば、妙子も無事に取り返せたことが、- 運命の力の不思議なことが、やっと遠藤にもわかったのは、この瞬間だったのです。

芥川龍之介 『蜘蛛の糸・杜子春』アグニの神 p85 l.5

「それって運命だね」とか「運命の人」とか、私たちはよく運命という言葉を用いて、事後的に物事を奇跡的なもののように捉えようとします。そもそも運命ってどういう事を指す言葉なのでしょうか。
”人生は天の命によって定められているとする思想に基づいて考えられている、人の意思をこえて身の上に起きる禍福”と、広辞苑では説明されています。つまりこの世界の起こる事象は、人の行動や意思に変化があろうと既に決まっているもの。という概念なのですね。だから人は、偶然自然に起こったことの結びつき等を運命だと思い返しては解釈するのでしょう。
この物語においては当てはめると、どうでしょうか。すると妙子がこの婆さんから逃れると言う事象自体は、妙子の作戦が失敗しようが、成功していようが必然的に起こるものだったと言えます。妙子と遠藤の目線では失敗したと感じ、人間目線で予定外の過程を歩んでしまったと思っても、それでも逃亡の目的は達成された。私たちはこれを普段どのように表現しますか?「この結果は奇跡だった」「神様のおかげ」って言いますよね。きっと遠藤は奇跡を見た、という感動に近いようでそれを超えるような高揚感に包まれた瞬間を感じていたことでしょう。
失敗したからこそ、日々の悪事に怒っていたアグニの神が婆さんを殺害し、妙子は遠藤に抱えられて助かることになった。
でも、もし妙子が計画通り、眠らずにアグニの神の真似をして婆さんを説得するといういわゆる「成功」ルートだったら、どういう過程を歩んで「妙子
が逃亡する」という事象に繋がるのでしょう。そして私たちは計画通りに物事が進んで結果を得てもそれを「運命」だと捉えることができるでしょうか。


妙子の作戦が計画通りに進んでいたら

「我々はみな『運命』の奴隷なんだ やはり形として出たものは………変えることはできない…」

ジョジョの奇妙な冒険 第5部「黄金の風」より

僕はジョジョの特に5部が大好きで、この『アグニの神』を読んだ時に運命というテーマにビビッと来るものがあったのは、この影響があったのかもしれません。
さてジョジョについてはまた別の投稿で語るとして、次は妙子が自分の意思で「私を解放しろ」と婆さんに言う、計画成功ルートだったらどういう過程を経て妙子の逃亡に繋がったのか、について考察を深めたいと思います。
まずは簡略化して失敗ルートを整理しましょう。①儀式が始まる→②妙子が眠る→③アグニの神が婆さんに伝える→④婆さんがナイフを持って疑う→⑤アグニの神の脅迫→⑥婆さんがナイフを自らに突き刺して死亡する。
分岐したのは②です。もし妙子が眠らずに話していたら③は妙子が婆さんに伝える、ということになるはずです。そして④に進むのも違和感ありません。作中でも「アグニの神はそんなこと言わない、私をなめるんじゃない」
と言っていました。もしかすると、⑤についても、妙子はアグニの神の真似をしながらしていたかもしれません。そして大きな分岐点になるのが、⑥です。人の目から見れば婆さんが勝手にナイフで自殺したというように見える、神の力による殺人。これは妙子の力では成立しない。するとこのままでは、妙子は何もできずに婆さんにナイフで殺されてしまうかもしれません。
ではどんな運命の力が彼女をそんな窮地から救うのでしょうか。この作中の範囲で考えれば、遠藤が鍵となる存在でしょう。

婆さんはナイフを振り上げました。もう1分間遅れても、妙子の命は無くなります。遠藤は咄嗟に身を起こすと、錠のかかった入口の戸を無理無体に明けようとしました。が、戸は容易に破れません。いくら押しても、叩いても。手の皮が摺り剥けるばかりです。

芥川龍之介 『蜘蛛の糸・杜子春』アグニの神

作中の流れでは、もう婆さんが妙子の体にナイフを振りかざす瞬間にも、扉を開けることができずにいました。しかし婆さんがナイフに刺されて床に倒れた後、全身の力を込めてぶつかることでついに扉は開きます。
このルートでの婆さんを克服する力は、妙子はアグニの神と引かれ合う特別な重力によるものだったということの強調でしょう。

