【短編】となりの神さま
それで、徳を積むにはどうしたらいいんですかってとなりの神さまに訊きに行ったら、玄関の靴をきちんと揃えたりすればいいんじゃないって言われた。
私は一瞬言葉に詰まった。京介もそれを見逃しはしなかったはずで、私が動揺したのをきっと認識しているに違いなかったが、それについてあからさまな反応を示すことはなかった。敢えて気づいていないふりをしているようにも見えた。
へえ、と私は言った。うちのとなりには神さまが住んでいるんだ。無駄だと分かっていながら、束の間流れてしまった沈黙を取り返そうとするように、私はコップに入った水を飲んだ。コップを伝って落ちた滴がテーブルに輪っかをつくっていて、頭上の蛍光管に当てられるとくっきりと浮かび上がって見えた。へえって、お母さん今まで知らなかったの? と彼が眉間にしわを寄せながら言った。もうだいぶ長いことここに住んでいるんじゃないの? あなたのお父さんと結婚したときだから、十何年か前だね。私がそう返すと、彼は斜め上に視線を彷徨わせた。何かを数えているようだった。
違う、それならちょうど二十年前だよ、と京介が少し声のトーンを上げて言った。お父さんと離婚したのが三年前で、お母さんたち十七年間結婚生活してたんでしょ、二十年前じゃん。十七年結婚生活してたなんて、私言ったことあったっけ。私が呟くと、この前お父さんが言ってた、と京介が言った。澄んだビー玉みたいな彼の目を見つめながら、ふたりで私たちのことを話していたんだ、と私はぼんやり考えた。あの人は、この子に何を伝えようとしたんだろう。
神さまは何十年も前にここに引っ越してきたんだって言ってたよ。二十年も住んでて、どうやったらとなりに住んでる人のことを何も知らずに過ごせるの? どれだけ嫌がったとしても、誰が住んでいるかくらい自然に耳に入ってくるものじゃないの。うーん、確かにそうなんだけどね、と私は苦笑した。私もあなたのお父さんも働くのに忙しかったから、となりに住んでいる人が誰なのか考えてみる時間があまりなかったのかも。京介は納得がいかない様子だった。そして首を傾げながら、味噌汁の器の底に貼りついたわかめを箸の先でいじくっていた。
ここ最近、京介が玄関の靴を綺麗に揃えるようになった。それまでは脱ぎっぱなしで、あっちを向いたりこっちを向いたりしていた彼のアディダスのスニーカーが、一週間ほど前私が仕事から帰るとまっすぐにこちらを向いていた。小走りに玄関まで出迎えにきた京介はどこかそわそわしていて、ただいま、と言うと、うん、おかえり、と焦ったそうに返した。いつもは買い物袋を持ってリビングに向かう私の後をついてくるのだが、その日は後ろから喋りかける声も足音も聞こえず、何かと思い振り返ると、小さく屈んで私の靴を彼のスニーカーの傍にぴったりと寄せているのだった。そして、彼はそれを習慣にすると決めたようだった。
ふたりしか住んでいない部屋なので、靴がばらばらに散らかっていようとぴしっと並べられていようと、私としてはどちらでもよかった。しかし今までには見られなかった光景が何の前ぶれも無く日常に介入してくるのは、何となく妙な感じがした。何にでも慣れてしまうのが人間であることを考えれば、それはまったく不思議なことではないのだが、私がすぐに飲み込めなかったのは、それが自分の息子によってもたらされているということだった。彼はどうして急にこんなことをやり始めたんだろう? 何か読んだのだろうか? 最近一緒に見たテレビで、玄関の靴を揃えろと言っているものがあっただろうか? いや、そんな退屈な番組あるわけないか。いくら考えてみても、答えらしきものには思い当たらなかった。
