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トラウマと生き方・自律的自由

トラウマ

過去の物凄い悪い思い出を突如何の前触れもなく思い出してしまって、何の前触れもなくすごい嫌な気持ちになることってあるよな。
…私だけだろうか。

東大時代にとある先輩に死ぬほど迷惑を掛け倒した事を思い出した。

爆発的なセンスの持ち主で論理的思考力にも優れた人で、私に対して東大生たるものがどういう存在なのか真っ向から教えてくれた人だった。
右も左もわからなかった私を非常に手厚くケアしてくれた人物だったが、私は自分の実力不足から彼について行く事ができなかったかばかりか、最終的には彼の足を引っ張ることしかできなかった。

弱さに対する理解

私には明白な弱点が存在する。精神力が弱すぎるのだ。成果を出す事はできるけれど、その異常な精神力の弱さが災いして持続しない。

だから私は常に短期間で他の人を超える成果を出して、後は適度にサボりつつその速度を慣性でゆるゆると低下させてゆくしかない。
それしかできなかったし、それしかできない。できていない。持続的にアクセルをリズムよく踏むという事ができない。

それが分かっていれば、もう少し私のやれる事は変わったはずだった。学生時代の私は全くそんな事一ミリも分かっておらず、ただひたすら頑張れば何とかなると無邪気にも思っていた。

自分の弱点を注視して、それを分析する事ができていなかったのである。

生き方の理解と問題

アクセルをガーっと踏み込んで、それからしばらくサボり、またアクセルをガーっと踏み込む。そういう生き方しかできないなら、そういう生き方を極めればよかったのだ。

ここでアクセルを踏み込もう、ここでサボり倒そうというタイミングをそれぞれ決めて、それぞれのタイミングで踏ん張ったりサボったりすればよいのだ。それを繰り返していれば普通に他人を超える成果は出せるんだから、誰が何と言おうとそれでいいのである。

多くの場合人は、決めない。生き方を殆ど決定しないまま生きていく。それはそれで自由で良いのかもしれないが、大半の場合でそういう人は才能も能力も発揮しない。

これは何故かと言うと、「事前に決めておくこと」が少ないと、殆どその場その場での判断や決断作業に大半の力を浪費してしまって自分が真に伸ばしたい事や取り組みたい事に取り組むだけの思考リソースが残らないからだ。

生き方という「器」

生き方とは言ってみれば、人の「器」である。

生き方という器が存在しているからこそ、初めてその中に自由を満たす事ができるし、その他多くのものを満たしてゆく事ができる。
これを定めないまま自由だけを手にしようとすれば、器の無い所に水をただぶちまけているだけの状態になる。自由は一瞬その人の喉を潤すかもしれないが、すぐに消える。

一見すると矛盾しているような話だが、「人は器の中でしか自由になれない」
これはよく考えると何を見ていても明瞭に分かる事で、例えば人は国家という器の中で社会という器の中に存在して、学校や企業といった組織という器の中でしか自分自身の存在を維持できないし、学校にも企業にも行ってないニートだとしてもネットという器の中に存在しようとする。

つまり「何かしらの器」がなければ人は自分自身の存在を保つことが殆どできないのだ。

公器と自由領土

国家・社会・学校・企業…最近はネットですらも「公器」である。公の器であり、その中には自分以外の人間を含めて沢山の人間が存在している。

それで一応の自由らしい自由を手に取る事ができる。だから誰も彼も、自分の生き方など決定しなくてもいいような気がしてしまうのだけど、決してそんなことは無い。

細胞の構造見てるみたいだろ。
自由とは入れ子の構造を持っていて、細胞の内部構造のように分画されているんだ。

真に優秀な人々は概して、生き方を自分なりに決定する事で自分なりの「自由な心の領土」を持っている。
その領土の使い方は人によって様々で、ガチガチに能力主義で固める人もいるかと思えば、感性や表現を磨いて芸術的センスを高めてゆく人も存在する。

忘れないでほしいのは、この領土では完全に何をしようと自由なのである。大企業の社長が実は家に帰ると趣味で血みどろのグロテスクホラー漫画を描いてるかもしれないし、工場の高卒労働者が不確定性原理の数学的論証を学んでいるかもしれない。会社では厳格な40代後半の事業部長が家に帰ったら女装趣味を楽しんでいるかもしれない。

自分の内的自由の領土にはルールは不要、何をしていたっていいのである。

生き方を決めて、それを拡張するのだ。私の場合には「アクセルをガーっと踏み込み、その後はサボり倒しながら慣性で徐々に減速してゆく」。

傍から見ると不真面目な生き方に見えるだろうが、これで成果が出ている以上は基礎的なスタート地点としてはこのままでいい。
ここから領土を拡張してゆくためにはどうすればいいのかを考える、これが恐らく人がその能力や才能を十全に生かすためのまず第一の出発点となる難問なんだ。

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