と、いうことは計画通りに進んでいたら婆さんを克服するのは、遠藤が妙子に引かれる重力によるものになります。
作中の失敗ルートではひとつだけ不自然な点がありますよね。それはなぜ妙子が今まさに殺されそうな瞬間に、遠藤は戸をガチャガチャ動かしていたのかということです。緊急性を考えれば今すぐにでも扉を壊して部屋に入るべきでしょう。しかし、あくまで自分の考察の範囲に過ぎませんが、作中では扉を壊しにかかっても遠藤は部屋に入ることは出来なかったのではないかと解釈しています。アグニの神が降臨してしまった時点で、神の力のみで婆さんを殺害するという事象、運命は遠藤という一人の人間では変えることのできないものとなってしまったと考えられます。
対してアグニの神が降臨しなかった場合の妙子を救う力は、神の力による運命の拘束=扉が開かない運命から物語の展開は開放され、遠藤が部屋の中に入るという運命に分岐して、その遠藤の行動の結果によって婆さんは死ぬか、そして死なずとも妙子が逃亡できたかのどちらかを実現することでしょう。しかしその結果を見て二人は、感動や神秘的とはかけ離れ、なんとか上手くいったという印象に止まるのではないでしょうか。


ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風 「眠れる奴隷」

危機を超えるような超常的な力、神の力を私たちは本当の「運命」と感じる

なのでもしかするとこのお話は、いずれにせよ妙子の生存救出の運命は変わらないとしても、それを「運命の不思議な力だ」と人間が考えるためには、計画が失敗したという1つの危機がなければいけないということを指しているのかもしれません。横文字で言えばドラマチックな過程であること。
モーセが海を割る話、有名ですよね。ユダヤ教「旧約聖書」出エジプト編では、神より啓示を受けたモーセがエジプトから逃げるユダヤ人を先導する時、追っ手が近づく中で崖っぷちに立たされ、目の前は海というところまで来てしまいます。「もう終わりだ…」という場面でモーセが杖を振り上げると、ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…と海が割れ、ユダヤ人は脱出に成功した。
この話はまさに、あと一歩で自分たちの人生が終わってしまうかもしれないという危機を、人智を超越した力によって克服するというもので、「運命の不思議な力」に高揚するような出来事です。
まあ、実際に海が割れるなんて起きるはずもないのですが、それが起きてしまうほどに「運命の力」は強力なのでしょう。


現実的な話題に落とし込むと、先日行われたパリ五輪の男子バスケのフランス戦を覚えていますでしょうか。日本は、開催国かつ強豪国のフランスに4点差と惜敗しました。この結果の過程に、日本のエース八村塁選手が退場するという悲劇がありましたよね。八村選手は、その時点まで24得点を取るなど大車輪の活躍を見せていました。しかしその得点源が第3ピリオドで失われてしまったのです。しかし日本はそこから河村選手が覚醒。逆転し、なんと最後の残り16秒というところまでリードするという展開に持ち込んだのです。リアルタイムで観ていた僕はドキドキしていました。もしかしたら勝つんじゃないかと。しかし、残酷にも日本は追いつかれ、そして負けてしまった。これも運命によって決められていたのかもしれませんが、もし日本が勝ったとしたら、あの河村選手の覚醒を「神がかり」という、ある種の超常現象的に捉えていたでしょう。あのモーセやアグニの神が起こしたような現象のように、あれだけの危機を乗り越えてしまうほどの「運命の不思議な力」を厳かに感じていたかもしれません。

終わりに

なんかつらつらと書きなぐりましたが、アグニの神を読んで、これはnoteに投稿しなければと使命感を無意識に持ってしまうほどに、何か惹かれるものがありました。感覚の話であり、主観が強い投稿でしたが、ここまでご覧いただいてありがとうございました!
いつかジョジョ作品から見える運命論と「アグニの神」やその他の作品から見える運命論の比較とそこから見える「運命」を捉えなおすという投稿をしようと考えています。長くなるような気がしますが全力で調べ挙げたいと思います。



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