そして今朝、ぴったり揃えられた靴に足を通しながら、見送りにきた寝間着姿のままの京介に、いってきます、と言ったとき、あ、まだ直接訊いてないじゃん、と思った。今夜ごはんを食べているときに訊いてみよう。その思いつきは仕事中も頭の中をぐるぐると回り続け、普段はミスすることのないエクセルの打ち込みで初歩的なミスを連発した。夕方には係長に呼び出され、その点について嫌みたらしく怒られたが、彼は私が女性であることを頻繁に引き合いに出した。まるで、ミスをしたのは私が女性だからだとでも言いたそうな口ぶりだった。要するに、筋金入りのセクシストだった。傍のデスクに座っていた女性社員が、仕事に集中するふりをしながら彼の話に聞き耳を立てているのを見て、私の胸は重たくなった。係長が去った後、あの人の話なんか聞かなくていいんだよ、と声をかけようかと思ったが、結局私は何も言わずに自分のデスクに戻った。彼女の顔はデスクトップに隠れて見えなかった。
会社近くの建築現場は相も変わらず殺風景なままだったが、スーパーからの帰り道はいつもとどこか違うような感じがした。家に帰ると、京介は彼が定めた新しい習慣にのっとって、まず私を部屋の奥に見送り、玄関の靴を綺麗に揃えた。そしてこれまでと同じように、私が食材を冷蔵庫にしまうのを手伝った。彼の所作にこれといって変わったところは見受けられなかったが、この子は何を隠しているんだろう、と考えずにはいられなかった。それが彼を見る目に映っていたらしく、野菜を手渡しで受けとったとき、何? と訝しげな顔で尋ねられた。何でもない、と私はごまかしたが、彼は不思議そうな顔でしばらく私のことを見つめていた。
その夜は白菜と豚肉の蒸し鍋と、わかめや豆腐を入れた味噌汁をつくった。鍋を間に置いてふたりで食べながら、できるだけ自然な間合いをとった後、私はふと思い出したような調子で京介に質問した。そういえば京介、ここ最近玄関を綺麗にしてくれるようになったよね。不自然なようには聞こえなかったものの、彼の耳にどう響いたのかはすぐには図りかねた。靴のこと? と京介は頷いた。彼の顔に気まずそうな色が浮かばなかったのを確認して、私は続けた。
そうそう。ちょっと前までは放ったらかしだったのに、今は私の靴まで綺麗に揃えてくれているじゃない。うん、まあね、と京介はそっけなく返した。京介が説明するのを待ってみたが、彼にそのつもりはないように見えた。私は鍋の中身を彼と自分の器によそった。そして再び質問した。どうして急に揃えようって気になったの?
京介は咀嚼していたものを飲み込むと、ちょっと前に徳を積むことについての話をしたじゃん、と出し抜けに言った。すぐに明快な回答が得られるものだと期待していたらしい私は、予想していなかった台詞に一瞬硬直した。何も言わない私を、京介はやや困惑した表情で見返した。
いつそんな話したっけ? その話をしたことを私はその時点ですでに思い出していたが、口から出てきたのはとぼけた返事だった。身体の中心がぐっと熱くなるのを感じた。ついこの前夜ごはんを食べたあとに話したの、覚えていないの? と、京介が呆れたような表情をした。最近買ってもらった本に『あの人は前世で徳を積んだに違いない』って台詞があって、何のことかよく分からなかったから、お母さんに訊いたじゃん。ああ、今思い出した、と私は何度か頷いた。そうだった、話したね。
あのとき、どうすれば徳を積めるのか、お母さんはっきりと答えてくれなかったでしょ、と京介はやや咎めるように言った。徳を積めば後々いいことがあるっていうのに、その方法が分からないだなんてすごくもったいないと思ったから、ぼくは何としてでも知りたかった。それで、徳を積むにはどうしたらいいんですかってとなりの神さまに訊きに行ったら、玄関の靴をきちんと揃えたりすればいいんじゃないって言われた。
京介が鍋に残った最後の白菜と豚肉をお玉ですくい取り、ポン酢の入った器にそっと入れる。私はもう一度水の入ったコップに口をつけた。しかし口をつけただけで、飲みはしなかった。氷もすっかり溶けて、中はほとんど空になりかけていた。京介が靴を揃えていなかったこと、神さまはどうやって知ったんだろうね。最初に訊かれたの、と彼は言った。そして味噌汁をそっと啜った。普段外から帰ってきて靴を揃えているかって訊かれたから、揃えていないですって答えたの。そしたら、しばらく揃えるようにしてみなさいって言われた。それでまわりがどういうふうに変わるのかを観察してみなさいって。私は器に残った味噌汁を一息に飲み干した。ふうん、と私は頷いたが、それはある種の嘘だった。少なくとも『ふうん』ではなかった。
