トライアングル25
第十三章 夏の終わり <side カオル>
次の日の朝早く、桜子は本当に出て行った。来た時と同じように軽装で、ほんの少し増えただけの着替えの入った小さなバッグを持って。
彼女が使っていた部屋は整然と整頓されていて、きちんと折りたたまれたブランケットがベッドの隅にぽつんと置いてあった。彼女が居た痕跡はそれだけだったけれど、彼女は僕たちの心に様々なものを残していった。トモの出生についての疑念と、きっとこれからも昇華することのないトモへの思い。トモに抱きとめられた僕を見た、表現しがたい瞳、そしてフレンチトーストのレシピ……ブランケットの上には「お世話になりました」というメモが一枚置いてあった。
それから数日、僕たちはシアトルへ行く準備に追われた。直前までそんなわけでバタバタしていたので何も用意していなかったし、それまでに終わらせるはずだった課題も手付かずで、仕方なくスーツケースにテキストや辞書を詰める羽目になった。
二人とも桜子のことは話さなかった。トモは時折、何か考え込むような顔をしていたけど、何も言わないので僕も何も言わなかった。僕もまた、玲子母さんの妊娠のことが話せてなかったけれど、このタイミングで言い出すよりも飛行機の中でさりげなく報告しよう。そう考えた。
出発の前日には夏原がやってきた。殊勝にも餞別だと言って、雑誌やガムなんかを買ってきてくれて、そして切羽つまった目で訊ねてきた。
「二人とも、帰ってくるよな」
僕たちは顔を見合わせた。夏原が何を心配しているのかはよくわかっている。坂崎を止められなかったことを、彼はすごく悔やんでいるのだ。
「帰ってくるに決まってんじゃん。親に顔見せにいくだけ」
トモが、なあ、と僕に同調を促す。僕も笑って頷いた。
「何があっても」
夏原は真剣な顔だった。
俺は最後まで、お前らの味方だから」
飛行機の中でヤリたくなったらどうしよう、とトモはふざけたことを言った
「やっぱトイレかな?」
「バカなこと言ってないでもう寝ろよ」
「今日はやんないの? しばらくできないかもしれな……」
「バカっ!」
「バカバカ言うなよ」
トモは口を尖らせ、身体をずらして僕から離れた。おとなしく天井を見上げている。その横顔が幼くて、初めて会った時のトモの顔をふと思い出す。すると僕は決まって、今隣にいるトモは現実なのだろうかと思えてくる。あの時出会って、一目で憧れた彼が、今こうして僕の隣にいる。身体だけじゃなくて心もまたそこにある。トモが誰の子どもであっても、玲子母さんに託されて、その玲子母さんもまた父さんと出会って、トモをここへ連れてきてくれた。
その始まりは、トモが生まれたということだ。桜子と二人で生まれたことだって、きっと意味がある。だからきっと、三月に生まれる僕たちの妹もまた、何かの役割を担って生まれてくるんだ。大丈夫。玲子母さんと父さんの子どもが、トモをとても大切に思っている二人の子どもが、トモを苦しめるわけがない。
「あのな、トモ」
「ん?」
トモは上を向いたまま答えた。
「玲子母さん、赤ちゃんできたんだって」
「マジ?」
トモはぱっと僕の方を見た。
「やるよなあ父さん……二人ともいくつだっけ?」
「そういうこと言うなよな」
「なんで? 母さんにとっては初めての好きな人との子どもだよ?」
トモの物言いがせつなくて、僕は黙ってしまう。
「いつ生まれる?」
「三月の終わりか四月の初めくらいだって」
「じゃあ、俺とカオルのちょうど間くらいだな」
ホントだ。気がつかなかった。でも、その日をお前は楽しみに待てるのか?
