グランドツアーの批評の批評 #3 テレグラフ編
テレグラフは約170年の歴史を誇る保守系高級紙です。紙媒体はデイリーテレグラフ (The Daily Telegraph) 、Web媒体はザ・テレグラフ (The Telegraph) と名称が分かれます。かつてジェームズ・メイが連載コラムを持っていたことからもわかるように、グランドツアーやトップギアに比較的同調的です。
評者はベンジ・ウィルソン (Benji Wilson) 氏。最終回のレーティングは☆4/5です。
テレグラフの記事の要点は以下になります。
テレグラフの番組評は最終回の配信開始日の前日にフライング気味に掲載したもののため、ネタバレを避けるためかあまり突っ込んだ内容ではありません。トレーラーを見てもわかる程度の内容をさらっと書いている印象がありますが、③は独自の視点が入っているため、これを中心に見ていくことにします。
当該箇所を引用します。Google翻訳の訳文を付けます。
同じ段に2つの要素が混ぜ込ぜになっているので、内容を整理します。
車は以前ほど興味深いものではなく、電気自動車は白物家電に過ぎない。
逆張りは彼らの得意分野だったが、いまやそれはネット戦士やインフルエンサーのものである。テレビの時代は終わった。
クラークソンの見解=番組の見解?
電気自動車が白物家電に過ぎないというのはジェレミー・クラークソンの意見です。彼個人の見解であり、番組の見解でもなければジェームズ・メイとリチャード・ハモンドを含んだ3人の間でコンセンサスの取れている見解でもありません。
にも関わらず、多くの人はクラークソンの見解=番組の見解と思い込んでしまいます。
他の2人の意見はどうでもいいのでしょうか?
番組をよく知らない人には、面白いのはクラークソンだけであとの2人はオマケでどうでもいい存在だと見えているらしいです。彼らのグランドツアーの終了が決定して以来、そういうイギリスメディアのトンデモ批評を何度か見ました。番組のファンにしてみればトンデモない意見なわけですが、番組のファンにしてもじゃあ残り2人の魅力は何だ?と問われたら、クラークソンとの相性がいいから、みたいなことになってしまいがちです。ファンも結局クラークソン=番組と考えているのです。
彼らをよく知るはずのテレグラフにしたところでそうです。
じゃあ残り2人はクラークソンと相性さえ良けれ替えが効くのかと言えばそんなことはないわけで、今回はそのうちの1人であるメイの魅力について考えてみようと思います。丁度良いことにテレグラフの元コラムニストでもあるわけです。
サイバートラックは現代のカウンタック?
メイは頭の回転の速い人物でユーモアとウィットに富み、好奇心が豊富です。歴史好きでありテクノロジー好きです。頑固で退かぬ媚びぬ省みぬの人でもありますが、この側面について語るのは別の機会にします。
好奇心が豊富なテクノロジー好きなので、当然のように電気自動車も好きです。テスラモデル3とトヨタMIRAIのオーナーです。彼は電気自動車草創期には水素燃料電池を推していました。二次電池車に押されていた燃料電池車ですが、ここへ来て見直されてきています。
先般はテスラのサイバートラック (Cybertruck) を試乗していました。
サイバートラックはピックアップトラックです。不必要なまでに直線的なデザインは、対人事故時にダメージを大きくしてしまうのでは、という批判もあります。
しかしその直線的な外観に、メイは興味津々です。これは現代のランボルギーニカウンタックか?とそのデザインを語ります。カウンタックは1960年代生まれの人が小学生だったころのスーパーヒーローです。言われてみれば直線的なデザインがカウンタックを思い起こさせないでもありません。
定規をわざわざ持ち出して一部に湾曲した部分を見つけ、意図的なデザインだろうと喜んでいます。
直線的なデザイン?の方向性は違うものの、2009年のトップギアS14エピソード2で、彼ら3人はずいぶん直線的な外観の電気自動車を自作していました。トップギアも別に電気自動車アレルギーの番組ではなかったのです。
メイがバッテリーを担当し、蓄電池を2個だけ載せました。幼稚園児が描く自動車の絵のような酷い外観とプラスチック椅子を並べた内装を担当したのはクラークソンです。
エンスー vs ギークの仁義なき戦い?
