トライアングル 3
第四章 1 片思い<side カオル>
疲れた。
夕飯も食べずに、僕は部屋のベッドに倒れこんだ。今日は、いろんなことがありすぎて、心と頭はまだ整理がつかず、とても夕メシなんて現実に向かえる状況じゃなかった。唯一ほっとしたのは、まだトモが帰っていないことだった。
あいつへの気持ちを自覚した今となっては、いったいどんな顔して向き合えばいいのかわからない。いきなり赤面とかしてしまいそうだ。向き合うどころか、これから毎日、同じ家の中で生活しなきゃいけないのに。
トモ……
僕は今までのことをいろいろと思い出した。確かに、あれもこれも、あの矛盾もこの葛藤も、僕がトモに恋していたといえば説明がつくことばかりだ。
いつから……だったんだろう。
初めて会った小学生のとき、コドモ心に「なんて綺麗なヤツなんだろう」と思って、自分と全然違う性格に戸惑って、憧れて……。一緒に寝起きしてた部屋を分かれると言われた時は、そう、あれは中学生の時だったけど、裏切られたような気がして、あいつのつき合ってた女の子たちにも嫉妬していた。
こういうのって、なんて言うんだろう?
オトコを好きになるって……そういえば、トモに冗談で聞かれたこともあったけど、確かに、女の子に告られてもその気にならなかったのは、それが正解だったんだと今さらながらに納得した。でも、人ごとみたいにピンとこない。トモと出会う前に好きだった女の子もいたし、あの子は転校しちゃったけど、あれが「初恋」だったとしたら、今回、たまたま好きになったのが、トモだったってことなのか、と僕は思考を締めくくる。そして「たまたま」なんていういい加減な言葉で自分の気持ちを括ってしまったことに、自分に対して反感を覚える。
でもーーふっと、頭が痛くなる。いや、痛いのは心の方だ。でも、なんでトモなんだろう。受け入れられるはずがないのに。
それは、悲しいほどの確信だった。
血はつながってなくても家族だし、それ以前に男同士だし。あの女好きに……じゃなくて! 僕は、その言葉を打ち消すように首を振った。本当に自分を好きになってくれる人を、本当に好きになれる人を探してるって、そう言ったあいつの目はマジだった。僕は、トモがそういう人にめぐり合う過程を、これからじっと見てなきゃならないんだ。
耐えられるだろうか。この、ハードな片思いを。
僕はしばらく、やり場のない思いを持て余していた。玲子母さんが「食事は?」って呼びに来たけど、頭が痛いからって嘘をついた。今は、母さんの顔さえどうやって見ればいいのかわからなかった、この時、僕は本当に一人になりたかったのに……。
「おーい、カオル?」
トモがノックもしないでドアを開けて顔をのぞかせた。不意打ちを食らった僕は、反射的にブランケットを引っかぶった。
「具合、悪いのか?」
トモはそう言って、ベッドの空いた所に座った。そりゃもう……心臓の音が聞こえるんじゃないかってくらい緊張した。そして、今日に限ってトモの口調は優しいのだった。
「ちょっと、頭痛いだけ」
やっとのことでそう言うと
「ん?」
トモはブランケットからはみ出た僕の前髪を掻きあげ、額に手を当てた。トモの手の感触に、顔が紅潮するのを止められない。パニックを起こしそうだった。
「お前さあ、初デートだからって知恵熱出すなよな」
トモは僕の顔の熱さを勝手にそう解釈して、ぶつぶつ言っている。知恵熱なんかじゃねーよ……誰のせいだと思ってんだよ。心の中でそう反論するが、もちろん、口に出しては言えるはずもなく。
「季節の変わり目は気をつけろよ」
僕が体調を崩すと、トモは本当に優しくなる。そして、その事実は、今この瞬間、トモへの気持ちを自覚してパニックを起こしかけている僕をさえ、簡単に幸せにするのだった。
「で、ハルナちゃんのこと、ふったんだって?」
トモは唐突に切り出した。
「知ってたんだ」
そうか、そっちが本題だよな……僕は思い切り歯切れ悪く答えた。
「ヨーコがLINEしたら、"ふられちゃった"って返ってきた」
「ふーん……」
トモはどこまで知ってるんだろう、ちょっと心配になる。僕に好きな人がいるって、帰り際にキスしたって、どこまで……でも、坂崎さんはそんなことを考えなしに喋るようなコじゃないだろう。
「いいコだったじゃん?」
「そりゃそうだけど……」
片思いのリアルな現実がいきなり僕を襲ってきた。好きなヤツに、他の子をすすめられる、ベタベタな状況だ。
「ま、カオルには例の主義主張があるからな。自分がいいなって思ったコじゃないとつき合えない……だっけ?」
「うん」
仕方なく、素直に答える。
「だから、つき合ってみなきゃわからないって言ってんのに」