「大丈夫だよ」
僕の心の中を読んだかのようにトモは答えた。
「もし妹が生まれても大丈夫……んなこと言ってて、またその時に崩れるかもしれないけど、でも、そしたらカオルが助けてくれるだろ?」
僕はトモの髪に指を差し入れた。ニ、三度髪を梳いて、そのままトモを抱き寄せてキスをした。
「……今日はしないんじゃなかったの?」
「気が変わったんだよ」
トモは笑ってキスを返す。僕は彼を一瞬、ぎゅっと抱きしめて、その首筋に顔を埋めた。
約八時間のフライトを経て、僕たちはシアトルタコマ空港に降り立った。蒸し暑かった日本と比べると、空気がからっと乾いてるような感じがする。
空港には父さんが迎えに来てくれていた。半年以上会っていなかった父さんはブルーのストライプのシャツなんか着て、前より若く見える。父さんはしきりに僕たちの頭に手をかざし、しばらく見ない間にずいぶん背が伸びたと何度も言った。実際、そんなに伸びてはいなかったのだけれど。
「母さんも来たがってたんだけどな」
運転しながら父さんは言い、ルームミラーで僕にちらっと視線を送った。僕が小さく頷くと、父さんは言葉を続けた。
「安静にするように指示が出て」
「大丈夫なの?」
僕が聞くと
「トシだもんな」
トモは意地悪なことを言った。でも、ある意味とてもトモらしい。ここは、僕も父さんも安心していいんじゃないだろうか。
家で待っていた玲子母さんは、泣きながら僕たちを出迎えた。大げさなんだから、とぶつぶつ言うトモを、玲子母さんは愛おしげな目で見上げる。僕は二人の様子を見て泣けそうになった。トモと玲子母さんの間には、誰も入っていけない絆がある。僕もそこへは入っていけないけれど、それは決して嫌ではない、気持ちのいい距離感だった。
「それより、おめでと」
トモと僕は、空港のフラワーショップで調達した花束を差し出した。
「大事にしろよ。トシなんだから」
トモはまた、そんな軽口を叩いて照れをごまかそうとする。
「ありがとう」
そう言って、玲子母さんはまた泣いた。
「やったね、同じ部屋だ」
トモはドアを閉めると、僕に抱きついてきた。シングルのベッドと、ソファベッドがホテルのツインルームみたいに置いてある。僕はトモを抱きとめながら、壁の薄さは大丈夫だろうかと、きょろきょろ周りを見回した。トモと違って、僕は感情をうまく隠せない。父さんや母さんの前で、トモとの関係をうっかり垂れ流してしまったらどうしようと、今でも不安だった。
「悪いこと」をしているのだとは思わない。でも、父さんと玲子母さんに今それを言えるのかと聞かれたら、答えはノーだ。坂崎の反応が拍車をかける。もう逃げないと決めたけれど、家族の中で僕とトモの関係は成り立つんだろうか。
「何考えてる?」
トモが僕の眉間に指を立てた。
「ここんとこにシワが寄ってる」
「あ……」
「ほんとにカオルはわかりやすいんだから」
トモは笑って、僕の眉間を指で弾いた。そのまま僕をぎゅっと抱きしめる。
「なあ、俺ちゃんと母さんにおめでとって言えただろ?」
「うん」
「カオルが居てくれたからだよ……」
自分のことを言いながら、実は僕を安心させようとしている。大丈夫だと僕を力づける。トモを支えているつもりで、僕はトモに支えられている。
それからの二週間、僕たちは楽しい毎日を過ごした。トモと二人であちこち出かけたり、家族で遠出はできなかったけれど、久しぶりに玲子母さんが作ってくれる食事を味わって、母さんが休養できるように家事に精を出したりした。なんてことはない日常だったけれど、この数ヶ月いろんなことがありすぎたので、僕とトモにとっては、まるでプレゼントみたいなバカンスになった。
さすがに深く愛し合うことはしなかったけれどーーキスして、触れ合って、幸せな気持ちで毎日眠りにつく。日本に帰って学校が始まったら、またいろんな悩みが押し寄せて来るだろう。でもそれは、今考えても仕方のないことだから。そうだ、夏原への土産は何にしよう。明日、買いに行こうな。
帰国が明後日に迫った日、僕たちは母さんの定期健診に同行した。
モニターに映し出される超音波の映像の中に、小さい勾玉みたいな、魚みたいな生き物がいる。もちろん医師は英語なので、何を言ってるのかわからないけれど、さかんにモニターを指差して僕たちの方を見る。そのフレンドリーな様子に、適当に笑顔で相槌を打ちながら、僕もトモも、初めて見るその映像から目が離せなかった。
玲子母さんは僕たちに言った。
「あなたたちも、こんな風に大きくなっていったのよ」