そもそもクラークソンの電気自動車嫌いはいつからなのでしょうか?
2008年のトップギアS12エピソード7でクラークソンはテスラロードスターを試乗しましたが、このときは再三のバッテリーのトラブルで試乗は途中で中止になってしまいました。クラークソンはバッテリーが急速に消耗するとして低い評価としましたが、これにテスラが異議を唱えて論争となりました。このときからでしょうか。
ハイブリッドカーは最初から嫌いで、トヨタプリウスについてはずっと低評価です。製造や廃棄にコストのかかるハイブリッドカーは却って環境負荷が高く欺瞞だ!というのがクラークソンの主張です。
クラークソンが乗りたいと主張した車は大抵クラークソンが試乗しますが、そうでない車は他の2人が試乗します。ですからハイブリッドカーのフェラーリ・ラ フェラーリはメイが試乗しました。
クラークソンは結局のところ、古典的なエンスージアストなのだろうと思います。車は内燃機関で動くもので、エキゾーストノートを轟かせるものなのです。静謐な車は薄気味悪くて嫌なのです。
メイは車ギークです。ギークですから車が未来に向かって進化していくことを喜びます。世代的にも日本で言うところのオタク第一世代で、酷い例えになりますが宮崎勤や宅八郎あたりが同世代です。
エンスー vs ギークですから意見が合うわけもありません。自動運転車は既にレベル4(高度自動運転)に到達し、おそらく近い将来レベル5(完全自動運転)が実現するでしょうが、レベル5を見て車は終わった!と嘆くのがエンスーで、車は素晴らしく進化した!と喜ぶのがギークです。
そして、意見が合わないからこそ楽しいのです。意見が合ったら、うんうんそだねー、と言い合って話はそこで終わりです。クラークソンもメイも議論好きな人ですから、意見が合わないことが楽しくて楽しくて仕方ないはずです。この2人はガソリン車の趣味は比較的似ていますから、意見が合ったときも楽しそうですが。
終わったものは何か?そして終わらなかったものは?
さて、テレビの時代は終わった、と新聞が書いています。そうなのでしょうか?
比較的古いものから最近のものまで英国メディアのメイのインタビュー記事にいくつか目を通していて、一番疑問に思ったのは、高級紙ほど彼の本業を貶すのは何故なのか?そしてそれを失礼とも思っていない様子なのは何故なのか?ということでした(なお、テレグラフは含まれていません)。
メイに批判的なスタンスでインタビューしているのならまだわかります。ところがそうではない。あなたは知的で素晴らしい人なのだからあのような馬鹿2人とは縁を切り、馬鹿な番組は止めてもっと相応しい場所にいるべきだ。こんな調子です。知的階級の女性の多くはクラークソンのような男性(有害な男らしさの象徴のように見做されています)を嫌いますが、男性インタビュアーでも似たようなものです。
メイの本業はモータージャーナリストであり、自動車番組のプレゼンターです。あなたは素晴らしい人だがあなたの仕事は糞で同僚も糞だ。こんなことを言われて喜ぶ人がいるのでしょうか?
モータージャーナリズムを下に見る高級紙の体質的なものがあるのだと推察しますが、ネットの普及で知的階級が崩壊しガシャポン状態になっているわけで(このへんの詳細はいずれ改めて書きます)このことに新聞側が気づいていないのなら、終わっているのはテレビというより新聞です。
そもそも彼らの現在の足場はサブスクリプションですからテレビというのはちょっと違うわけだし、メイとハモンドはYouTubeにも積極的に進出しています。
結局、何が終わったのかよくわかりません。彼らのグランドツアーは終わりましたが新プレゼンターで番組自体は継続させるようですから、グランドツアーの番組が終わったわけですらありません。
エンスージアストの時代はたぶん終わりました。だからクラークソンはもう車の仕事はしたくないと言っているのです。しかし車ギークにとっては薔薇色の未来が広がっているわけなので、車の時代も終わってはいないのです。
というわけであまりテレグラフの批評の話になっていませんが、ガーディアンみたいに致命的な破綻があったわけではないのでこんな感じです。
テレグラフの番組評評価: ★★★☆☆
(この項つづく)
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