ねえ、神さまはどんな見た目をしてた? 私は幼い子どもに語りかけるような調子にならないよう、気を配りながら質問した。もしかしたら神さまだと知らないだけで、今まで何回も挨拶している人かも。知らないよ、インターホン越しに話したんだもん。京介はぶっきらぼうに答えた。そして、お母さんは気づいていないのかもしれないけど、その質問はどちらかというとぼくがする質問だと思うよ、と付け加えた。随分皮肉なことを言うようになったのね、と私は笑ってみせたが、内心びびっていた。しかし彼の言っていることはもっともだった。じゃあ京介は、神さまと面と向かって話したことはないの? ない、と京介は首を横に振った。インターホンと手紙でしか話したことないから、神さまの顔はぼくも知らない。
手紙? 私は混乱し始めていたが、自分でも意識しないうちに、それをどうにかして隠そうとしていた。恥ずかしい思いをしたくないという気持ちがこんなときにも顔を出すのだということに、私はひとり呆れたふりをしてみたが、あまりうまくはいかなかった。
うん、と京介は頷いた。
ひと月ほど前のある日の夕方、京介は家に帰ると、となりの部屋の前に赤い折りたたみ傘が落ちているのを見つけた。乾かしていたところを飛ばされたようで、傘をまとめるマジックテープが剥がれており、光沢のある布地が乱れてしわしわになっていた。京介は深く考えることもなく傘を拾い上げ、綺麗にまとめ、柄についた紐のストラップをドアノブに引っ掛けて部屋に戻った。しかしそこで、傘がとなりの人のものであるとは限らないことに彼は気づいた。
もし知らない人の傘が自分の家のドアにかけてあったらなんとなく不気味だし、びっくりするかもと思ったの、と京介は言った。だからメモに『ドアの前に落ちていたのでかけておきます』って書いて、折りたたみ傘に貼った。203号室の林京介よりって、最後に添えて。なんでそこで自己紹介したの、と私が驚いて尋ねると、京介は濁った色を目に浮かべた。だって、誰が書いたのか分からないものが、誰のものか分からない傘と一緒にドアノブにかかってたら、気持ち悪いと思わない?
よくそんなことまで気が回るね。気が回らない人が多すぎるんだよ、と京介が呟き、箸でつまんだままだった白菜を口に入れた。
食べ終わった食器と鍋を片付けながら、そういえばアイスあるけど食べる? と訊くと、京介はぱっと嬉しそうな顔をした。そして冷凍庫から抹茶のアイスをとった。幼い頃に比べて口数が減ってからも、アイスが好きなところは変わっていないみたいだった。私も少し迷ってからチョコレートのアイスをとり、テーブルに座ってふたりでゆっくりと食べた。スプーンの先を立ててぐっと力を加えると、ダークブラウンのアイスに私自身が沈み込んでいくような感じがした。
折りたたみ傘の件の翌日、昼過ぎに部屋を出ると、京介は傘かけのところに三つ折りの白い紙が入っているのを見つけた。開いてみると、傘がとなりの人のものであることと、それを気にかけてくれたことへのお礼が認めてあった。よかった、と思いながら読み進めていくと、いちばん最後に、何か困ったことや分からないことがあったら、それをこの手紙のように書いて202号室の傘かけに入れなさい、と書いてあった。私が答えられる範囲で答えますって。
頭がぼんやりし始めていた。自分が生きているのとは少しずれた世界の話を聞いているような気分だった。しかしそれは、今自分が座っているところを中心とした半径十メートルの中で起こったことなのだった。そして私は、自分でも不思議なことに、少し感動してもいた。思えば、京介が学校に行くのをやめてからまだ間もない頃は、彼が日中家でひとり何をして、何を考えているのかが気にかかり、仕事が手につかないことも多かった。それでもここ半年、沈んでいた顔に少しずつ色が戻り、好きだった本や植物への興味を取り戻していく様を眺めているうちに、肩にずっしりとのしかかっていた不安は薄れ、仕事帰りに部屋のドアを開けるのも徐々に恐くなくなっていった。