僕は、大きな感傷に囚われて何も言えなかった。でもトモは、もっと違う意味で黙っていたのかもしれない。しばらくして、トモはしみじみとこう言った。
「ブラックホールみたいだ。人間の体の中に宇宙があるっていうか」
ただ、そう言ったトモの瞳もまた宇宙みたいに深くて、見ていたら引き込まれそうだった。彼の思っていること、願っていること、僕はそれをわかっているつもりだったけれどーー。
家へ帰ってからも、その次の日も、トモは何かを考え込んでいる様子だった。名前を呼んでもしばらく気付かないし、歩くたびに何かに躓いたりした。トモにしては珍しいことで、僕は超音波映像を見た時の、トモの深い深い瞳がすごく気になっていた。玲子母さんも、そんなトモの様子に気づいていたに違いない。何か言いたげで、でも中途半端にそれを我慢している。そしてトモが、ついに「母さんに聞いておきたいことがある」と言った時、僕たちは明日に迫った帰国の荷造りの最中だった。
僕たちの忘れられない夏が終わろうとしている。
「カオルにも一緒に聞いてほしい」
トモは真剣な目だった。ああそうか。トモはギリギリまで聞きたいことを我慢していたんだ。残りの家族の時間が気まずいものにならないように気を使って。
トモは玲子母さんに向き合って座った。僕は二人から少し離れたソファに座った。
「母さん」
玲子母さんもまた、トモを深い瞳で見た。同じ、深い色をたたえた瞳。この二人が実の親子じゃないなんて到底思えないくらいに、二人は同じ瞳をしている。「俺、この夏、朝比奈桜子に会ったんだ」
玲子母さんは瞬きもせずにトモを見ている。
「あいつと俺は、本当は双子じゃないの?」
「何故、そう思うの?」
母さんは否定しない。トモは答える。
「あの女が"あんたたちなんか産むんじゃなかった"って、あの時そう言ったんだ。俺はずっとそのことが気になってて、でも聞けなくて……」
あの女、あの時。母さんに説明は必要ない。そして母さんは、ひどく辛そうな顔をした。
「沙織が……」
「お願いだよ、母さん」
トモの目が真剣に訴える。
「何も隠さないで。知りたいんだよ。自分がどうやって生まれてきたのか。そしたらもっと自分を好きになれると思う。好きに」
語尾が震えた。
「なりたいんだよ……」
言葉を振り絞ったトモは、俯いて何かに耐えている。駆け寄って抱きしめてやりたかった。
「半年ほど離れていただけなのに、私の知っている智行じゃないみたい」
玲子母さんは優しい目をトモに向けた。そして僕を見た。
「カオルくんも一緒に聞いてくれるのね?」
僕は静かに頷く。
玲子母さんは、テーブルの上で祈るみたいに手を組み合わせ、ふっと遠い目をした。
「あなたを産んだ、朝比奈沙織というひとは、私の友だちだったの」
玲子母さんは語り始める。それは、トモや桜子が生まれるずっと前からの、もう一つの三角形の物語だった。
「友だち?」
トモの訝しげな確認に、母さんは頷いた。
「沙織とは、中学で出会ったの。すごく綺麗で、大人っぽくて雰囲気のあるひとだった。とっても同じ年には思えなくて、すごく憧れたわ」
母さんと沙織というひとが友だちだった……まだ話は始まったばかりなのに、トモは穏やかでない目をしていた。たぶん、その事実さえもトモには受けれ難いものだったのだろう。育ててくれた大切なひとと、自分を産んだというだけの、憎んでいると言ってもいいひと。
「沙織も私のことを気に入ってくれて、私たちはいつも一緒だったわ。そして……」
「母さん」
トモが話を遮った。母さんは話をやめて、トモの方を見た。
「ごめん……なんでもない。続けて」
トモはそう言ったけれど、辛そうなのは見て取れる。母さんは、今度は僕の方をちらっと見た。
「続けて、玲子母さん」
僕はそう言って、トモの隣に座った。
「大丈夫?」
僕が聞くと、トモは小さく頷いた。僕は一瞬、トモの手をぎゅっと握る。自然に取った所作だったが、僕たちのそんな様子を、玲子母さんは驚いたような顔で見ていた。
「沙織はエキセントリックで、本当はちょっと怖いなって思うところもあったんだけど、でも、そんな彼女を本当に理解できるのは私だけなんだと思っていたわ。思春期の女の子にありがちな、お互いへの閉塞感みたいなものにはまり始めて……でも、心のどこかでそれが怖くもあって。そんな時に、沙織のお兄さんの博行さんに出会ったの」
「それが俺の父親だよ。前に言ったろ? 生物学上の」
