金色夜叉(中編)|尾崎 紅葉|※ネタバレ注意※
「金色夜叉」は、明治時代の小説家・尾崎紅葉によって1897年から1902年にかけて執筆された恋愛小説です。この作品は、当時の日本社会で大きな反響を呼び、近代日本文学の代表作の一つとして知られています。物語は、主人公の間貫一と、彼の婚約者である鴫沢宮との悲恋を中心に展開します。貧しい学生だった貫一は、宮との結婚を約束しますが、突然の遺産相続で裕福になった宮は、富豪の富山唯継と結婚してしまいます。このことで深く傷ついた貫一は、復讐心に駆られて「金色夜叉」と呼ばれる高利貸しとなり、冷酷な人物へと変貌していきます。作品は、愛と金銭、そして復讐という普遍的なテーマを扱いながら、明治時代の社会変化や価値観の揺らぎを鮮やかに描き出しています。
```mermaid
graph TD
A[間貫一] -->|失恋| B[宮]
B -->|結婚| C[富山唯継]
A -->|仇敵| C
A -->|勤務先| D[鰐淵直行]
E[荒尾譲介] -->|親友| A
F[満枝] -->|誘惑| A
G[遊佐良橘] -->|借金| A
H[蒲田鉄弥] -->|旧友| A
I[風早庫之助] -->|旧友| A
J[お峯] -->|妻| D
classDef protagonist fill:#ff9999,stroke:#333,stroke-width:2px;
classDef antagonist fill:#9999ff,stroke:#333,stroke-width:2px;
classDef supporting fill:#99ff99,stroke:#333,stroke-width:2px;
class A protagonist;
class B,C antagonist;
class D,E,F,G,H,I,J supporting;
```
第一章:新橋駅での別れと若き紳士たちの会話
一の一:新橋駅の風景と旅立ち
新橋停車場の大時計は午後4時2分を過ぎた。東海道行の列車は客車の扉を閉め、30両以上を連ねて横たわっている。秋の夕日に輝く車窓の硝子が燃えるように光る。駅員が右往左往に奔走し、「早く早く」と喚く中、様々な乗客が慌ただしく乗り込む。
大股で悠々と歩く老欧米人は、桃色の服を着た少女を連れている。遅れじと駆け込む女性は、風呂敷包みを抱え、幼子を背負っている。青鼻水を垂らした女の子を連れた老夫婦は戸惑いながらも何とか乗車する。まだ都を離れぬうちから、既に旅の哀しみを感じさせる光景が広がっている。
一の二:五人の若き紳士たちの会話
中等室の片隅に円座を作る五人の若き紳士たちが登場する。彼らは横浜までの短い旅程のようで、それぞれ異なる服装をしている。紋付の袷羽織、精縷の背広、袴、大島紬の長羽織、フロックコートと、様々である。
荒尾譲介は四年前に貫一が兄事していた同窓生で、今は法学士として内務省試補から愛知県の参事官に栄転し、赴任の途についている。他の四人、佐分利、甘糟、風早、蒲田は彼を見送る立場にある。
彼らは列車の窓から外を眺めながら、軽口を交えつつ会話を始める。荒尾は仲間たちに自重するよう諭すが、その真面目な態度に他の者たちは白けた様子を見せる。
一の三:高利貸「美人クリイム」の話
佐分利が「美人クリイム」と呼ばれる高利貸の女性について語り始める。彼女は元々貧乏士族の娘だったが、老猾な高利貸の赤樫権三郎に弄ばれ、今では彼の妻となって高利貸の商売を取り仕切っている。
満枝という名のこの女性は、25歳ほどだが実際より若く見える。可愛らしく細い声で物柔らかに話し、口数は少ないが巧みな言葉を操る。上品な様子をしながら、手形や書き替えの交渉では急所を突く手際の良さを見せる。
