見出し画像

【短編】夏と蜂蜜

カナダ、アルバータ州の郊外。

真新しく舗装された歩道の縁をよろけながら歩いていると、彼女が家の前の芝生に寝転んでいるのが目に入った。傍らには、息も詰まるような濃緑をたっぷりと蓄えた木が立っていて、彼女のからだはその震える影にすっぽりと覆われている。細い髪の束がいくつか、どこからともなくやってくる夏の風に吹かれて、そのなめらかな肌の上を泳いでいた。彼女は眠っているんだ、とぼくは頭の中で呟いたが、すぐにその可能性を否定した。物事はいつも思い通りにはいかない。自分がそう望めば望むほど、現実は何らかの方程式に従うようにぼくの期待から遠ざかっていく。ぼくはそれを知っている、算数の先生はそれを教えてはくれなかったけれど。

ぼくはくたびれたビーチサンダルの裏をざりざりと擦りながら、彼女のほうへ近づいていった。手のひらには埃まじりの汗がじっとりと滲んでいる。まるで月と太陽が持ち場を交代したかのような酷い暑さだった。ぼくは彼女の足元に立った。

「やあ」

ぼくが呼びかけると彼女は目を開けた。そして軽く頭を持ち上げ、寝ぼけているのか覚醒しているのか、あるいは受けいれているのか拒絶しているのか判然としない視線をこちらに寄こした。言葉に詰まってしまったぼくはその場しのぎに、くそ暑いね、と続けたが、それが彼女に聞こえたのかどうかは怪しかった。何も言わないほうがまだマシだった、と思った。これじゃまるで、頭がすっからかんのそこらのガキと同じじゃないか。ぼくはシャツの裾で手のひらを擦ったが、不愉快な汗はちっともとれなかった。

「ここで何しているの?」と、彼女が言った。

「別に」とぼくは返した。「そっちは?」

「昨日のことについて考えてた」

「何があったの?」

彼女は間を置いた。突然耳元で蜂の羽音がして、ぼくは跳ねるようにからだを仰け反らせたが、彼女はそれには気がついていないようだった。

「知らなくていいことよ。知らなくたって困らないもの、絶対」

そう言うと、彼女はゆっくりと息をついた。それを知りたいのに、とぼくは思った。知らなくていいことを、君の口から聞きたいのに。ぼくは何度となく反芻したその台詞を伝えようと思ったが、やはり口にすることはできなかった。暑さがさらに勢いを増しているようだった。時間の流れはあたたかい蜂蜜のように重たく、世界が丸ごとその金色の液体に浸っているみたいだった。

「こっちに来たら?そこ暑いでしょう」

口元にかすかな微笑みを浮かべてそう言うと、彼女は半身を起こして木のほうにからだを寄せた。ぼくは利口な犬みたいにそれに従い、彼女のとなりに腰を下ろした。芝生はひんやりとして、柔らかく、ほてったからだに心地よかった。彼女はぼくが座ったのを確かめると、しばらく鼻の脇をかりかりとかいてから言った、

「それで、こうするのよ」

彼女はぼくを見つめたまま、両腕をからだの脇にそろえて横になった。ぼくは例によって、従えばあとでおやつがもらえると分かっている犬みたいにそれに倣った。頭を横たえると、湿った土の匂いが鼻腔を広げ、みずみずしい空気が四肢に行き渡る。むきだしのふくらはぎや首筋に冷えた芝がふれて、ぼくは思わず身震いしたが、それはあくまでも優しく、ぼくの重みを肯定してくれているようだった。

頭を横に倒すと、彼女はもうぼくを見てはいなかった。葉に砕けた陽光が彼女の顔に落ちて、不規則で終わりのない模様を描き出している。ぼくは手の甲で彼女の手にそっとふれた。別段気にしているわけではないようだったが、少しすると彼女は手を離し、同じ様子でふれていたところをかりかりとかいた。葉擦れの音以外何も聞こえなかった。

「喉が渇いたな」

ふいにそう言うと、彼女は立ち上がって小走りに家の中へ入っていった。ぼくは肘をついたまま、見えなくなった彼女の背中をしばらく見つめていた。すると窓にかかったシェードが上がり、その向こうで彼女が中に入るようにと手招きしている。

靴を脱いで奥に進むと、扉のついた鉄のかたまりの前で、彼女が大きなグラスいっぱいに注いだ水を飲んでいた。波打つ彼女の首。グラスを持っていないほうの手は、一時停止させたみたいに不自然な形で宙空に静止している。彼女はグラスを口から離すと、微動だにしないぼくを怪訝な目で見返した。

「あなたも飲む?」

喉はからからに渇いていたが、気づくとぼくは首を振っていた。家の中は水を打ったように静まり返っていて、じっと耳を澄ますと、かろうじて空調と時計の音が聞こえた。それはすぐそばから聞こえてくるようにも思えたし、世界の果てから届く音のようにも思えた。どちらにしても、そこにいるのはぼくと彼女だけだった。ねえ、と彼女が言った。

「私たちって友だちよね?」

そのとき家のドアが開いた。彼女の母親だった。ごつごつしたビニール袋を両手に下げて、キッチンに向かうがてらぼくの姿をみとめると、ふっと顔をほころばせた。

「あら、いらっしゃい。ちょうどよかった、お菓子買ってきたから」

彼女の母親はだれに向かってでもなくひとりで喋りながら、ビニールの中のものをテーブルの上に広げはじめた。手伝うそぶりを見せた彼女につられて思わずテーブルに近寄ると、彼女の母親は、いいのよ、と笑ってぼくを制した。

「人様に手伝ってもらうことではないから。ゆっくりしてくれればいいの」

すると思い出したように顔をぱっとあげて、こちらに向き直った。ぼくのからだは強張った。

「それにしても、あなたはいつもそうやって男の子の格好をしているの?」

胸の奥で何かが激しく脈打った。いますぐ帰らなくちゃ、と自分でも意味のわからない理由をばら撒きながら、ぼくは急いで玄関のほうに向かう。彼女の母親はすっかりうろたえて、どうしたの、とか何とか言いながらもビニールに手を突っ込んだまま動けなくなっている。スニーカーに足を突っ込んで扉を開けると、後ろから彼女の呼ぶ声がした。振り返ると、開きかけたドアの隙間から射す午後の陽光が、彼女の顔を半分だけ照らしていた。彼女はおそらく眩しさに目を細めながら、黙ってぼくのことを見ていた。彼女の母親は依然動揺したまま喋りつづけているようだったが、その声は世界の果てで吹く風のように小さく、どこまでも遠かった。

「またね」と彼女は囁くように言って、それから小さく手をふった。ぼくはその場を動くことができなかった。そのときぼくにとってほんとうだったのは、背中に注がれる日の絶対的な温度だけだった。





感覚と、恋と、自然と、性について。

どうもありがとう、励みになります。