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金色夜叉(後編)|尾崎 紅葉|※ネタバレ注意※

「金色夜叉」は、明治時代の小説家・尾崎紅葉によって1897年から1902年にかけて執筆された恋愛小説です。この作品は、当時の日本社会で大きな反響を呼び、近代日本文学の代表作の一つとして知られています。物語は、主人公の間貫一と、彼の婚約者である鴫沢宮との悲恋を中心に展開します。貧しい学生だった貫一は、宮との結婚を約束しますが、突然の遺産相続で裕福になった宮は、富豪の富山唯継と結婚してしまいます。このことで深く傷ついた貫一は、復讐心に駆られて「金色夜叉」と呼ばれる高利貸しとなり、冷酷な人物へと変貌していきます。作品は、愛と金銭、そして復讐という普遍的なテーマを扱いながら、明治時代の社会変化や価値観の揺らぎを鮮やかに描き出しています。


```mermaid
graph TD
    A[間貫一] -->|恋人だった| B[鴫沢宮]
    B -->|裏切って結婚| C[富山唯継]
    D[鴫沢隆三] -->|父| B
    E[お峯] -->|妻| F[鰐淵直行]
    F -->|雇用主| A
    A -->|恨み| B
    G[赤樫満枝] -->|好意を寄せる| A
    H[飽浦雅之] -->|被害者| F
    
    style A fill:#ff9999
    style B fill:#99ccff
    style C fill:#99ff99
    style D fill:#ffcc99
    style E fill:#ffccff
    style F fill:#ccccff
    style G fill:#ffff99
    style H fill:#ccffcc
```

第一章:貫一の負傷と直道の諫言

一の一:貫一の負傷と鰐淵家の反応

坂町で高利貸の貫一が襲撃され負傷した。新聞は誤って鰐淵直行が負傷したと報じたが、実際は貫一だった。直行夫妻は貫一の無事を願い、最善の治療を施すことを決意した。貫一は左肩の骨が少し砕け、手が緩縦になり、体中に紫色の痣や蚯蚓腫ができ、打ち切れたり擦り毀いたりの負傷を負った。頭部も強く殴られ、脳病の心配もあったが、今のところその兆候はなかった。

直行は貫一を我が子のように思い、その遭難を自身の身に受けたかのように無念に感じた。彼は貫一の入院中、厚く面倒を見て、再び手出しできないよう卑怯者の息の根を止めようと決意した。直行は、敵手は貸金の遺恨から無法な真似をしたのだろうと考え、大いに腹を立てていた。

お峯は夫の身にも同様の災難が降りかかるのではないかと不安を感じた。彼女は奉公のために怨みを買い、不運に見舞われた貫一を気の毒に思った。同時に、自身の立場に対する後ろめたさや恐れ、痛みを感じ、それらが湧き上がり、自分を責める苦痛に耐えられなくなった。

一の二:直道の帰宅と父への諫言

直行の息子である直道が、新聞で父の負傷を知り帰宅した。直道は父に金貸しの商売を辞めるよう諫言した。彼は高利貸しの商売が不道徳であり、社会から蔑まれていると主張した。直道は、この家業のために親子関係が悪化していることを嘆き、清く暮らしたいと訴えた。彼は非道な方法で得た金銭は長続きしないと説き、因果応報の恐ろしさを指摘した。

直道は、親を過ごすほどの芸もなく生意気なことばかり言って面目がないと認めつつも、不自由を辛抱してくれれば、両親くらいに乾い思いは必ずできると主張した。彼は破屋でもいいから親子三人一緒に暮らし、人に後ろ指を差されず、罪も作らず、怨みも受けずに清く暮らしたいと訴えた。

直行は息子の意見を聞いたが、自分の商売に対する正当性を主張した。彼は世間というものは直道の考えているようなものではないと述べ、財を造る者は必ず世間から攻撃を受けると説明した。直行は金儲けの面白さを語り、高利貸しは社会の必要性から生まれた商売だと主張した。

直行は、学者の目からは金儲けする者は皆不正なことをしているように見えるが、それは違うと主張した。彼は、無抵当で貸すから利子が高いのであり、それを承知で皆借りるのだと説明した。また、高利貸しを不正というなら、その高利貸しを作った社会が不正なのだと主張した。

