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夢のQ作にツイテ

久々に棚の中のものを整理していると、
私の3年前のプロフィール写真のデータが入ったCD-Rとともに、
夢野久作の小説が出てきた。

そういえば、最近小説自体読んでないわん、
首が痛くなるけれども、
読んでみようかしら、とページをめくってみた。

懐かしい。
大学院の頃は盛んに読んでいたっけ。
この文体とストーリーのキリキリすること。
グロテスクな事象とパズルのような展開。
本当に飽きない小説である。

夢野久作といえば「ドグラ・マグラ」だけれども、
他にも素晴らしい作品がたくさん存在する。
私は特に短編集なんかが好きで、
「瓶詰(の)地獄」「死後の恋」「人の顔」
あたりはもう傑作で、
「死後の恋」なんかは特に強烈で、
オエオエしながらも読み進めてしまったのを記憶している。

彼の小説は、
全てではないけれども、
「起承転結」を「転起承転(結)」といった構成にしているものが多い。
つまりは、結末の一歩手前から物語が始まって、
いつの間にか始まりが始まる展開になっているのである。

ここでミソなのが、
結末からは始めないこと(もしくは結末を書かない笑)かしらん、
読み終わった後、
また始めから読み直したくなるような構成なのだ。
終わりがまた始まりにつながる、といった構成もある。
ウロボロスの概念のような、
ともすればまさしく「ドグラ・マグラ」でみる(勝手な解釈ですが笑)、
なんとも頭が痛くなるような展開である。

ウロボロスといえば、
最近N◯Kの「575のカ◯ク」という番組を見たわけだけれども、
視聴者の皆さんが、その回のテーマの「反物質」について、
俳句をよんだという。
これまた頭の痛くなりそうな話題だな〜なんて感じていると、
ウロボロスの話が出てきた。

学者先生が、反物質は最小の世界で巻き起こる事象だけれども、
それが最大の世界である宇宙の始まりと
密接に関わっているというところが、
まさしく自分の尻尾をくわえている蛇、
すなわちウロボロスであるといえますね〜なんて解説していた。

反物質とは、物質の双子の片割れだそうで、
物質は電子がマイナスの電荷を持っていて、反物質はプラス。
それが物質より何ちゃらピコ動きが遅く、
宇宙の始まりの際に消えてしまったものだそう。
物質を存在させる代わりに、
反物質は消えて無くなったんではないか、なんて。
ロマンチックな話。
それに、反物質はソーダ水の中の気泡だとも言っていたのは、
何だか可愛らしい限り。(表面にあがってきている気泡が物質だそう)
素粒子の話は奥深いですね〜。難しい。。

ただ、夢野久作の小説の展開がウロボロスならば、
反物質もウロボロスである。
というのは、
夢野久作の小説は反物質である、ともいえるのかしらん。
超安易な考えでいくとだけれども笑

物質と反物質が出会ってしまったら、
物質は消えてしまうらしい。
我々が反物質的な要素を生み出していったら、
世界に存在する事象はちょとずつ消えていくのかもしれない。
いや、むしろ気づいていないだけで、
もうすでに人知れず消えていってしまった事象なんかがあるのかしらんね。
でもそれだと爆発が起きちゃうから、
気づかないってことはないか笑

人体とは、脳だけではなく細胞も要である、というお話。
細胞が、語り、指示し、記憶する、
という事実を知った後に、
「ドグラ・マグラ」にて「細胞が記憶する」ということを
小説にしていた彼の思考に驚きと喜びを感じた時のような。
もちろん、これに気づいたのは私だけではないと思うけれども。
彼の素晴らしさをちょっと噛み締めた瞬間であった。

彼の小説の中には、
細胞にしろ、反物質にしろ、
小宇宙が広がっているんだな〜なんて。
いろんなヒントが隠されているのかしらね〜、
と思いながら、
「人間腸詰」を読み返してオエオエっとなる、
秋雨の小説日和でした。





夢野久作(ゆめのきゅうさく)
1889年(明治22年)1月4日 - 1936年(昭和11年)3月11日
日本の小説家。
《代表作》
『ドグラ・マグラ』(1935年)
『瓶詰(の)地獄』(1928年)
『少女地獄』(1936年)
『死後の恋』(1928年)
『支那米の袋』(1929年)
『人間腸詰』(1936年)など