佐分利は彼女の美しさと商才を称賛しつつ、その危険性を指摘する。他の紳士たちも興味深く聞き入り、時に冗談を交えながら話を進める。彼ら自身も高利貸からの借金に悩まされており、特に佐分利は640円余りの債務を抱えている。
一の四:間貫一の話題
神奈川駅を過ぎた頃、荒尾が突然、かつての親友である間貫一の話を持ち出す。間は優秀な学生だったが、今は高利貸の手代をしているという噂があった。荒尾は間のことを「得難い才子」と評し、今いれば何かが違っただろうと惜しむ。
他の紳士たちも間の思い出を語り合う。外眥の昂った目つき、癖毛の具合、真面目に講義を聴く姿など、間の特徴的な外見や性格が生き生きと描写される。荒尾は間のことを亡くなった弟以上に惜しんでいると告白する。
そして荒尾は、新橋駅で間を見かけたと主張する。待合所の入り口で顔を見たが、すぐに姿を消し、その後も一瞬だけ姿を見せては消えたという。最後に柱の陰から黒い帽子を振っていたのを見たと荒尾は確信している。
一の五:横浜到着
会話が盛り上がる中、列車は横浜駅に到着する。「横浜!横浜!」という叫び声が窓の外を飛び交い、雑然とした響きが起こる。群集が玩具箱をひっくり返したように溢れ出し、場内に鐘の音が響き渡る。若き紳士たちの旅も、ここで一つの区切りを迎える。
第二章:満枝の告白と貫一の拒絶
二の一:駅での再会
新橋駅で、貫一は荒尾の参事官就任を祝うため、群衆に紛れて来ていた。列車が出発した後、中等待合室から満枝に声をかけられる。満枝は貫一を誘い、二人で鶏肉料理店に向かうことになった。満枝は黄金の腕環、帯留め、指輪、時計など、華やかな装飾品を身につけ、艶やかな姿で現れた。紺の絹精縷の被風を脱ぐと、粲然とした紋御召の袷に黒樗文絹の全帯、華麗な友禅の帯揚げという姿であった。
一方、貫一の外見は四年間の苦労で大きく変わっていた。彼は黒紬の紋付の羽織に藍千筋の秩父銘撰の袷を着て、白縮緬の兵児帯も新しくはなかった。彼の面影は少なからず変わり、愛らしかったところは皆失せて、四年に余る悲酸と憂苦とが相結びて常に解けざる色が、自ら暗き陰を成してその面を蔽っていた。貫一は冷たく無愛想な態度を取り、人との親密な関係を避けるようになっていた。
二の二:満枝の思惑
店に着いた二人は、奥まった六畳の隠座敷で食事をしながら会話を始める。満枝は貫一に酒を勧め、彼の独立について尋ねた。貫一が資本さえあれば独立したいと答えると、満枝は貫一の独立を支援したいと申し出る。彼女は「私だって何時までも赤樫に居たいことは無いじゃございませんか」と言い、自分も赤樫との関係を終わらせたい意向を示唆した。
しかし、貫一はその真意を理解できず、戸惑いを見せる。満枝は徐々に本心を明かし、「貴方にお願いがあるのでございます」と、貫一との関係を求めていることを示唆する。彼女は「命懸けで貴方を思う者がございましても?」と、自分の気持ちを婉曲的に伝えようとする。満枝は赤樫との関係を終わらせ、貫一と新たな人生を始めたいという願いを込めて話を進めた。
二の三:貫一の過去と現在
満枝の告白に対し、貫一は自身の過去と現在の心境を語り始める。かつて書生だった彼は、ある出来事をきっかけに人間不信に陥り、高利貸しになった経緯を説明する。貫一は「元、私は書生でありました。それが中途から学問を罷めて、この商売を始めたのは、放蕩で遣り損ったのでもなければ、敢て食窮めた訳でも有りませんので」と語り始めた。
彼は、かつて頼りにしていた人々に裏切られ、金銭のために売られたという経験をした。その無念さから、貫一は「金銭ゆえに売られもすれば、辱められもした、金銭の無いのも謂わば無念の一つです」と語る。そして「人間よりは金銭の方が遥か頼になりますよ。頼にならんのは人の心です!」と、人間不信と金銭至上主義に陥った自身の心境を吐露した。
裏切りと失望を経験した貫一は、金銭以外の価値を否定し、人間関係を拒絶するようになっていた。彼は満枝の申し出を明確に断り、「私はその失望以来この世の中が嫌で、総ての人間を好まんのですから」と宣言し、自分には妻も愛情も不要だと断言した。