京介が生きていてくれさえすれば、学校に行けなくなることなんて大したことではなかった。後になって勉強したくなったときには、通信制の学校やフリースクールに通えばいいと思っていたし、調べてみると、それらは家からそう遠くないところにも見つかった。また、男女別の制服や他の小学校から来た子どもなど、新しさに溢れた環境に圧倒されてしまうのは、誰にでも起こり得ることだと思っていた。それに京介は、一緒に暮らしていた親がひとりいなくなるということも経験している。三年経っているとはいえ、心細さは少なからず感じているはずだった。それにもかかわらず四月の下旬、学校にはもう行きたくない、と打ち明けた京介を前にしたとき、私はそれをすぐに受け止めることができなかった。代わりに私は、もう少しだけ行ってみようか、と彼の背中をなでながら言ったのだった。
そのときの自分の言葉が正しかったのかどうか、私には確信が持てなかった。やもすれば、京介を絶望と孤独の淵に追い込んでしまいかねない台詞だったのではないかと後になって考え、深い自責の念に苛まれたりもした。しかし、あまりにも情報が少なかったことは事実だった。学校で何があったのかを京介から無理に聞き出すことはできなかったし、学校に休みの連絡をしたとき、担任の先生に彼がどんなふうに過ごしているのかを尋ねてみても、はっきりしたことは何も分からなかった。全身の血管がねじれるようなもどかしさを覚えたが、一度にたくさんの子どもたちの面倒を見なければならない彼らの責務を考えれば、それはどうしようもないことなのかもしれなかった。
二、三日学校を休んだ後、もう一度学校に行ってみる、と京介は言った。肌寒い朝で、透徹した空気に空の青がくっきりと映えていた。ドアを開けたとき、こちらを振り返った京介と視線が合わさった。目の赤みはほとんど引いていたが、それと一緒に別の何かがなくなっていた。階段へ歩いていく背中に向かって、いってらっしゃい、と声をかけたものの、彼は振り返らなかった。私は休みをとり、京介がいつ帰ってきてもいいように一日中家で過ごした。恐ろしいほど閑かな一日だった。
京介がインターホンを鳴らしたのは夕方で、私はすっかり疲弊していたが、学校での一日を無事に乗り切ったのだと思うと、それ以上の安堵感が私の胸を満たした。どうだった? 私が尋ねても、京介はこちらを一瞥するだけで何も言わなかった。夕飯を食べている間も終始無言で、食後にひとりでコーヒーを飲んでいると、京介がいつの間にかリビングと廊下の境に伏し目がちに立っていた。何かあったの? 京介は首を横に振った。そして、やっぱり学校には行けない、と言った。私はコーヒーの入ったカップを置いて腰を上げた。わかった、もう行かないことにしよう。両腕でひしと抱きしめると、細い腕が私の背後に回り、カーディガンをぎゅっと掴むのが分かった。京介はその夜、私の腕の中で、長い間身体を震わせて泣いていた。
お母さん大丈夫? 京介が顔をのぞき込んでいるのに気がついて、私は我に返った。うん、大丈夫。どこまで話してもらったっけ? 手紙が入っていたところまで、と京介が答えた。それで、とりあえず何か質問してみようって思ったのね。
京介はまず『あなたは何者ですか』と訊いてみることにした。202号室の表札に名前は入っておらず、人が出入りしているところを見たことがなかったのは京介も同じだった。彼はある朝私を見送ると、周囲を見回してから、その短い質問だけを書いた紙をとなりの傘かけにそっと入れた。扉に耳をつけて中のようすを伺ってみたりもしたが、人が動いている気配はなかった。朝早くに家を出なければならないのかもしれない、などと考えながら、ほんの一瞬、扉の向こう側で京介と同じような格好をしてこちらの様子を伺う人の影を想像し、京介は飛び跳ねるようにして部屋に戻り、急いで鍵とチェーンをかけた。