一の三:親子の対立と直行の態度

直道は貫一の襲撃事件を例に挙げ、父の商売が人々から恨まれていることを指摘した。彼は家業を不正ではないと言う父に対し、世間が地獄の獄卒のように憎み賤んでいると反論した。直道は、世間から疎まれているのは自業自得であり、不名誉の極みだと主張した。

直道は、父の営業の主意が貫一を襲撃した者たちの行為と少しも違わないと指摘した。彼は、父から金を借りて苦しめられる者も、同じように父を恨んでいるはずだと主張した。

しかし直行は息子の意見を理解しつつも、自身の信念を曲げることはなかった。彼は直道の心情を察しながらも、自らの信じるところがあると述べ、忠告に従うわけにはいかないと言った。直行は、直道の意見をよく理解したが、自分は自分で信ずるところがあってやっているのだから、折角の忠告だからといって従うわけにはいかないと述べた。

議論が平行線をたどる中、直行は外出し、お峯は直道を慰めようとした。直道は父の態度に失望し、深い悲しみに沈んだ。お峯は直道の苦悩を理解しながらも、夫と息子の間で板挟みとなり、どうすることもできずにいた。彼女は直道に、父の気性を考えて少し目をつぶってほしいと頼んだが、直道はそれができないと答えた。

第二章:宮の結婚と苦悩

二の一:宮の結婚と後悔

宮は貫一と別れた後、3月3日に富山唯継と結婚する。しかし、貫一への思いは消えず、結婚後も彼を慕い続ける。宮は富山家に嫁いだものの、心は常に貫一にあり、夫への愛情を持てずにいた。夫は宮を深く愛し、大切にするが、宮はそれに応えることができない。

結婚から2ヶ月後、宮は妊娠し、翌年の春に男児を出産する。しかし、産後の宮は3ヶ月ほど体調を崩し、その間に生まれたばかりの子供は肺炎で亡くなってしまう。子供の死後、宮は二度と子供を産まないと心に誓う。

宮は結婚生活の中で、裕福な暮らしを送りながらも心の満足を得られない。夫は宮の美しさを愛でるばかりで、彼女の心の内を理解しようとしない。宮は自分がこの家に嫁いだ理由さえ分からなくなり、ただ機械のように夫に仕え、置物のように家の中に据え置かれている感覚を抱く。

二の二:宮の苦悩と貫一への思い

結婚から4年が経過し、宮は自分の境遇に疑問を感じ始める。彼女は貫一の姿を偶然見かけたことをきっかけに、さらに彼への思いを募らせる。しかし、直接連絡を取ることもできず、ただ心の中で彼を思い続ける。

1月17日、貫一との別れの日が近づくにつれ、宮の心は乱れる。彼女は貫一への思いを手紙に書こうとするが、うまく言葉にできない。煖炉のある西洋間で物思いに耽る宮のもとに、夫が帰宅する。

夫は宮の様子を心配し、外出を勧める。福積の当選祝いの会への参加や、写真撮影の予定を話すが、宮の心は依然として貫一に向いている。雪の降る窓の外を見つめる宮は、過去の別れを思い出し、現在の状況に苦悩する。

夫は宮の態度を冷淡だと感じ、もっと活発に外出するよう促す。しかし、宮は心ここにあらずの様子で応対し、ただ窓の外の雪を見つめ続ける。宮の心は、豊かな生活と引き換えに失った真の愛に向かって揺れ動いている。

第三章:宮の葛藤と貫一への想い

三の一:宮の富裕な生活と内なる空虚

宮は富山唯継との結婚により、かねてから望んでいた裕福な生活を手に入れた。当初から夫の愛情よりも栄華を求めていた宮だったが、その願いが叶った今、かえって満たされない思いに駆られていた。夫の愛情を煩わしく感じ、過去の恋を懐かしむようになる。

ある日、宮は田鶴見邸で偶然貫一を見かける。昔と変わらぬ姿の貫一を目にし、宮の心は再び揺れ動く。貫一が独身を貫いていることに、将来への望みを見出す。その一方で、夫への嫌悪感を強めていった。富裕な生活を捨てることさえ考えるが、貫一の気持ちが分からず踏み切れずにいた。

