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『短くて、さびしい。』

花火の手、という表現を息子は使った。

線香花火が爆ぜ、その火花の先端が枝分かれする様を捉えて、「花火の手」。確かに言われてみればそう見えなくもなく、ぢりぢりと明滅するそれを眺めながら、子どもの発想とは柔軟なものだ、と私は唸った。

「優斗はすごいな。まるで詩人だ」

妻に向け、語りかける。しゃがみ込み、息子の目線で花火を見守って。その小さな身体がわずかでも危険に晒されようものなら、すぐさま身を挺して守ろう、という気概が感じられる。

「でしょう」目は優斗に固定したまま、妻が言う。「だからやっぱり、習いごともさせた方がいいと思うの。こういう頭が柔らかくて、感受性も豊かなうちに、いろんなものを吸収させてあげなきゃ」

嫌な話題になったな、と内心で舌打ちをする。

息子が三歳の誕生日を迎えてから、妻は急に教育熱心になった。やれピアノをやらせようだの、体操教室に通わせようだの。曰く、幼稚園のほかの子と比べ、息子の発達が遅く感じられるとか。●●ちゃんはもう平仮名が読める、●●くんより体幹が弱い気がする、等々。気がつけば家の中には、その手のチラシが目立つようになってきていた。

習いごと自体に異議があるわけではない。息子が本当にやりたいのであれば、やらせてやればいいと思う。しかし、どうにも妻の動機には、親のエゴのようなものが見え隠れするようで嫌だった。当人が望んでいないところ、こちらが抱く理想像を押しつけるような格好に、すんなりとは頷けない自分がいた。

自然体でいいじゃないか。優斗が自分から興味を示したものを。
一度そう主張し、喧嘩になったことがある。
今のうちは親が導いてやらなくては。将来困るのはこの子なの。
結局、決着はつかぬまま、互いに言いたいことを言い合ってその場は終息となった。

どちらが正しいというわけではない。
だが、どちらを選ぶのか、選択をしなくてはならない。

「あ」

息子の声がして、視線を下に向ける。小さなニューバランスの靴の側、落ちたばかりの火の玉が赤く燻っている。

「おわった」

息子がこぼす。朴訥とした言い方が可愛らしく、思わず私も妻も吹き出した。顔を見合わせ、笑う。

「そうよぉ、線香花火はすぐ終わるの。その儚さを楽しむのよ」
妻が言う。
「はかなさ、ってなに」
「短くて、さびしい、ってことだ」
私が答える。
「さびしいのにたのしいの」
「そうだ」
「どうして」
「さびしいのを、大事にするのが楽しいんだ」

わかったのかわからないのか、息子は「もいっかいやる」と花火セットに手を伸ばす。あわてないの、妻が束になった線香花火から、一本を選り分けて、息子に渡す。

私は私で、今しがた自分が口にした台詞に打ちひしがれる。

短くて、さびしい。

幼いこの子と過ごすこの時間もまた、同じだ。生まれてきたのがつい最近にも思えるが、すでに手持ち花火を嗜むほどに成長している。きっとあっと言う間に一人前になり、私たちのもとを巣立っていくのだろう。

さびしいから、大事にするんだ。

「京子」
妻に呼びかける。
「ちょっと待って。今、火をつけてるから」

帰ったら、習いごとの話をしよう。そう言おうとしたのだが、しかし、今は息子が火傷をせぬよう、見張り番に必死なようだ。

その様子に、ふ、と肩の力が抜けた。

「ついた」

息子の線香花火に、赤い玉がともる。

花火の手が伸びる。



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