トモは、人差し指と親指で輪っかを作ると、僕の額をパチンと弾いた。
「……てっ」
何すんだよ、って、言おうとしたら、トモは真面目な顔をして僕の言葉を遮った。
「でも、何も俺やヨーコに義理立てする必要はないからな。お前がつき合わないって言うんなら、そのへんは気にすんな」
「え?」
「カオル、けっこうそういうの気にするタイプだろ?」
「スミマセン……」
実は、今回そこまで気が回ってなかった。確かに、そういうしがらみには弱いタイプなんだけど、今回は自分のことでいっぱいいっぱいだったのだ。
「まあ、カオルはそうやって主義主張を貫け。俺もそうするから」
トモが皮肉っぽく笑ったので、僕も皮肉で応酬する。自分の放つ、その言葉に傷つきながら。
「本当に好きになれる人、好きになってくれる人を探す?」
「そう。だから、俺はじゃんじゃん女の子と付き合う」
そう言って笑うトモの顔はどこか意味ありげで、言葉は棘となって僕の心を刺したけど、ほんの少しだけ癒されたような気もした。
「じゃあさ、あの、高木さんだっけ? あの子とはけっこう続いてるけど、なんで?」
ずっと聞いてみたかったことだった。
「ああ、あいつは俺のこといろいろ聞かないからラクなんだ」
トモの答えは簡潔だった。
「聞きたがるんだよ、みんな。俺の前のこととか……この家に来る前はどこに住んでたんだとか、誰とつき合ってたとか、過ぎたことをさ、いろいろと」
本当に嫌そうに、トモの口調は一転してイライラしたものに変わった。
「そりゃあ……好きな人のことはできるだけ知りたいと思うもんだろ?」
「どうして? 今の俺を知ってりゃそれでいいじゃん?」
トモの声には真剣味があった。僕はブランケットにくるまったまま、トモは僕を見下ろす感じで話を続けていたが、そのトモの表情には真剣な何かがあった。
「誰だって、聞かれたくない過去の一つくらいあるもんだろ?」
そう言って、今度は口調が儚げになる。あまり見たことのない、辛そうな顔だった。ここへ来る前、何かよほどのことがあったんだろうか。そう思ったけれど、僕は不安定に変わるトモの表情に翻弄され、何も言うことができない。そして、聞いてはいけないんだと理解した。
トモは続けた。今度は穏やかな顔だった。
「普通、俺がここまで言ったら、その先を聞きたがるだろ? でも、カオルは聞かない。俺が言いたくなるまで、そっとしといてくれる。だから」
トモはさっきから一転して、人なつっこい笑顔で言った。
「俺はお前が好き」
ちょ……
ちょっと……
ちょっと待った……
僕の心臓が跳ね上がる。ドキドキの速度は増して行き、赤くなる顔を、もう止めることができない。
わかってる。これは「一人の人間として好き」だという意味だ。でも、今の僕にそれは甘すぎる、刺激的すぎる禁句だった。案の定、トモは僕の赤面に少し驚いたようで、
「そんな固まるなよな。別に愛の告白じゃないんだから」
残酷にも、さらりとそう言った。事態のあまりのリアルさに、僕はもう開き直るしかない。
「光栄です……岸本トモユキくんに好かれて」
「よし」
トモは僕の髪をくしゃっと掻き回すと、立ち上がった。
「ま、そういうことだ。ゆっくり休めよ」
そうして、トモは来た時と同じように、唐突に部屋を出て行った。
なにが「よし」だよ……僕は、まだ、トモの手の感触の残る頭皮をそっと触った。困る。本当に困る。さっきのように熱を測ったり、額を指で弾いたり、あいつにすれば今までと変わらない日常のスキンシップは、今の僕にとっては爆弾を抱えさせられたようなものなのに。
そして、さっきの「好き」も。
多分、トモの中では、好きな人間と嫌いな人間と、その中間のどうでもいい人間と、そのカテゴリー分けが恐ろしくはっきりとしているのだろう。そして、「好き」と「嫌い」の幅は小さくて、その中間の曖昧な人間が大半を占めているんじゃないかと思う。そして、「嫌い」は、その中間よりはマシだ。だって、中間層に対して、トモはおそらく興味がない。「嫌い」と言い切れるほどの人間には、そう思わせるだけの何かがあるはずだから。だから、興味のない人間に囲まれているトモは「目が笑ってない」んだろう。坂崎さんは本当に鋭いと思う。
僕は、トモの「好き」カテゴリーに入る。
けど、それは僕の求める「好き」じゃない。
自分の気持ちを、キスで表現した坂崎さんを思う。彼女の気持ちがわかったから僕は受け入れた。どうして彼女がああしたかったのか。僕も同じだからーー。
僕もきっと、自分の気持ちをトモにぶつけたくなる。きっと、トモにキスしたくなる。届かないと思えばなおさら……それどころか、もっと触れたくなったら? クラスのやつらが毎日のように悩んだり自慢したりしてるように、それ以上触れたくなったら?