そこから夕暮れ時まで、京介は一歩も外に出なかった。しかし私に見つかる前に確認しなければと思い、覗き穴から外を観察したあと、チェーンがついたままのドアを薄く開けた。傘かけには、前日と同様、三つ折りにされた白い紙が入っていた。そこには青いボールペンで『神さまやで』と書かれており、その証拠としてか、向こう三日間は雨が降り続けるだろうという予言が書いてあった。テレビの天気予報をつけてみると、この先一週間の天気にはすべて雨マークがついていた。
何はともあれ、雨は三日間降り続いた。それからというもの、京介は本を読んだり近所を散歩したりする中で浮かんできた疑問を神さまに訊くようになった。虫と人はまったく違いますか、それとも同じ生き物ですか。どうしてぼくの目は青くないんですか。木は思い出したり期待したりするんですか。手紙に対する返事は、午前中に出しておくといつも空の色が淡くなる頃には入っていた。返答を読んでも分からなかったり、すぐにでも知りたいことがあったりすると、京介は202号室の前に立ってインターホンを押した。神さまが戸口に出てくることはなく、短い会話はいつもインターホンのがさついた音のフィルターを通して交わされた。
神さまってどんな声なの? どんなって、人の声だよ。神さまって男の人、それとも女の人? さあ、よく分かんない。私もインターホンを鳴らしたら、神さまと話せるのかな。冗談めかした調子で言うと、京介はこちらを探るような目でじっと見つめた。神さまのこと危ない人だと思っているんでしょ。不意をつかれた私は口ごもった。ううん、危なそうだと思わないと危ないんじゃないかなって思っただけ。すると、京介の瞳の奥で何かがゆらりと揺れた。もちろんぼくも最初はこの人いかれているのかなと思ったよ、と彼は言った。だけど、神さまは人を傷つけるようなことは言わない。それにぼくの話を聞いてくれるし、ぼくの質問にもちゃんと答えてくれる。顔が分からないのが不安なのはぼくも同じだけど、顔が分かっていても全然信じることができない人を、ぼくはたくさん知っているよ。
もう一度、彼の目の奥で暗いものが揺れた。そういう人たちは、人を傷つけるようなことを、人を傷つけるために言ったりする。すぐに分かり合えなそうな人のことを、ひどい言葉を使って仲間はずれにしたりする。ぼくは神さまよりも、そういう人たちのほうがずっとずっと恐い。そう言うと、京介は左手に握ったアイスのカップに視線を落とした。手のひらの熱でアイスが溶け、表面は隅までとろりとした苔色に覆われていた。どうしてお母さんは、神さまのことはそうやって疑うのに、ぼくが顔を知っている人たちのことを疑ってみようとはしないの?
喉の奥がきつく狭まり、肺が萎んでしまったような感じがした。背中から腿にかけて冷たい線が走り、服の下に粒状の汗が滲む。何があったの? 私の問いに、京介は口をつぐんだまま答えなかった。そして溶け残ったアイスを口に含み、こちらには目を向けずに席を立った。手元のカップを見るとアイスはすっかり溶けていて、スプーンで掬える分はもうほとんど残っていなかった。
林さん、と名前を呼ぶ声に後ろを振り返ると、由加里が薄水色の長財布を片手に立っていた。そろそろお昼行きませんか。そうしよっか、と言って、私はネームタグを外した。席から立ち上がってオフィスを見回すと、昼食をとりに出ている人が多いらしく、空席が目立った。時計の針は十二時四十分を回っていて、人気の少ない部屋には午後のもさついた空気と睡魔の気配が漂っていた。横に並んでオフィスを出ると、由加里が両腕を上げて伸びをしながら、長いため息をついた。外は秋晴れで、風に揺れる街路樹の影に空の濃い青が映っていた。