トモは僕に言った。虚勢を張って、強がっているのがわかる言い方だった。玲子母さんはトモのそんな物言いを聞いて、寂しそうな顔をしたが、何も聞かなかったように話を続けた。
「博行さんは、繊細で少し変わったところのある沙織をとても心配していて、妹が友だちを連れて来たのは初めてだと言って、私にもとてもよくしてくれた。自然と三人で過ごすことも増えて……そうするうちに、わかってきたの」
母さんは息をついた。言葉を探しているように何度か言いよどみ、やがて観念したように、後の言葉を続けた。
「沙織は、実の兄の博行さんのことを異性の目で見ている……好きなんだって」
トモは何も言わなかった。だけど僕は、その場を沈黙にしたくなくて口早に尋ねた。
「それで……? そのことに気付いてどうしたの?」
「見ないふり、気付かないふりをしたのよ」
玲子母さんは自嘲的だった。明らかに、そんなかつての自分を責めていることがわかる口調だった。
「信じたくなかったし、沙織に博行さんをとられることが何よりも嫌だったから。だから、博行さんに結婚してほしいと言われた時には沙織に勝ったんだ、ってそんなことを思って……」
奇妙な空気が流れた。その場にいる者を逃げられない所に追い込むような息苦しさが充満する。その苦しい沈黙は、トモの凍りついたような声によって破られた。「母さんは、あの男のことが好きだったの?」
あの男。生物学上と言わなければ父と呼べないような、あの男を母さんは……トモの心の声が否応なしに伝わってくる。声にならない響きが痛くて仕方ない。
「好きだったわ」
張り詰めたトモの声に対して、玲子母さんの声は穏やかだった。
「好きだったから沙織が赦せなくなった。博行さんも沙織に苦しめられてるんだと思って、彼を守りたいと思った。でも博行さんだって、結局は沙織への思いから逃げただけだったのよ。あとから、そのことを嫌というほど思い知らされて……」
玲子母さんは手で顔を覆った。トモも唇を噛んで下を向いていた。
こんなことを話して、聞いて、なんになるんだろう。昔の傷や秘密を暴いて……トモは前へ進みたくて真実を確かめようとしただけなのに、ここまで知らなければならない必要があるんだろうか。僕は、第三者にすぎない自分が歯がゆかった。一緒に傷ついてやりたいと思っても、当事者のそれは想像もつかないほど深くて、僕は陳腐な同情に甘んじるだけにすぎないのかもしれない。だが、トモは言った
「続けて、母さん」
「沙織は、博行さんと結婚した私を赦さなかった。常識では、沙織の思いは禁忌と言われるものだけれど、彼女にはそんなこと関係なかったのよ。沙織はそれから留学して私たちの前に現われないようになったけれど、二人の関係は向こうで続いていたみたいで、妊娠が発覚して……そして、男の子と女の子の双子が生まれたの。それが……」
母さんはゆっくりとトモに視線を移した。
「あなたたちよ」
桜子の張っていた一線はこうして破られたが、その一瞬を自ら望んだトモは、僕が思っていたよりも静かに、その事実を受け入れたようだった。
「赤ちゃんたちは沙織から取り上げられて、彼女は半狂乱だったと聞いたわ。私もすごくショックだったけれど、でも私は博行さんの子どもを育てることを託された。私は二人とも育ててもいいと思ったけれど、お義母さまたちがそれは許さなくて、あなたたちは引き離されたの。おそらくは男女の双子だったから。母親と子どもが引き裂かれて、なんの罪もない子どもたちが引き裂かれて、なのに博行さんの子どもの母親になれた私は幸せだった……本当に幸せだと思ったのよ? 沙織が狂いそうに悲しんでいるのに、私は幸せだと思ったの」
玲子母さんは泣いた。僕とトモは黙ったまま、母さんが落ち着くのを待った。かける言葉なんて見つからなかった。まだ二十年も生きていない僕たちには想像のつかない妄執。その言葉が適当なのかもわからないけれど。
「それから博行さんは家に帰らなくなって。たぶん智行の顔を見るのが辛かったんだと思う。博行さんの心がそうやって離れて行っても、私にはあなたが居たから。あなたが私の全てだったの」
玲子母さんは、あの愛しげな目をしてトモを見る。だがその目は、やがて暗い光を落とした。
「そうして、あの事件が起こったの。智行には本当に辛い思いをさせて……」
玲子母さんは声を詰まらせる。誰の心にも癒えない傷を残した、あの事件。「……あんたたちなんて産むんじゃなかったって、その時に言われたんだよ。それなのに、玲子には渡さないって、そんなことも言ったんだ。わけがわかんねえよ、今でも……」