「それ以上」なんて、今の僕には考えも予想もつかないけれど、でも、僕のそんな気持ちを知ったら、トモは「好き」カテゴリーから僕をふるい落とすかもしれない。あいつはそういうところに、きっと容赦がない。それが怖かった。
隠そう。隠し通すしかないんだ。トモのそばにいるにはそれしかないんだ。
リアルな、リアルな片思いの現実の前に、僕は覚悟を決めた。
日常の中では、まるで切り取ったかのような、その「場面」に出くわしてしまうことが時にある。淡々とした時間の流れ、いつもと変わらない毎日に、いきなりその「場面」は割り込んでくる。心の準備なんてできないように、運命ってやつは回っているに違いない。
その日は、昼過ぎから雨が降っていた。
もう、梅雨かなあ……晴れない気分で、僕は家に向かっていた。トモとできるだけ顔を合わさないで済むように、本屋で時間をつぶして、駅前のファストフードで、別に飲みたくもなかったアイスオーレも飲んできた。学校では坂崎さんをちらっと見かけたけれど、彼女の方が僕に会わないよう気をつけているような感じがした。正直、僕はそのことにホッとしていて、一方でそんなふうに逃げてばかりいる自分に嫌気が差してもいた。僕は最近、自己嫌悪ばっかりだ。でも、どうしたらいいのかわからない。自分のことなのになあ。
悶々としながら歩いていると、マンションのエントランスで向き合っている人影が見えた。女の子の方は傘を差し、男の方は雨に濡れたまま、身をかがめて何やら話している……トモと高木さんだ。
僕はとっさに傘を深く下ろした。立ち聞きするつもりはないけれど、何やらもめているらしい二人の前を横切って行くこともできない。なんで僕が隠れなきゃいけないんだと思ったけれど、植え込みの影で立ち止まるしかなかった。
エントランスホールに入ればいいのに……。二人が早く立ち去ってくれることを願いつつ、僕は自分の不運を思う。離れているので声は聞き取れないが、高木さんは泣いてるみたいで、トモはなだめてるのか、怒ってるのか、長い前髪に隠れて表情が見えない。
え?