カレー屋は混み合っていた。私たちは奥の壁際の席に通され、ふたりともランチのセットを頼んだ。注文を取りにきた店員からは、鼻をつんと突く独特の匂いがした。林さん、昨日大丈夫でしたか、とナンをちぎりながら由加里が言った。係長にがみがみ言われてませんでしたか。ああ、うん、と私は頷いた。打ち込むときにいくつかミスしちゃったの。他のこと考えてたら、いつの間にか手が勝手に動いていたみたいで。そこじゃないですよ、と由加里が顔を上げた。そして、後ろの結び目からこぼれた細い毛束をさっと耳にかけた。あの人、女だからって多めに見たりしないとか、こういうミスをするから女は仕事ができないと思われるとか、暇さえあれば私たちが女であることを後悔させようとしてきて、むかつきませんか。由加里の眉間には力が入っており、指先でつまんだナンが色の濃いカレーに半分浸されたところで静止していた。
私は昨日のことを思い出していた。由加里がたった今言ったようなことを聞いたような気もしたが、具体的に何と言われたのかはうまく思い出せなかった。それでも、係長のすぐ後ろで、口をきゅっと結んで座っていた女性社員のことは覚えていた。うん、傷ついてたかもしれない。私は独り言みたいに言った。ああいう人を見て、男の人はみんな悪だ、追い払えって主張するのは違うと思います、と由加里は続けた。でも、事あるごとに女をネガティヴなものや弱さと結びつけたがる人に対しては、それが男の人であれ女の人であれ、怒っていいと思うんです。性別がどうこう以前に、林さんは生きている人間なんですから。そういえば、と私は思った。私は彼女のように怒ることを、いつの間にか諦めてしまっていた。怒ることにたくさんのエネルギーが必要なだけでなく、エネルギーを振りしぼって怒ったところで、いつも聞くに値しないものだと看做されるからだった。京介の父親からは、私が怒るたびに、わかった、落ち着いてからまた話そう、と言われていた。
どうしたらああいう、歪んだレンズを通してしか世界を見てこなかった人間に、そのレンズが歪んでいることを気づかせられるんですかね、と由加里は顔をしかめたまま言った。歪んだレンズをかけているせいで、いろんな人を突き飛ばしたり、無視したりしているってことに。彼女は大きめにちぎったナンをカレーに深く沈め、口に入れた。鼻の頭にうっすらと汗が浮かんでいた。入り口のドアにつけられたベルが鳴り、そちらを見やると、スーツ姿の男女五、六人が固まって出て行くところだった。私は甘い香りのするナンをちぎり、何もつけずにそれを食べた。あの豚野郎、と由加里が呟くのが聞こえた。
家に帰ると京介が奥から出てきて、おかえり、と出迎えてくれた。彼が拒むような態度を取らなかったことにほっとして、私は思わずため息をついた。ただいま、と言って靴を脱ぐと、京介は廊下の壁際にぴったりと身を寄せた。促されるようにその脇を通り抜けると、彼はさっと玄関口に屈んで、私の靴と、私が少しずらしてしまった彼のスニーカーを綺麗に並べ直した。
今日はいい天気だったね。買い物袋をテーブルに置き中身を取り出しながらそう言うと、京介は、そうだね、と返事をした。そして廊下の電気を消した。外に出たの? うん、午前中その辺を散歩してた。空がうんと高くて、海みたいな色をしてたよ。京介がテーブルからピーマンの袋となすの入ったビニールをとり、冷蔵庫へ持っていった。他の野菜や肉類をひとつずつ手渡しながら、私は彼が冷蔵庫の中身を整理するのを眺めた。ゆるい癖のある髪が肩にかかっている。十歳のときから伸ばし始め、肩まで伸びてからは時折自分で切ったりもしながら、その長さを保ってきたのだった。離婚した後、京介の父親に、まわりに馬鹿にされるかもしれないから、と切ることを勧められたと言われたときには、切る必要なんかないんだよ、と彼の髪をなでた。誰もあなたの表現を奪うことはできないのだから、と。