二の四:満枝の懇願と貫一の冷酷
貫一の冷たい態度に傷つきながらも、満枝は諦めきれず、最後の懇願を試みる。彼女は「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等を考えまして、もう多時胸に畳んでおったのでございます」と、長く思いを募らせていたことを告白する。そして「どうぞ何日までもお忘れなく…きっと覚えていらっしゃいましよ」と、貫一への思いを忘れないでほしいと頼む。
最後の望みをかけ、満枝は貫一の身近に寄り添い、「お忘れあそばすな」と言いながら、彼の太腿に手を置くなど、身体的な接触も試みる。しかし、貫一は依然として冷淡な態度を崩さず、「御志は決して忘れません」とだけ約束する。満枝は最後の望みを失い、諦めの色を見せながらも、貫一への未練を完全に断ち切れない様子を見せた。結局、満枝は小車梅の件について話すことなく、その場を去ることとなった。
第三章:写真の御前と田鶴見良春
三の一:写真の御前こと田鶴見良春
赤坂氷川の辺に「写真の御前」と呼ばれる人物がいた。本名は田鶴見良春。子爵で、才能豊かな学者だが、世事を顧みず、写真に没頭する風変わりな人物だった。34歳だが未婚で、独特の貴族的な雰囲気を持っていた。
良春の邸内には、昔風の唐破風造りの館と並んで、帰朝後に建てた三層の煉瓦造りの建物があった。これはドイツの古城を模したもので、文庫や書斎、客間として使用していた。
良縁の話は絶えなかったが、良春は無妻主義を貫いていた。その理由は、留学中に恋に落ちた女性との約束を果たせなかったためだった。母の反対で断念せざるを得なかったが、その女性の肖像画を今も大切にしていた。
三の二:畔柳元衛と鰐淵直行
良春の家令・畔柳元衛は、主人の放蕩を補うべく、密かに高利貸しを営んでいた。その実務は元藩士の鰐淵直行が担当していた。鰐淵は警部から転身した悪徳高利貸しで、欺きや脅しなどの手段を使って財を成していた。
畔柳の後ろ盾を得た鰐淵は、「四天王」と呼ばれるほどの勢力を持つようになった。畔柳は利益の半分を良春の金庫に、残りを自分の懐に入れ、鰐淵もその恩恵にあずかっていた。
三の三:間貫一の境遇
鰐淵の家に寄寓する間貫一は、手代兼顧問として働いていた。高等中学出身だが、何らかの失望から高利貸しの世界に身を落としていた。真面目で几帳面な性格から鰐淵夫妻の信頼を得ていたが、内心では自分の境遇を嘆いていた。
貫一は色を好まず、酒に親しまず、浪費せず、遊惰せず、勤勉で気節もある若者だった。しかし、彼の心は高利貸しの仕事に慣れることはなく、ただ耐えることを学んだだけだった。時折、自らの残酷な行為を悔やみ、侮辱に耐えきれず神経を昂ぶらせることもあった。
第四章:貫一と宮子、運命の再会
四の一:貫一、鰐淵の見舞いへ
貫一は俥を飛ばして氷川なる畔柳のもとへ向かう。その居宅は田鶴見子爵の邸内にあり、裏門から出入りする二階建ての家だった。300坪ほどを木槿垣で囲み、昔風の趣がある。貫一も主人も公然の出入りを憚る身なので、格子口から訪れるのが常だった。
貫一が戸口に立ち寄ると、鰐淵の履物はなかった。お峯の言葉と符合するが、すぐにこれを疑うべきではないと思いつつ音を立てる。応じる者はなく、再び音を立てると、主人の妻の声がして、婢の名を呼んだが答えがなかった。やがて自ら出てきて、貫一を招き入れる。
主人の妻は50歳ほどで、病身で痩せ衰えているが、声は明るく張りがある。貫一は恭しく挨拶し、主人の来訪を尋ねるが、妻は来ていないと答える。妻は貫一に客間で待つよう伝え、婢を主人のもとへ走らせる。貫一は客間で待ちながら、この探偵一件をどう処置すべきか考えていた。