しばらくそんな様子が続いたあと、トモは高木さんの顎に指を添えると、さらに身をかがめて彼女にキスをした。彼女が持っていた傘がするりと落ちて、雨が二人を包むように濡らしている。
僕の心臓は怖いくらいに鳴っていた。嫌だ、嫌だと言うみたいに鳴っていた。見たくない。なのに、目が離せない。
それほど長い時間じゃなかったはずだ。でも、凍りついた僕には、それがすごく長い時間に思えた。唇を離したトモは、なだめるように彼女の肩を何度かたたき、傘を拾ってさしかけている。そして彼女は頷いて目の辺りを拭い、トモに小さく手を振って、植え込みの影にいる僕に気付きもしないで去って行く。僕はその様子を、まるで面白くないドラマでも見ているように、淡々と見送った。
「カオル」
トモの声がして、僕は現実に引き戻された。悪い夢でも見ていたかのように、手にはじっとりと嫌な汗をかいていた。
「カオル、出て来いよ。足止めして悪かったな」
トモは悪びれず、僕に向かって声をかけた。僕がいるのに気付いててこいつは……無性に腹が立ってきて、濡れたままのトモに傘も差しかけず、僕はトモに正面切って言い放った。
「お前……何してんだよ。こんなとこで」
「ケンカ」
「その後だよ。こんな……誰が見てるかわからないだろ! いい加減にしろよ」
僕の言葉はすでに一般論ではなく、自分自身が傷ついたことへの明らかな八つ当たりで、トモはそんな僕をうっとうしそうに見返した。
「お前だって人のこと言えないだろ。この前、駅の南口で坂崎とキスしてたんじゃないの?」
不意打ちだった。
「俺のクラスのヤツで、見たのがいるんだよ」
「あれは……」
「あれは何?」
一気に形成逆転だった。僕は何故か、詰問される立場になってしまっている。「だからってつき合うわけじゃないんだろ。そんなことは俺はどうでもいいけど、自分ばっかりいい子ぶるなよ」
トモはそれだけ言うと、僕を置いてエントランスホールに入っていく。僕は無言で後に続き、やがて狭いエレベーターの中で二人きりになった。
怒ってる……。
僕は、まるで飼い主に見捨てられかけている犬みたいだった。あんな場面を見せられて傷ついたのに、揚げ足をとられてバツが悪くて、トモの顔色をうかがっている。
情けないけど、しょうがないじゃんか……好きなんだから。僕は小さくため息をついた。
玲子母さんはまだ、帰っていなかった。今日はパートだったか、カルチャーセンターだったか、どっちか忘れたけど、この状況でトモと二人きりになるのは辛い。「あーあ、ずぶ濡れだよ、まったく……」
ぶつぶつ言いながら、トモはリビングで濡れた制服のシャツを脱ぎ捨てた。
「着替えるんならあっちでしろよ!」
僕はカッとして思わず叫んでしまったが、トモにとっては、さっきまでの言い争いの続きに過ぎず、無視して上半身裸のまま、冷蔵庫からミネラルウォーターを出している。
「洗面所で着替えろってば!」
目のやり場に困って、僕はますます激高する。何も知らないから仕方ないことだけれど、トモの無防備さに腹が立つ。バカにされているような気さえする。
「うざ……」
トモはうんざりしたようにそれだけ言うと、僕の前を横切って洗面所へと消えていった。
僕は自分の部屋へ逃げ込んだ。
顔が熱い。
胸の鼓動が早い。
喉の奥がひりひりする。
変だ。俺、変だ。
見慣れていたはずだ。あいつの身体なんて……僕はベッドに突っ伏して、こみ上げてくるものを耐えた。
濡れたシャツ、首筋に貼り付いていた髪の毛、無防備にさらされた上半身……目をぎゅっと閉じれば閉じるほど、その映像は生々しくよみがえって僕を攻め立てた。
耐えられない。
耐えられないーー。」
我に返ると、手のひらに生温かい、べっとりしたものがまとわりついていた。「トモ……」
自分のした行為とトモをすぐには結び付けられなくて、それ自体を認めたくなくて、そんな自分を受け入れがたくて。僕は、長い、長いため息をついた。
これが本当の現実なんだ。手のひらのモノは、生々しく僕に現実をつきつける。
トモに欲情する自分がいる。
それが最初だった。
実の母親が亡くなった時、僕はまだ小学一年生だった。人の死というものが実感として捉えられず、ただ大好きな人にもう二度と会えないのだという現実だけが、小さかった僕を打ちのめした。
寂しかった僕は、時々、母に当てて手紙を書いた。
「てんごくのおかあさんへ」
今日こんなことがあったよとか、背が伸びたよとか、スイミングで級が上がったよとか、そういうとりとめもないことを、ただ知ってほしくて伝えたくて。けれど成長するにつれて、いつからか手紙を書くことはなくなった。でも、今また母に宛てた手紙を書いてみたいと思う……いや、実際に書きはしないのだけれど、ただ知ってほしくて、伝えたくて。他には誰にも言えないから。
