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トライアングル22

第十一章 十日間 2 <side カオル>

「俺から、あんたに言っときたいことが四つある」
 トモは桜子に言った。桜子は、まだトモを正視することができない。急にふりかかった現実に慣れないのは仕方ないことだと思うけれど、目を合わさないようにトモから視線を外す桜子の怯えたような表情は、よけいにトモのイライラを募らせるようだった。
「まず第一に、カオルに手を出すな」
「ちょ、トモ……」
 僕は慌ててトモに目配せをした。だが、トモは構わずに言った。
「こいつには好きなやつがいるから」
 桜子の張り詰めた表情がふっと緩む。そんな彼女を見て、僕はどうしたらいいかわからなくなった。
「第二に、俺たちに干渉するな。構うな」
 桜子は黙って頷いた。
「次に、マンションから出るな。俺たち二人で住んでるはずが、女の子が入り浸ってるなんて近所に知られたら、うざいから」
 桜子は、また素直に頷く。
「最後に、家出だかなんだか知らないけど、家の者に、ここに居ることを知られないように」
桜子は顔を上げた。
「朝比奈の人間に、これ以上関わりたくないんだよ」
 桜子はしばらくトモを見つめーー彼女がトモを正面から見たのは、これが初めてだったがーーやがて「はい」と答えた。
 一連のやり取りを聞いていて、トモのピリピリした予防線と、桜子の、トモにどう接していいのかわからない、それでいて時折トモをうかがい見るせつない表情に僕はどっと疲れを感じた。そして、今のトモと僕の関係に、桜子は感づくだろうか?

 桜子は、ほとんど部屋に篭ったままだった。本当は家事とか手伝ってもらった方がいいんだろうけど、僕たちの生活に彼女が介入するのをトモは嫌がった。だから桜子が部屋から出てくるのは、自分の洗濯と、フロと、食器の上げ下げだけ。それでも僕は彼女の様子を気にかけ、トモの居ない所で彼女と話をした。同じように叶わないはずの思いを抱きながら、僕はこうなってしまった、そんな後ろめたさがあったことは否定できない。
 桜子の話によると、彼女は一度だけ、思い切ってトモに話しかけたそうだ。

「あの、玲子さんは元気?」
「おかげさまで、今のダンナとラブラブでアメリカ」
「そう、よかった」
「あんたに気にしてもらう筋合いはない」

 トモはそれだけ言って、その場を立ち去ってしまったらしい。けれど桜子にとっては、とても大きな出来事だったようだ。
「なんだか不思議。智行のこんなに近くにいるなんて」
 桜子は嬉しそうに笑った。
「もっと柔らかい態度がとれるといいんだけど」
 すまなそうに僕が言うと、
「そんなの無理だよ。あたしがここに居ることを受け入れてくれただけで十分」
「でもトモは、君のこと個人的に恨んでるわけじゃないって……ただ、後ろにあるものが大きすぎて素直になれないだけだと思うんだ」
「後ろにあるもの……ね」
 桜子は、僕の言葉を繰り返した。
「本当に後ろにあるものを知ったら、あたしは今すぐ追い出されるね」
 笑わなくていいのに桜子は笑ってみせた。痛々しい笑顔だった。
 一方、トモは桜子を適度に無視し続けた。というより、接し方がわからなかったのかもしれない。ということは裏を返せば、トモなりに彼女をすごく意識しているということになる。そして、桜子が同居するようになって、トモは僕に対して大胆にコトを仕掛けてくるようになった。基本的に桜子は部屋から出てこないが、いつ見られたり声を聞かれたりしてもおかしくないような場所で、トモは僕に甘え、僕を誘う。
「ダメだって……」
 リビングのソファの上で押し倒されて、僕は激しいキスを受ける。唇が離れるわずかな合間に異を唱えるけど、トモは聞く耳を持たない。
「もし、見られたら……」
「見られたって別にいいよ」
 そう言って、トモは僕の耳たぶを噛む。わざと僕の弱いところを執拗に攻める。まるで僕を試すように、抗いがたい愛撫を繰り返す。
「ちょ……ダメだってば」
 シャツの中に差し込まれた手を、僕はシャツの上から掴んだ。
「トモ!」
「なんでだよ」
 トモの目は悲しそうに潤んでいた。
「なんで拒むの? カオルはもう、俺が欲しくない?」
「違うって。もし見られたら……」
「なんで見られたらダメなんだよ。別に知られたっていいじゃん? どうせなら、俺たちはこういう関係なんだって言っちまえばいい。そしたら桜子だって」
 桜子だって? それは僕に? お前に? 
 隠し事をしている気まずさも手伝って、僕のストレスは一気に噴き出してしまう。
「こういう関係ってなんだよ? 桜子になんて言うつもり? 僕は確かにお前のことが好きだけどお前は違うだろ? それってやっぱりセフレだろ」
 言い終わるか言い終わらないかのうちに、トモの平手がとんだ。
「そんなんじゃないって言った!」
 トモは泣きそうな顔をしていた。
「じゃあ何?」
 熱くなるトモとは対照に、僕は冷めていく。売り言葉に買い言葉ではあったけれど、僕はここ数日、心の中でくすぶっていた思いをトモにぶつけてしまった。
「僕はトモの何?」
 一緒に居てくれるならと、トモは僕を受け入れてくれた。やがてトモも僕を求めてくれるようになった。それは二人で積み上げてきた気持ちの結果だと思っていたけれど……でも最近のトモを見ていると、そこに「好きだ」という気持ちがないかぎり、ただトモは、覚えたばかりの快感に酔ってるだけなんじゃないかと思えた。性欲の処理の一つとして、今まで知らなかった「抱かれる」という遊びに夢中になっているだけじゃないのかと。
「トモの何?」
 繰り返す問いにトモは答えない。答えないくせに、寂しそうな目をして僕に縋りつく。
「ごめん。ごめんカオル。行かないで。行ったら嫌だ……」
 それは迷路だった。何も生み出さず、先の見えない迷路。何もかも忘れてしまうようなぬくもりと快感だけがそこにあって、僕たちは抱き合うことをやめられずにいる。