婢が息を切らして戻ってくると、妻が出てきて貫一に御殿の方へ行くよう伝える。貫一は婢に案内されて邸内を歩き、子爵家の構内に入る。通用門を通り、畔柳の詰所である一間に導かれた。
四の二:宮子、邸内を遊覧
富山宮子は夫の唯継とともに田鶴見子爵に招かれていた。子爵と富山の交際は最近のもので、日本写真会の会員同士だった。富山は子爵との交友を深めようと努めていた。
宮子は西洋館の三階に案内され、その美しい景色に見とれる。静緒という腰元が付き添い、邸内を案内する。宮子は双眼鏡で遠くを眺めていたが、偶然葉越しに見覚えのある顔を見つける。それは貫一だった。
宮子は動揺を隠しきれず、涙を流してしまう。静緒に気づかれないよう取り繕いながら、貫一のことを詳しく尋ねる。静緒は貫一を鰐淵の手代だと説明する。宮子は何とか貫一に会いたいと思うが、危険を冒すべきではないと自制する。
宮子は静緒に邸内を案内してもらいながら、貫一との再会の可能性を考えていた。彼女は四年間の別離の後、この偶然の出会いを無駄にしたくないと思う一方で、周囲の目を気にして躊躇していた。
四の三:運命の再会
宮子は静緒と共に邸内を歩いていたが、突然貫一と遭遇する。互いに目が合い、貫一は驚きと怒りの表情を見せる。宮子は動揺を隠しきれず、顔色が変わり、唇を噛んでしまう。貫一は帽子を押さえて通り過ぎようとするが、思わず宮子を一瞥する。
その瞬間、貫一の目には怒りと憎しみが浮かび、涙を湛えながら歯を噛みしめた。宮子も胸の内に複雑な感情を抱えながら、静緒に顔を背けて歩を進める。
静緒は二人の様子に違和感を覚えるが、何も聞けずにいる。宮子は静緒に礼物として指輪を渡し、秘密を守るよう頼む。その後、子爵に呼ばれ、写真を撮ることになる。
宮子は不本意ながら写真撮影に応じるが、動揺が収まらず、顔色が悪くなる。夫の唯継も宮子の様子を心配するが、宮子は大丈夫だと取り繕う。子爵が写真を撮ろうとした瞬間、宮子は燈籠の上に倒れ込んでしまう。貫一との再会が彼女に与えた衝撃の大きさを物語っている。
第五章:高利貸しの苦悩と友情の絆
五の一:遊佐良橘の金銭トラブル
遊佐良橘は郷里にいた頃も、東京での遊学中も、非常に謹厳実直な人物として知られていた。しかし、日本周航会社に勤め始めてから、300円もの高利に苦しむようになり、友人たちを驚かせた。ある者は結婚費用ではないかと言い、またある者は見栄を張るための出費だろうと推測し、隠れた遊興費ではないかと言う者もいた。遊佐の美しい妻と、この不思議な借金は、彼に過ぎたるものが二つあると数えられた。
実際には、遊佐は言えない事情から連帯保証人になってしまい、その結果として苦しんでいたのだった。この不幸を悲しむ者は、交際官試補の法学士蒲田鉄弥と、同じ会社の貨物課に勤める法学士風早庫之助だけだった。
風早は高利貸しについて厳しい見解を持っていた。彼は高利の術を「渇いた者に水を売る」ようなものだと考え、借りる側にも責任があると主張した。風早によれば、高利を借りるのは最も不敵な者であり、借りる覚悟のある人間だけが借りるべきだと考えていた。遊佐はそのような人間でも、そのような覚悟もなかったため、風早は友人のために常に心配していた。
五の二:郷友会の打ち合わせと遊佐の家
郷友会の秋季大会を前に、遊佐、蒲田、風早の3人は委員会の帰りに遊佐の家に向かった。遊佐は松茸の新鮮なものと、製造元からもらった黒ビールがあると言い、鶏肉も買って寛ごうと提案した。途中、遊佐は半月形のスモークハムの缶詰も買った。
家に着くと、遊佐の美しい妻が出迎えた。しかし、彼女は客が来ていることに少し戸惑いの色を見せた。遊佐が座敷の様子を尋ねると、妻は小声で高利貸しの鰐淵が来ていると告げた。遊佐は困惑し、友人たちに事情を説明した。
蒲田は談判を提案したが、金銭問題は単なる弁論では解決できないと躊躇した。結局、遊佐が下りて行って話をすることになり、蒲田は臨機応変に助太刀することを約束した。