突然、私は京介のことが分からなくなった。私が見ていたのは小学生の頃の京介で、現在の京介ではなかった。それに気づいた途端、白く熱した焼印を胸に押しつけられたような感覚におそわれた。それは寂しさだった。そこにいるのが当たり前だった存在の、突然の不在がもたらす寂しさ。もういなくなったことを認めなかった自分がもたらした、自分勝手な寂しさ。熱い感覚は胸を上がって喉を通り、目の縁にたまった。京介が、あ、と声を上げた。牛乳がもうないよ。こちらを振り返る京介に気づかれないように、私は手の甲で目をこすった。買おうと思ってたんだけどな。買ってこようか、と京介が言った。そこの通りを下ったところのスーパーでいいんなら、ぼく行ってくる。そうするとこちらの返事も待たずに、彼は寝室で上着をとり、スニーカーに足を突っ掛けて出て行った。
部屋を静けさが満たした。テーブルの傍にぼうっと立ち、乾いた食器やハンガーに吊るされたシャツを眺め、蛍光管が落とす光の中で、どこか遠くを走る救急車のサイレンの音を聞いた。京介はお金を持っていったんだろうか。手に持ったままだった蜂蜜のボトルを置いてリビングを離れると、廊下に面した京介の部屋からは明かりが漏れていて、ドアが半開きになっていた。
私は京介の部屋に入り、本棚の上から二つ折りの小さな財布がなくなっていることを確かめた。掛け布団が乱れていることと、本が床に積まれていることを除けば、部屋は綺麗に片付いていた。机の上には自転車の鍵と、髪を結ぶ黒いゴム、そして今読んでいるものと思われる本があり、その下に三つ折りの白い紙が敷かれていた。心臓がくっと上に持ち上がるのを感じた。神さまからの手紙だ。私はそれを本の下からそっと抜き取り、指先でつまんでしばらく眺めた。鼻を近づけてみても匂いはなかったが、得体の知れない匂いがするのかもと構えたことで鼓動が強く、速くなった。自転車の鍵がここにあるということは、と私は思った。スーパーには徒歩で向かったということだ。歩けば片道十分くらいだから、走って行ったとしても、少なくとも往復するのに十分はかかるだろう。まだ大丈夫、と心の中で自分に言い聞かせながら、私はそれでも尚後ろを振り返った。ドアは開いたままだった。その向こうで、光に薄められた闇が重たそうに横たわっているのが見える。
私は折り目に親指をかけた。ふれた形跡が残らないように慎重に手紙を開くと、ほとんどのスペースは空白で、中央にボールペンで一行、人が分かり合うためには傷つかないといけないんですか、と書いてあるだけだった。紙を支える指先が震えていた。下の階で誰かが鍵を開ける音に驚いて、私は咄嗟に部屋の電気を切った。視界にこびりついた歪な残像がじわじわと剥がれていき、瞬きを何度かすると、私は暗闇の中にいた。さっきまでドアの外にいた闇が中に入ってきたんだ、と思った。物音はなく、指に引っかかっている白い手紙だけがうっすらと見えた。私は深く息を吸い、音を立てないように吐いた。首筋を汗が伝うのが分かった。そして手紙をもとあった本の下に戻してから、玄関に向かい、靴に足を通してドアを開けた。
冷たい夜気が服の隙間から入り込み、汗と混ざって私の身体を撫でる。表札を入れる薄いスペースには、何も書かれていない黄ばんだ紙が入っているだけだった。ドアの横の曇りガラスから伺えるのは暗闇だけで、中に人がいるような気配はなかったが、私はインターホンの丸いボタンに人差し指を置いた。心臓が再びペースを速める。脈打つ血管によって、体全体がひとつの心臓になったような感じがした。
私はボタンを押した。聞き慣れた呼び出し音が、扉の向こうで後を引くように鳴っている。人が動くような気配はなく、インターホンに対する応答もない。私はもう一度ボタンを押した。呼び出し音は無音の空間を数秒間だけ震わせると、その空間に飲み込まれて完全に消えた。私は冷たいドアノブに手をかけ、そっと捻ってから手前に引いた。扉には鍵がかかっていて、私を迎え入れてくれはしなかった。私はまだ緊張の残る身体を柵にもたせて、ため息をつき、後ろを振り返った。古い電灯の明かりに、自転車置き場の一角だけが青白く浮かび上がっている。私は京介が下っていったはずの道にしばらく目を凝らした。もうそろそろ帰ってきてもおかしくない頃だった。ドアを開け、部屋の中に戻る。それから間もなく京介が帰ってきて、私は牛乳のパック二本と板チョコが入ったビニール袋を受け取った。そのチョコレートは、お母さんのだから。