宮は自分の心の奥底を探り、答えを得ようとするが、確信が持てずにいた。夫の愛情を受けることを苦痛に感じ、かつての恋人である貫一のことを思い出しては悶々としていた。一月十七日の雪の夜、宮は特に強く貫一のことを思い出し、夫の愛情表現をさらに煩わしく感じた。

三の二:母の訪問と宮の告白

ある日、宮の母が訪れる。母は宮の顔色の悪さを心配し、その理由を尋ねる。宮は最初、体調不良を気のせいだと言い逃れようとするが、やがて貫一との再会について打ち明ける。

母は驚きつつも、宮の様子を気遣う。宮は貫一の現状を憂い、彼を助けたいと相談する。貫一が以前と変わらぬ書生風の姿で、苦しい生活を送っているように見えたことを告げる。宮は貫一を鴫沢家の養子として迎え入れ、元通りの関係に戻したいと願っていた。

宮は母に、貫一のことが頭から離れず、毎日のように気にかかっていると打ち明ける。悪夢を見ることも多くなり、それが体調不良の原因だと考えていた。父親にも相談して、何とか話をつけてほしいと懇願する。宮は、そうすることで自分の気持ちも晴れ、体調も良くなるだろうと主張した。

三の三:母の反対と宮の決意

母は宮の提案に難色を示す。貫一の過去の行動を批判し、今更彼を探し出す必要はないと主張する。母は貫一が恩知らずで、身の程知らずだと非難し、もはや彼のことを気にかける必要はないと宮を諭そうとする。

しかし宮は自分の過ちを認め、貫一と両親の関係を修復したいと強く願う。自分こそが悪かったのだと主張し、貫一を恨ませ、両親に貫一を悪く思わせてしまったのは自分の責任だと語る。

宮は貫一を養子にすることで自身の苦悩も解消されると信じ、母に父への取り次ぎを懇願する。そうしなければ自分の体調がますます悪化すると訴える。宮は、貫一を元の関係に戻すことが自分の唯一の望みだと熱心に語った。

三の四:母娘の対立

母の消極的な態度に宮は失望し、涙を流して訴える。母は宮の気持ちを理解しようとするが、なおも難色を示す。宮は母の本心を疑い、自分で行動すると宣言する。

母は宮の独断を制止しようとするが、宮の決意は固い。宮は母が自分の心を理解していないと感じ、もはや頼む効果がないと言い切る。二人の対話は平行線をたどる。

宮は泣きながら自分の気持ちを訴え続けるが、母はなおも慎重な態度を崩さない。最後には、宮が「私にも了簡があるから、どうとも私は自分で為るわ」と宣言する。母は「そんな事を為るなんて、それは可くないよ」と制止するが、宮の決意は揺るがない。母が「帰つたら阿父さんに善く話を為やうから」と譲歩の姿勢を見せるも、宮は「阿母さんは私の心を知らないのだから、頼効が無い」と突き放す。二人の会話は平行線のまま終わりを迎える。

第四章:貫一の苦悩と満枝の執着

四の一:貫一の回復と満枝の頻繁な見舞い

貫一は頭部の挫傷から危うく脳膜炎を発症しかけたが、幸いにもそれを免れた。数カ所の傷とともに避けられない若干の疾患を得たものの、日に日に回復に向かっていた。自力で起居できるようになったが、まだ病院での静養を強いられていた。ベッドの上で一日中何もすることがなく、生きながら葬られたかのような無聊を感じていた。

そんな中、満枝が頻繁に見舞いに訪れるようになった。三か月にわたる長期間、その美しい姿が絶えず出入りするため、噂は自然と院内に広まった。医師の中にも好奇心から覗きに来る者がいるほどだった。当初は誰の美人か分からなかったが、やがて「クリイム」という名で知られるようになり、人々の耳目を驚かせ喜ばせる種となった。これに伴い、貫一の浮名も立つようになった。

貫一は満枝の頻繁な訪問を心苦しく思い、一度ならず満枝に向かってそのことを言ったことがあった。しかし、見舞いという名目で訪れる以上、その好意を拒絶するわけにもいかず、かといって主のある身の者が誤って仇名を立てることを心配し、貫一は苦悩していた。