第六章:腕力と知恵の駆け引き
六の一:高利貸しの貫一と遊佐の対峙
座敷には遊佐と貫一が対座していた。貫一は冷静に、遊佐に対して借金の返済を迫っていた。遊佐の前には、かつて肺病患者と知らずに出した茶碗が置かれている。遊佐は憤りを抑えた声で、友人に借金の連帯保証人になってもらうのは難しいと説明する。貫一は重々しい声で、利子も支払えず、書き換えもできないなら自分の立場が危うくなると主張する。彼は遊佐に対し、連帯保証人を立てるか、手形に署名するよう要求する。
遊佐が困惑している中、蒲田と風早が到着する。彼らは貫一の旧友であり、状況を把握すると貫一に対して旧交を温めようとする。しかし貫一は冷淡な態度を崩さず、ビジネスと友情は別だと主張し続ける。蒲田と風早は貫一の変貌ぶりに驚き、怒りを覚える。彼らは貫一に対し、遊佐への要求を取り下げるよう説得を試みるが、貫一は頑として聞き入れない。
六の二:蒲田の強引な介入
蒲田は貫一の態度に我慢できなくなり、突然彼の胸ぐらを掴む。蒲田は貫一を力づくで押さえつけ、遊佐の借用書を探そうとする。風早は蒲田の乱暴な行動を制止しようとするが、効果はない。貫一は必死に抵抗するが、蒲田の力に敵わない。
蒲田は貫一の鞄から書類を取り出し、遊佐に自分の借用書を探すよう促す。遊佐と風早は事態の急変に戸惑いを隠せない。遊佐は借用書を取ることをためらうが、蒲田は強く迫る。貫一は苦しみながらも、なおも抵抗を続ける。
事態が収まらない中、蒲田は貫一を床に押し付け、さらに強引に書類を探ろうとする。風早は事態がエスカレートすることを恐れ、仲裁に入ろうとするが、蒲田の勢いは止まらない。貫一は蒲田の暴力的な行為に対し、怒りと屈辱を感じながらも、なすすべがない状況に追い込まれていく。
六の三:蒲田の奇策と借用書の奪取
蒲田は貫一を押さえつけながら、巧みに借用書を奪い取ることに成功する。貫一は屈辱と怒りを感じるが、力で抑え込まれてなすすべがない。蒲田は勝ち誇ったように借用書を取り出し、遊佐と風早に見せる。
三人は驚きと喜びで沸き立つ。蒲田は遊佐の借用書と思われる300円の証書を手に入れたことを告げる。遊佐夫婦と風早は、信じられない思いで証書を確認する。蒲田は自らの機転を誇り、この行為を「嘉納流の教外別伝」と呼ぶ。
風早は借用書を奪ったことの法的問題を懸念するが、蒲田はこれで貫一の要求を封じ込められると主張する。蒲田は自信満々に、今後の対策を練り、遊佐家の安泰を約束する。貫一は無力感と怒りに苛まれながら、事態を傍観するしかない状況に陥っている。
六の四:勝利の祝杯と今後の展望
借用書を手に入れた蒲田たちは、喜びに沸く。蒲田は意気揚々と今後の対策を語り、遊佐家の借金問題を解決する自信を示す。彼は自らを「蒲田弁理公使」と呼び、遊佐家を守ると豪語する。
遊佐は蒲田の非合法な手段に若干の不安を感じつつも、長年の借金の重荷から解放される希望に胸を膨らませる。蒲田は遊佐に向かって、この勝利を祝して万歳を唱えようと提案する。
一同は興奮冷めやらぬ中、長夜の宴を開こうとする。借金という一生の怨敵を退散させた喜びに、皆が膝を寄せ合って祝杯を上げようとする。遊佐夫婦は安堵と喜びに包まれ、蒲田と風早は友情の勝利を感じている。一方、貫一は無念さと屈辱感を抱えながら、この場を後にしようとしていた。
第七章:貫一の苦悩と変貌
七の一:貫一の孤独と失恋の痛み
貫一は世間から孤立し、親しい家族もなく、愛情に恵まれない生活を送っていた。彼の心は枯野に横たわる石のように冷たく孤独だった。宮との恋は彼に幸福をもたらし、その優しい声と柔らかな手、温かい心は貫一に満足感を与えた。宮は彼にとって妻であり、母であり、妹であり、時には父や兄のような存在だった。彼らの恋は単なる風流な夢ではなく、より深い絆だった。