ロッカールームに入ると、由加里がトレンチコートに袖を通しているところだった。お疲れさまです、と彼女は言った。林さんもう帰りますか。うん、今日はちょっと疲れたから。じゃあ一緒に出ましょうよ、私も帰るところなので。彼女はそう言うと、首を交互に傾けて、耳にはめていたワイヤレスのイヤホンをとった。私が自分のロッカーに制服をしまったり、水を飲んだりしている間、由加里は壁に寄りかかって、ケータイの画面をじっと見つめていた。私が何度か視線を投げかけてみてもそれに気づくことはなく、一定のペースで画面を繰っていたかと思うと、不意にぴたりと止まったりした。頭上の小さな窓からは濃い紫色をした空が見え、終わりのない濃淡に染まる地平線が脳裏に浮かんだ。明け方みたいな空だね、と言うと、由加里は弾かれたようにぱっと顔を上げた。私が窓を指さすとぐっと身体を起こして振り返り、あ、ほんとですね、と言った。何かが起こる前兆かもしれないよ。そうだといいですね、と由加里は笑った。
街路樹の落とした褐色の葉を踏むと、くしゃっという乾いた音がした。バス停へと向かう人の群れから少し離れたところを、私たちは横に並んで歩いた。足元を風が吹き抜けると、由加里は開いたコートの前を掴んで引き寄せ、身体を縮めた。夏は気まぐれにいなくなりますね。彼女は短くため息をついたが、その横顔はどことなく嬉しそうだった。前を行くマウンテンバイクが、道幅いっぱいに広がって話に夢中になっているグループの後ろで、焦ったそうに前輪を動かしている。お子さんはお元気ですか。元気だけど、と私が返すと、こんなに生きづらい社会で子どもと生きるって、すごいことだと思います、と由加里が唐突に言った。お子さんも本当に逞しいと思います。そうしてこちらを見た彼女を、私は思わず見つめ返した。京介が学校に行っていないことは、学校の先生を除けば、京介の父親と私以外誰も知らないはずだった。由加里の意味するところが分からず、そうなのかな、と歯切れの悪い返事をすると、彼女はほんの一瞬訝しげな表情を浮かべ、すぐに年末に予定しているというフィンランド旅行に話題を移した。頭上の街路樹が、夜風に揺れてさらさらと音を立てる。樹々が葉の間にたくわえた闇は、街が知っているそれよりもずっと濃く、どこまでも深かった。前方に見えてきたバス停の前には、帰路につく人々がすでに長い列をなして並んでいた。
夕飯を食べ終えてニュース番組を見ていると、食器を洗っていた京介が、そういえば、とこちらに振り向いた。今日神さまのところに行ったら、面白いことを言ってたよ。さっと身体が火照るのを感じた。私はリモコンを傍らに置いて、浅く腰掛けていたカウチに座り直した。どんなこと? 京介は洗剤の泡のついた手を丹念に洗うと、きゅっと蛇口をひねり、タオルで水を拭き取った。今日は、神さまにとっていちばん大事な人は誰ですかって訊いたの。何て答えたと思う? いくつか浮かんだ言葉はあったものの、それらは喉につっかえてしまい口に出すことができなかった。駆け巡る思考の只中で、私は訳も分からないまま、涙を堪えていた。京介の頰にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
京介だって、神さまは言ったの。それで、ぼくのお母さんが同じ質問をしたら何て答えるんですかって訊いてみた。そしたら、京介のお母さんがいちばん大事だって答えるって。そう言うと彼は口に手を当てて笑った。神さまだったらそういうこともできちゃうんだろうね。可笑しそうに笑う様子につられて思わず笑うと、目にたまった涙がこぼれた。驚いて近寄ってきた京介に背中をさすられながら、私は泣きながら笑い、笑いながら泣いた。ニュース番組は続いていたが、そのときだけは、凄惨な事件も、溢れかえる偏見も、聞こえなかった。
どうもありがとう、励みになります。