四の二:貫一の内なる葛藤

貫一は満析の訪問を避けようと努めてきたが、今や第二医院の一室に閉じ込められ、隠れる場所もないベッドの上に横たわっていた。まるで俎板の上の魚のように、ただ他人のなすがままに任せるしかない状況に悶々としていた。

このような苦しい状況の中で、貫一は驚くべき事実を見出していた。鰐淵が彼と満枝との間を疑い始めていることを察知したのだ。同時に、貫一は鰐淵の疑いによって、鰐淵と満枝との関係も推測できるようになっていた。

貫一の悩みは、外的な傷よりもむしろ内面にあった。外に三分の苦痛があるとすれば、内には七分の憂いがあるといっても過言ではなかった。彼の病床は、まるで藁蒲団の中に針が包まれているかのような心地がして、心の安まる暇がなかった。

四の三:満枝の告白と貫一の拒絶

ある日、満枝は貫一に重要な話があると切り出した。鰐淵が二人の関係を疑っていること、そして満枝が貫一との約束を口実に鰐淵をごまかしていることを明かした。鰐淵に「訳が有るなら有るで、隠さずに話をしろ」と言われ、やむを得ず約束があると嘘をついたのだと説明した。

貫一はこの告白に激怒し、「実に怪しからん!」と叫び、満枝に帰るよう強く促した。しかし、満枝は貫一の冷たい態度にも関わらず、去ろうとしなかった。「私還りません!貴方がさう酷く有仰れば、以上還りません。」と宣言し、順当に帰れるようにしてほしいと要求した。

四の四:直行の登場と三つ巴の対立

そこへ突如、直行が現れた。胡麻塩羅紗の地厚な二重外套を纏った魁偉な老紳士だった。直行は満枝の頻繁な見舞いを不審に思い、貫一と満枝の関係を探ろうとした。彼は巧みに、満枝の訪問が貫一や彼女自身の評判を損なう可能性があることを示唆した。

満枝は巧みに言い逃れを試み、自分の見舞いの理由を説明した。貫一が彼女の家を訪れた帰り道で怪我をしたこと、そして彼女が勧めた道で事故に遭ったことへの責任を感じていると述べた。また、家族も彼女に見舞いに行くよう勧めていると付け加えた。

直行は表面上は忠告を装いながら、満枝の魅力に惹かれている様子を見せた。彼は満枝の若さや美しさを称え、自分のような老人との対比を強調した。この場面で、貫一、満枝、直行の三者の複雑な関係性と思惑が浮き彫りになった。

四の五:直行の策略と満枝の対応

直行は満枝を連れ出そうと画策し、旭座の株式一件についての商談を口実に彼女を誘った。満枝は断ろうとしたが、直行は「商売上には年寄も若い者も無い」と言い、執拗に誘い続けた。

満枝は最初、西黒門町に用事があると言って断ろうとしたが、直行の粘り強い誘いに最終的には応じざるを得なくなった。二人が去った後、貫一は深い溜息をつき、悪夢から覚めたかのような心境で一人取り残された。彼は為すすべもなく枕に就き、虚空を見つめながら果てしない思いに沈んでいった。

第五章:鴫沢の訪問と満枝の機転

五の一:病院での静寂と満枝の来訪

午後2時を過ぎた病院内は静寂に包まれていた。庭には梅が点々と咲き始め、鵯の鳴き声が時折響いていた。貫一は枕の上で夢を見ていたが、突然人の呼ぶ声に驚いて目を覚ました。目を凝らすと、そこにはその夢に現れていた満枝本人が立っていた。

満枝は黒縮緬の羽織に夢想裏の春の野を染めた御召を身につけ、化粧も濃く、腕環を光らせていた。彼女は貫一の許可を得るまで席に着くのを躊躇い、鰐淵との出来事を説明し始めた。湯島の天神の茶屋で鰐淵が不適切な言動をしたこと、それに対して自分が困惑したことを語った。

貫一は聞く気がないようで、腰の傷が痛むと言って掻巻を被った。満枝は諦めの言葉を口にしながらも、貫一の気持ちを確認しようとした。「貴方もお諦め下さいまし、全く因果なのでございますから」と言いながら、貫一に過去の約束を思い出させようとした。