天国のお母さんへ。好きな子ができました。
でも、それは僕と同じ男です。
「僕は毎日、悶々としています……なんちゃってね」
ベッドに寝転んで、独り言をつぶやきながら、僕はティッシュに手を伸ばした。指にまとわりつくそれを拭っていると、空しさがこみ上げてくる。
好きなヤツが同じ家に住んでいる。
この「好き」という現実に関する様々な感情や行動を見て見ぬふりをするには、僕とトモの物理的な距離は近すぎた。もっと大人なら、自分をごまかすのも演技するのも上手くできるんだろうけど。トモが女の子だったらよかったのに、とは全然思わないけれど、女の子だったら義理のきょうだいであろうと、とっくに告白してる。とにかく当たって砕けて、その後のことはその時に考える。
でも、男同士であるトモにそんなことをする勇気は持てなかった。なのに、思いばかりが募る。手を伸ばせば触れられる位置にありながら、触れることができずに昇華されない思いは自分の中へ降り積もり、出口を求めて僕を悩ませる。結果、妄想ばかりが膨らんで、夢の中のトモはありえない言葉や仕草で僕を煽る。本当に煽るのだ。そんな経験のない僕なのに、こういうことはしっかりと想像できてしまう。僕は、自分の気持ちと身体を持て余していた。覚悟していたはずの「ハードな片思い」は思ったよりも手強かった。
僕と坂崎ハルナのことは、やっぱり噂になった。でも、その噂も夏休みをはさんで二学期になれば、すっかり過去のことになり、そしてトモと付き合っていた高木ヨーコもまた、トモが切ったのか彼女から離れたのかわからないけれど、顔を見なくなっていた。
トモはそれからまた不特定の子と付き合ったり離れたりして相変わらずだったが、僕はそんなトモを見ているのも嫌で、とにかくもう、いろんなことが辛くって、できるだけトモから離れようとするようになっていた。学校では違うクラスだから、むしろ学校にいる方がトモに会わなくて済む。だから僕は、家へできるだけ早く帰らないようにするために、今までとはちょっと違うタイプの奴らとつるんで遊ぶようになった。玲子母さんは心配し、学校の先生に呼び出されたりもした。
そしてトモもまた。
「お前さあ、何かこの頃変じゃない?」
トモは怒ったような、探るような口調で僕を問い詰めた。
「何が?」
僕の気のない返事が、また少しトモを怒らせる。だって、当の本人にこんなこと聞かれて、どんな風に返事を返せばいい? 僕は無関心と無表情を装うしか方法を知らなかった。
「母さんが心配してる」
ーーじゃあ、お前は? トモは何か心配してくれてるのか?
「いい子ぶるなって、いつも言ってたのはトモだろ」
僕はトモの目を見ずに、うっとうしさを装って言った。
「別に夜遊びしたけりゃすればいいさ。でも、お前は今まで真面目だったから、何かあったんじゃないかって母さんが……」
母さんを引き合いに出すトモに、僕はものすごく苛立っていた。ただ一言、カオルが心配なんだって言ってくれたら、矛盾してるかもしれないけど素直になれたかもしれなかったのに。だから僕は、自分でも信じられないくらいひどい言葉をトモに投げつけてしまったのだ。
「マザコン」
しまった、と思った時には遅かった。僕はトモに殴られて、床にへたり込んでいた。
「何にも知らないくせに……」
トモの声は震えていた。
「母さんのこと、俺のこと、何も知らないくせに……」
トモの目が、最近あまり見ることのなかった暗く冷たい影を落としている。
僕は何も言えなかった。明らかな失言を謝るべきだったと思う。ただ、自分がトモをものすごく傷つけてしまったことに、自分自身ひどくショックを受けていた。
「もういい」
トモは床に無様に転がったままの僕を見下ろした。
「坂崎ハルナがお前のこと心配してたから、番号教えた」
ま気持ちの篭っていない台詞を棒読みするように言い捨てて、トモは部屋を出て行った。
僕はトモに殴られた体勢のままで立ち上がれずにいた。
(何も知らないくせに……)
トモの言葉が頭の中でこだまする。
そうだな、僕はあまりトモのことを知らないのかもしれない。でも、家族になるときに両親が何も言わなかったのだから、それは僕が知る必要のないことなんだと思っていた。いつか、必要ならば話してくれればいいと。そして、トモはそんな僕だから好きなんだと言ってくれたのに……。
「痛……」
殴られた頬を触る。熱をもって熱くなっている。それはそのまま、トモが僕にぶつけた感情の熱さだ。
知りたいよ。トモのこと、もっと知りたい。