トモが僕の手を握る。僕は力づけるように、その手を握り返した。
「沙織は、私からあなたも、博行さんも取り戻したかったのよ。誰にも邪魔されない所へ行こうとしてきっと……」
「母さんは、どうして俺を捨てなかったの?」
唐突にトモは言った。
「だってそうだろ? 結局、あいつは他の女を選んだんじゃないか。俺だって母さんから取り上げようとして……それでも好きだったの? そんなにされてもあの男のことが好きだったの?」
トモは言葉を吐き出した。何年もつかえていたものを一気に放出するように、トモの思いは外に向かってほとばしり出た。
「自分を苦しめた男と女の子どもでも、赦せるくらいにあいつのことが好きだったの?」
答えを哀願するかのような、そんなトモの瞳に、玲子母さんは包み込むような温かさを投げかける。
「好きだったわ。理解してもらえないかもしれないけど。そしてあなたは、私が愛した人が、たった一つ私に残してくれた、大切なものなのよ」
トモの昂ぶった感情が、すーっと引いて行く。静かに、そして今まで存在していなかった穏やかな何かが、トモの内に降り積もっていく。
「あとで医師に聞いたけれど、あなたが飲んだ薬は致死量ではなかったの。博行さんはね、あなたを連れて行くことができなかった。そして私に、あなたを託してくれたのよ……」
トモは、手のひらを自分の顔に押し付けた。指の隙間から雫が落ちて行く。静かに、静かに落ちて行く。
やがてトモは、目を拭って、照れたように僕と玲子母さんに笑いかけた。そして真顔に戻ると、母さんを真っ直ぐに見た。
「母さん、もし俺に本当に好きなひとが出来てーー」
トモは揺るがなかった。
「でもそれが俺と同じ男で、周りからは普通じゃないとか、信じられないとか言われる関係だったとしても、でも俺はそいつを失いたくなくて、そいつが好きだって言ってくれたから、俺も自分を好きになれるかもしれないって思ったから。だからーー」
決意表明のようなトモの言葉を、僕は心の奥深くで聞いていた。
「私はね、智行が幸せで、その相手の人も幸せならそれでいいの」
笑った玲子母さんの顔は、とても綺麗だった。僕もまた、亡くなった母さんに、トモのことを語る。そして心の中で、何度も何度もトモを抱きしめた。
「本当はね、何が赦されて何が赦されないのか、よくわからないの。沙織と博行さんは赦される関係ではなかったと今でも思うけれど、それなら、どうしてあの二人は兄妹として生まれたのかなって……」
玲子母さんはため息をついた。人の思いというものは、やはり見えざる大きな手で操られているのかもしれない。悔しいけれど。玲子母さんの話を聞いて、僕はそんなことを考えていた。でも、それなら何故、こんなに悩んだり苦しんだりするんだろうな。そういうのが、全部無駄なことだとは絶対に思いたくないけれど……。「なに考えてる? いい加減にこっち向けよ」
トモが僕の耳を引っ張った。狭いシングルベッドで、僕たちは並んで横になっている。明日はもう日本へ帰る日だ。
「痛いだろっ」
僕が怒ってトモの方を向くと、トモはちゅっと僕の唇に吸い付いてきた。
「へへ」
珍しく照れている。
「俺、今日いっぱい泣いた」
「うん……」
「カオルにも聞いてもらえてよかった」
「ありがとな」
「なに?」
「なんかいろいろ。話聞かせてくれてありがと。好きになってくれてありがと。ウチに来てくれてありがと。あの時に連れて行かれなくて、生きててくれてありがと、って。いろいろ」
トモは嬉しそうな顔をして、ぎゅうぎゅう僕を抱きしめる。僕も抱きしめ返す。いつもと違って、子どものじゃれ合いみたいな触れ合いだった。
「桜子に会うことがあったら伝えてやってよ。俺たちだって愛ってのがあるところに生まれてきたんだって。ただ……」
「ただ?」
「やっぱり、どうして、あの二人は兄妹だったんだろうなって……」
「うん」
「あいつにも見つかるといいよな。本当に好きになれるヤツ。俺いま、すごく幸せだから、あいつにも妙に優しい気分だよ」
トモは笑った。僕たちの三角形は、ほんの少しだけど響き合える可能性が生まれたのかもしれない。それがどんなにささやかな響きであっても、ついに哀しい不協和音しか鳴らなかった、もう一つの三角形よりも、未来はあるのかもしれない。まだ……まだわからないけれど。
その夜、僕たちは手を繋いで眠った。抱き合わなくても満ち足りていた。繋いだところで共有する体温は、その広さが意味を持つんじゃない。深さなんだとーー。