 その日、トモは、夏原と待ち合わせだと言って出かけて行った。どうやら夏原は今、坂崎からトモのことをいろいろ相談されているらしい。つくづく、夏原は人の世話を焼く星の下に生まれたんだと思う。僕たちだって、あいつが居てくれて本当にありがたいと思っている。
 僕は父さんからの電話を待っていた。先にLINEが来て、トモの居ない時間に話したいことがあると言う。それだけで、あまりいい話じゃない予感がする。しかも、もうすぐトモと一緒にあちらへ行くというのに。僕たちが来るまでに話しておきたいことなんだ、と父さんはLINEで伝えていた。
 今、午後の三時だから、向こうは夜の十一時くらいか……そう考えていたらスマホが鳴った。
 スマホの向こうから父さんの声がする。遠い海の向こうから聞こえてくるなんて、なんだか不思議だ。
「元気か?」
「二人とも元気だよ。電話代が大変なことになるから、すぐに本題に入って」
 僕が言うと、父さんはスマホの向こうで苦笑いした。
「実はな、母さんが妊娠して」
 なんだ、すっごくいいニュースじゃん! 嫌な予感がはずれてホッとする。
「そうなんだ。おめでとう。いつ? いつ生まれるの?」
「予定日は三月の終わりだけど……」
 嬉しいニュースのはずなのに、父さんは口を濁している。
「でも、母さんは産むことを迷っている」
「なんで!」
 僕は思わず大きな声を出した。
「……智行だよ」
 父さんは歯切れ悪く言った。
「母さんは、智行のことを気にしている」
 ああそうか、だからトモの居ない時間に父さんは電話してきたんだ。でも、でもなんで?
「それを説明するには、智行がうちへ来るまでの話をしなきゃならないんだが」
「知ってるよ」
「?」
「知ってるんだ。たぶん全部。トモから聞いた」
「そうか」
 父さんは口を噤んだ。僕になんて話そうかと悩んでいたんだろう。それはある意味、安堵の沈黙だったと思う。
「もし妹が生まれたら、って母さんは心配しているんだ。妹という存在を智行が受け入れられるのか」
「……」
「やっと傷が癒えてきて、それなのに嫌なことを思い出させるんじゃないかって」 
 傷なんて癒えてないよ。トモは今でも満身創痍だ。僕は、アルバムを見て取り乱したトモを思い出した。
「それに、子どもが生まれたら、家族で血が繋がっていないのは智行だけになる。却って智行を孤独にしてしまうんじゃないかと、それも心配なんだよ」
「それは違うよ!」
 僕はスマホに向かって叫んだ。
「トモは父さんと玲子母さんを本当の親だと思ってる。父さんたちだってそうだろ? 違うの?」
「もちろん本当の息子だ。当たり前だろう」
 父さんの声は怒っていた。
「だがな、だからこそ心配なんだよ」
 怒っていた声が、今度は少し震えている。
「僕がトモに話すよ。大丈夫だから、産まないなんてバカなこと言わないでって玲子母さんに……」
 ありがとう、と父さんは言った。お前に任せるよ。智行を支えてやってくれ。

 
 大丈夫……父さんにはそう言ったけれど、実は自信がなかった。トモを、今改めて過去の傷に触れさせるのは……。
「カオルくん?」
 呼ばれて我に返った。振り向くと、桜子が乾いた洗濯物を持って立っていた。「どうしたの? 顔色がよくないよ」
 トモの妹はそう言って、心配そうに僕を見上げた。桜子と話がしたい、ふとそう思った。
「お茶しようか?」
 桜子が作ってくれたフレンチトーストは、すごく美味しかった。そういえば、前に作ってくれたサンドイッチも美味しかったっけ。
「料理、上手いよね」
 教えてもらったレシピを書き留めて、僕は言った。
「ううん。カオルくんや智行だってすごいよ。玲子さんに教えてもらったの?」
 桜子が母さんの名前を出したのは、本当に偶然だった。だが僕は、さっきの父さんとの話に引き戻されてしまう。
「玲子母さんがさ……」
「ん?」
「妊娠したんだって。でも、もし妹だったらトモはどうするだろうって二人とも……」
 僕は何を言ってるんだろう。トモにまだ話していないことを、どうして桜子に。「ごめんなさい」
 桜子はきっぱりと言った。
「あたしはそれについて何も言えない」
 そうだよな。背負うのが辛いからって、僕は何を甘えて……。
「カオルくんが支えてあげるしかないよ」
 桜子はそう言って席を立った。

トライアングル23に続く


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