でも、トモがいつか話してくれるその日を失ってしまったのかもしれないと僕は思った。信頼という名の絆。それは確かに僕たちの間にあったものなのに、お前を好きになって、僕はその絆さえ見失ってしまった。
「もう、これ以上はゴメンだ」
情けない僕の声が宙に浮く。所在を失って、頼りなく宙を漂う。
これ以上、失うのはーー。
数日後、坂崎ハルナから電話があった。
出ずに済まそうかと思ったけれど、彼女に対しては向き合わないといけないと思い、電話に出た。
「げんき?」
控えめな彼女の声が電波の向こうから聞こえてくる。
「……ん」
とても元気とは言えない声で僕は答えた。
「あの、ごめんね、トモユキくんに番号聞いたりして」
「いや、いいよ」
噂になってゴメンね、と言おうと思ってやめた。過去のことに今さら触れる必要はないだろうし、彼女だって、そんなこと喋りたくてかけてきたわけではないのだから。
「あの……この頃ちょっとどうしちゃったのかなって心配になって」
彼女が懸命に言葉を選んでいるのがわかる。
「どうもしないよ」
我ながら、いい加減な返事。
「……好きな人と、うまくいってないの?」
それでも優しい、彼女の口調。
「つきあってるわけじゃないから」
会話が途切れた。
「でも」
少しの間のあと、彼女は言った。
「でも、自分を大事にして。前にも言ったよね。あたし、カオルくんが心配で……」
泣いてるのかもしれない。なんで? なんで僕のために泣くんだよ。
「もう、いいよ」
また、このコを泣かせた。そう思ったら、自分でも驚くほど感情が湧き出してきた。
「もう、やめてくれよ! ほっといてくれよ! 僕はあんたの気持ちを受け入れなかったのに、なんで僕の心配なんかすんだよ。重いんだよ」
ひどいことを言っているとわかっていた。でも、止められなかった。
彼女が無言のまま通話を切って、僕はスマホを握り締めたままの自分に言った。「サイテー……」
やり場のない気持ちにがんじがらめになって、他者を傷つける自分。
ごめん。ごめん坂崎さん。
そして、季節は秋から冬へ変わろうとしていた。急に冷え込んだ夜に、僕は一度喘息の発作を起こしたけれど、トモは来なかった。来てくれなかった。
「カオルくん」
朝、出かけようとしたら玲子母さんが遠慮がちに僕を呼び止めた。なんとなく、母さんとも気まずいままだ。トモと僕がおかしいから、母さんはよけいに気をもんでいるんだろう。
「あのね、今晩、お父さんが大事な話があるからって……智行にも言ったんだけど、あの」
母さんはいったん、言葉を飲み込む。
「あの、早く帰ってね」
「何? 家族会議でもすんの?」
「そうね、そんなところ。お父さん忙しくて今日しか時間とれないんだって。でも、大事なことだから直接二人に伝えたいからって」
「うん。わかった。早く帰るよ」
僕は素直にそう言って、家を出た。
トモはもう、先に出たみたいだった。トモの方も明らかに僕を避けている。
「家族会議ね……俺のことだったりして」
その夜の夕食は、僕の好きなものばかりがテーブルに所狭しとひしめき合っていて、玲子母さんがこの夕食をどんな気持ちで用意したんだろうと思うと、胸が痛くなった。
そして、久しぶりに家族四人揃っての夕食をとったあと、父さんが「大事な話」を始めた。
「海外赴任?」
僕は聞き返した。トモは何も言わずに聞いていた。
「そうなんだ。アメリカのシアトル。年明けには行かなきゃいけない」
父さんは煙草に火をつけた。
「たぶん数年は戻れない。で、どうしたものかと思ってね。単身赴任も考えたけど、あちらは夫婦同伴でないといけないことも多いらしい」
「じゃあ、母さんは一緒に行くんだ」
トモが言った。
「そうしたいと思ってる。で、お前たちだが、今の学校や受験のこともあるし……どうしたい? お前たちも高校生だから自分で決めてはどうかと思ってな」
「俺は残るよ」
トモは即答した。
「だって、俺、英語ニガテだもん。それに今から知らない土地で暮らすってのも面倒だし。ま、夏休みなんかに遊びに行くってのはいいけど」
僕は黙って、父さんとトモのやり取りを聞いていた。父さんは僕たちの考えを聞いている。一緒に行ってもいいし、行かなくてもいいと。そしてトモはこちらに残ると言った。じゃあ、僕は?
離れる? 離れられる?
トモと距離を置ける。離れたら、楽になれる?
僕は疲れていた。楽になりたいと思っていた。それが逃げだとわかってはいてもーー。
「薫は?」
父さんが問う。
「別に今、答えなきゃいけないわけじゃないが」
「行くよ」
僕は父さんが言い終わらないうちに答えた。
「一緒にシアトルに行く」
トモの顔が少し歪んで見えたのは、気のせいだったのかーー。