五の二:鴫沢の来訪と貫一の拒絶

そこへ新たな来訪者が現れた。白髪交じりの髭を長く垂らし、篤実な面貌の痩せた男性だった。名刺には鴫沢隆三と書かれていた。貫一はその名前を見て驚愕し、「知らん!」と叫んで鴫沢との面会を拒否した。

鴫沢は粘り強く貫一に語りかけた。五年ぶりの再会であること、貫一の居所を探していたこと、誤解を解きたいという思いを熱心に語った。貫一を棄てた覚えはないこと、今も昔も変わらぬ思いでいること、そして貫一の親の墓参りをして事情を説明したいという願いを述べた。

しかし、貫一は頑なに応じず、顔を伏せたまま一言も発しなかった。鴫沢は椅子から立ち上がり、貫一の枕元に近づこうとした。

五の三:満枝の機転と鴫沢の去就

貫一が頑なに応対を拒む中、満枝は機転を利かせて状況を取り繕った。貫一が発熱で正常な判断ができず、譫語を言ったり泣いたりしていると偽った。そして、熱が下がり次第改めて連絡すると約束し、鴫沢の再訪を促した。

鴫沢は満枝の説明に納得しつつも、彼女の素性を不審に思った。親戚でもなく、ただの知人の娘でもない様子に疑念を抱いた。貫一が堕落し、身持ちが崩れたのではないかと懸念した。

満枝は鴫沢に自分の名刺を渡した。「赤樫満枝」と書かれた名刺の裏には横文字が印刷されており、鴫沢の疑念を更に深めた。彼は満枝の正体を謎めいたものと感じながら、一旦引き下がることにした。

五の四:貫一の怒りと満枝の困惑

鴫沢が去った後、満枝が病室に戻ると、貫一の様子が一変していた。ベッドの上で居丈高に起き直り、痩せ衰えた拳を握りしめていた。その目は怒りに満ち、前方を睨みつけていた。満枝はこの突然の変化に困惑の表情を浮かべ、貫一の反応に戸惑いを隠せなかった。

第六章:狂乱の老母と債務者の悲劇

六の一:謎の老女の来訪

鰐淵の家に、毎晩のように一人の老女が訪れるようになった。その老女は六十歳を過ぎており、顔に皺はあるものの肌は清く、切り髪の容姿は由緒ありげだった。しかし、その服装は奇妙で、茶微塵の御召縮緬の被布を着ながら、更紗の小風呂敷包みに油紙の上掛けをした荷物を背負い、薄汚れたゴム底の運動靴を履いていた。

彼女は主人に会いたいと言い、不在の際も粘り強く通い続けた。その様子は常ならず、特に眼色が凄く、時ならぬ時に独り笑いをするなど、不気味な印象を与えた。お峯は次第に不安を覚え、狂人ではないかと疑い始めた。彼女は夫の直行に対応を頼み、直行は用意して四時頃には帰宅した。

六の二:老女の正体と激昂

直行が戸を開けると、老女は入ってきた。彼女は直行の顔を見るなり、突然激昂し、「この大騙め!」「大悪人!」と罵り始めた。彼女は自分の息子・雅之が無実の罪で懲役に行ったことを訴え、直行を責め立てた。

老女の言動はますます常軌を逸し、「おのれのような奴が懲役に行かずに、内の雅之のような孝行者が...」と叫び、雅之の婚約者である柏井の鈴ちゃんのことや、雅之の将来の計画について語り始めた。そして突然、直行の首を取ると言い出し、風呂敷包みから油紙を取り出して直行の首を包もうとした。

六の三:雅之の罪と直行の策略

直行はようやく老女の正体が、先日詐欺罪で有罪となった飽浦雅之の母親であることを理解した。雅之は私文書偽造罪で罰金十円、重禁錮一箇年の刑を受けていた。しかし、その罪の裏には直行の悪辣な策略があった。

直行らは借金を求める者に対し、連帯保証人の署名を偽造させる手口を使っていた。借り手に対し、証書の体裁を整えるためだけだと偽り、親族や知人の名義を勝手に使わせ、実際には法的効力のある証書を作らせるのだ。借り手も焦眉の急に迫られ、期限内に返済すれば問題ないだろうと姑息な考えでこの術中に陥る。