しかし、突然の裏切りにより貫一は深い傷を負った。競争相手に宮を奪われ、信頼していた恋人が敵のように離れていく様子を目の当たりにした。宮を失ったことで、貫一は単に恋人を失っただけでなく、家族のような存在も失ったのだった。この喪失感は彼の心に深い痛みとなって刻まれ、以前の孤独感に失望と恨みが加わった。それは霜が置き、木枯らしが吹き荒れる野原の石のように、骨身に染みる痛みとなった。
七の二:高利貸しへの転落と心の闇
失恋の痛みから逃れるため、貫一は高利貸しの仕事に没頭した。当初は残忍で刻薄な行為を自らに強いることに苦痛を感じていたが、次第に冷酷さを身につけていった。敵対者や悪徒に遭遇し、騙されたり脅されたりする中で、貫一は恐れを知らず、貪欲になっていった。しかし、心の奥底では常に痛みを抱え、死を考えることさえあった。
貫一は金銭的な成功を得ても、宮への思いは消えず、過去の幸せな時間を取り戻すことはできないと悟っていた。彼は復讐を企てるのではなく、もっと大きな、男らしい何かを成し遂げようと考えていた。しかし、苦しみが激しくなる時、彼は熱い涙を流し、死んだ方がましだと嘆いた。貫一にとって、百万円を積んでも昔の宮は手に入らないことが、金の無意味さを痛感させた。
七の三:貫一の外見と内面の変化
貫一の外見は激しく変化した。痩せ細り、骨ばって、疲れた表情になった。眉は寄せられ、目は沈んで、かつては艶やかだった髪にも白いものが混じり始めた。額には深い皺が刻まれ、顔全体が暗い影に覆われていた。
内面では絶えず葛藤があった。貫一は自分の行動が正しくないことを知りながらも、心の痛みを忘れるために高利貸しの仕事を続けた。残忍な行為を重ねるたびに自責の念に苛まれたが、それでも続けたのは、心の痛みから逃れる唯一の手段だと考えたからだった。彼は利欲に耽り、迷いに翻弄され、何を成し遂げようとしているのかさえ分からなくなっていった。
七の四:貫一と鰐淵の対比
高利貸しの世界で名を馳せ始めた貫一だが、同業者の鰐淵とは対照的な存在だった。鰐淵は残忍さと狡猾さを兼ね備え、それによって富を築いていた。彼は警戒心が強く、夜間の外出を控え、教会の熱心な信者として寄付を惜しまず、自身の安全を祈っていた。鰐淵は自分の成功を信仰の力によるものだと信じていた。
一方、貫一は鰐淵ほど冷酷でも狡猾でもなかったが、神を恐れることもなかった。貫一の恐れるものは自分の心だけだった。彼は人生の不条理さに憤りを感じながらも、自分の行動を正当化し続けていた。高利貸しという職業の性質上、非道な行為は避けられないと考え、自分だけが残酷なのではないと信じていた。しかし、その考えは彼の心の苦しみを完全に癒すことはできなかった。
第八章:満枝の誘いと貫一への襲撃
八の一:満枝との夜の散歩
貫一が帰ろうとすると、満枝は服を改めて買い物に行くと言い出し、一緒に行くよう誘った。貫一は気が進まなかったが、断れずに同行した。二人は四谷左門町を出て、伝馬町通りを歩いた。満枝は貫一に寄り添おうとしたが、貫一は距離を置こうとした。満枝は鰐淵の件で相談したいと言い、貫一に手紙を送ることを提案したが、貫一は断った。
伝馬町三丁目の角で、貫一は満枝と別れようとしたが、満枝は引き留めようとした。暗い横町に入ると、満枝は履物が取れたと言い、貫一の手を取った。貫一が手を離そうとすると、満枝はさらに強く握り、身を寄せてきた。貫一は怒って手を振り払い、津守坂を急いで下りていった。
八の二:貫一への襲撃
夜の十一時頃、貫一は兵営の門前で二人の男に襲われた。貫一は自分の名を名乗り、理由を問うたが、男たちは答えず攻撃を始めた。貫一は抵抗したが、二人の男に打ちのめされた。一度は反撃のチャンスをつかんだものの、最終的には数で勝る相手に敵わず、昏倒してしまった。
襲撃者たちは貫一を十分に痛めつけたと判断し、近くの横町に逃げていった。貫一は全身の痛みに苦しみながら、意識を保とうと努めた。