雅之もこの罠にかかり、学友の父親の名を勝手に使用してしまった。しかし、その学友は海外に遊学中で、父親も雅之を知らなかったため、事態は収拾がつかなくなり、雅之は私文書偽造罪で起訴されてしまったのだった。

六の四:直行の対応と狂女の執念

直行は狂った老女を何とか家から追い出そうとしたが、彼女の執念は強く、格子に縋りついて争った。直行は彼女を外に押し出し、雨戸を閉めようとしたが、老女は再び戻ってきて、戸を叩き続けた。

翌日以降も老女は訪れ続けた。お峯は警察に相談することを提案したが、直行は取り合わなかった。お峯は夫の対応に不満を感じつつ、自らの信仰する天尊教の神に祈りを捧げた。天尊教は新興の神道の一派で、その神体は紫の一大明星であり、大御明尊と呼ばれていた。

しかし、老女の来訪は続き、彼女は鰐淵家の戸口で長時間待ち続けた。ある日、彼女は戸口で独り言を言いながら、息子の無実を訴え続けた。その様子は、息子が直行に欺かれて無実の罪に陥れられたことを、前後不揃いに泣いたり怒ったりしながら訴えるものだった。

第七章:悲劇の夜と直道の帰還

七の一:災厄の夜

狂女が八日間通い続けた後、九日目の夕方、激しい風が吹き荒れる中で火災が発生した。鰐淵家の納屋から火の手が上がり、あっという間に家全体に広がった。内の灯火は主の晩酌の喫台を照らし、火鉢の鍋は沸々と音を立てていたが、突如として災厄が襲いかかった。狂女は火事を見守り、笑い声を上げた。人々が騒ぎ出した頃には、建物の大半が炎に包まれ、土蔵の窓からも炎が噴き出していた。

消防隊が懸命に消火活動を行った結果、火災は午前2時に鎮火したが、30余戸を焼失した。雑踏の中から狂女は早々に拘引された。鰐淵家は塵一筋も持ち出せず、家族の消息は警察の訊問するところとなった。婢は命からがら逃げ出したが、主人夫婦の安否は分からなかった。

七の二:悲惨な結末と貫一の思い

夜明けになっても夫婦の姿が見えないため、警官が捜索に乗り出した。熱灰の下から一体の屍が発見され、主の妻と思われる面影が残っていた。さらに捜索を続けると、倉前から焦げた人骨が掘り出された。主夫婦は酔いつぶれていたか、逃げ遅れたかして、この火災で命を落としたのだった。

貫一は病院から駆けつけ、事後処理に当たった。彼は直道の帰京を待ちながら、懸命に万端を整えた。数日後、貫一は夜の焼け跡を訪れ、亡き夫婦を偲んだ。月明かりの下、焼け跡に佇む貫一の胸には、在りし日の家居の様子が鮮明に浮かび上がった。お峯の赤い顔や、主人の苦い表情が目に浮かぶようだった。

貫一は人生の無常を感じ、自分だけが生き残ったことへの複雑な思いに苛まれた。彼は亡き夫婦の死を嘆き、永遠の別れを悲しんだ。焼け跡に佇み、遺骨が発見された場所を拝し、妻の遺体が横たわっていた場所を拝した。

七の三:直道の帰還と対話

突如、車の音が轟き、直道が現れた。二人は月明かりの下で顔を見合わせ、言葉に詰まった。直道は留守中の出来事に対して申し訳なさを述べ、両親の死を悼んだ。しかし、金庫だけが焼け残ったことを聞くと、直道は口惜しそうな表情を見せた。

直道は父との確執を思い出し、世間の反応を想像して悲しみを深めた。しかし、同時に親子の情愛の深さも感じ、涙を流した。貫一は直道に対して、珍しく親しげに言葉を交わした。

直道は貫一に「真人間」になることを勧めた。貫一は最初、その申し出を断ったが、直道は諦めなかった。直道は父の遺志を継いでほしいと訴え、父への追善として金貸しの商売を辞めてほしいと懇願した。貫一はこの申し出に対して、すぐには答えられず、俯いたまま黙り込んだ。

二人の会話は深夜まで続き、互いの立場や思いを交わし合った。最後に巡査が近づいてきて、二人の涙に濡れた顔を照らし出した。時刻は午前2時半を回っていた。

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