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【短編】くたばればいいのに

はい、これ。ミシェルが差し出したおにぎりを、ぼくは片手で受けとる。アルミホイルを通して手のひらに広がる温かさよりも、ほんの一瞬ふれたミシェルの指先の温度のほうが強く感覚に迫ってくるのは、不安と不信のどちらに拠るものなのだろう。とかなんとか思ったりもしたが、彼のことを見つめながらでもなければ悪い帰結しか導き出されないような気がして、ぼくは手元に目線を落としたまま、アルミホイルをわざとらしい手つきで剥がした。モノレールの線路の向こう側から、昼下がりの陽光が、ぼくらが座る公園の植え込みの縁に燦々と降り注いでいる。秋口を通り過ぎた太陽は冬支度を始めたみたいに、三時を過ぎたあたりから濃い蜜柑色をするようになった。渇いた落葉の間で陽射しに濡れている芝生は蒼く、その様は彼らがこれから枯れていくことを思うと美しくもあり、また切なくもあった。何も言わずに自分の分のおにぎりを食べ始めたミシェルを一瞥してから、ぼくも分厚いおにぎりを頬張る。口の中にさっと塩気が広がって

これぼくのじゃないじゃん

と思わず口に出すと、彼は気まずい表情で謝ったりする、ような素振りはこれっぽっちも見せず、ただ、あ、ほんとだ、と呟いただけだった。ミシェルが両手で包んでいるおにぎりの中心には、三日かけて消費するくらいのごま昆布がぎちぎちに詰め込まれていて、見るからに窮屈そうである。ぼくはシャツの裾に落ちた米粒を手で払って芝生の上に落とし、もう一度手元の、梅干しの入ったおにぎりを頬張った。やっぱりこれ入れすぎだよ、と背を丸めて笑い出したミシェルを、それくらいがちょうどいいんだって、と適当な言い訳をしながらごまかすと、頰の裏側に広がる塩気に、うっすらと甘みが溶けたような気がした。

まだお米のほうが多いだけマシか。

ぼくが頷くとミシェルも頷いて、傍に置いた水筒から、湯気の立つ白湯をそっと飲んだ。舌先やけどすればいいのに、とぼくは何となく思った。モノレールが空を横切り日が遮られると、水に濡れたように気温が下がり、ぼくらはどちらからともなく距離を詰めた。ジャケット越しにふれるだけでは、ミシェルの体温は感じられなかった。モノレールが去り、陽射しが再び辺りを透明に染める。ぼくらは遥か彼方で炸裂する天体に向かってそろって目を細めた。その少し手前では、三歳くらいの子どもが手足をじたばたさせながら、溢れるほどの笑みを浮かべて走り回っている。その後ろを追いかける父親と思しき若い男は、その子どもと同じ黄色のベストを着ていて、その絵面はその子どもが彼の子どもであるということを主張しているようにも見えたし、彼がもつ「家族」という現象のイメージをよく表しているようにも見えた。それが具体的にどんなイメージなのか、ぼくには知る由もなかったが

たぶん苦手だろうな

と思った。多様性とか言いながら、未だ核家族しか想定していない世間一般の家族に対するイメージ、早く消えてくれないかな。無意識のうちにそれを唯一の幸せの形だと信じ込んでいる人たちも、一緒に消えてくれないかな。そこまで考えてぎょっとしたぼくは、咄嗟にミシェルのほうを見た。彼はそこにいた。まっすぐに子どものほうを向いていた褐色の瞳が、線の上を滑るようにぼくのほうに向けられる。一滴の雨粒が平たい湖面を揺らすように、しんと悲しくなって、やり場のなさから微笑んでみせると、ミシェルは塗装の剥げた紺色の水筒をこちらに差し出した。ありがとう、とぼくは言って、飲み口に唇をつけたが、白湯はたった今沸騰したばかりみたいに熱く、口に含むこともできなかった。だから気をつけなって言ったのに。いつそんなこと言ったのさ、と咳き込みながら返すと、ミシェルは

よく覚えてないけど、同じ光景を見たことがあるから、そのときに言ったはず

と言った。なんだよそれ、とぼくは笑った。というより、笑うことしかできなかった。他人と話していると、その言葉が無関心に拠るものなのか、それとも思いやりに拠るものなのか、すぐには掴めないことがある。ミシェルの口からそういう言葉が発せられたとき、ぼくは他のどんな瞬間よりも寂しくなった。そしてそれを彼に伝えるための言葉が、いつまで経っても見つけられないのだった。ぼくがありったけの思いを込めて手渡した言葉もきっと、その濃度が濃ければ濃い分、無関心と見分けがつかなくなって忘れられるんだろう。影みたいな冷たい風が吹いて、ぼくは肩をすくめた。そして少しずつ冷めていくおにぎりを、未練がましく咀嚼した。

そのとき、強い匂いが鼻腔を突いた。地面からうっすらと香る草の蒼さを乱暴に押しのけたその匂いは、ミシェルの向こう側、離れたところに座る中年男の指の間から流れてきていた。細く巻かれた白い紙の先端から、湯気のように細い煙が上がっている。男は警備員と思しき格好をしていて、煙草以外何も持っていないのを見ると、仕事の休憩時間に一服しにきているらしかった。帽子でも被っていたのか、汗で蒸れた頭には、吸い殻みたいな色の髪の毛が、煙草の煙みたいにうねうねとへばりついている。くたばればいいのに、とぼくは思った。

あの野郎、くたばればいいのに。

場所を変えようか、とミシェルに訊かれて、ぼくは初めてその男を凝視していたことに気がついた。いや大丈夫、と答えはしたものの、頭の中は男に対する不快感でほとんどいっぱいになっていた。こちらまで漂ってくる目には見えない煙が、頭蓋骨と脳味噌の隙間に充満して、いくら擦っても落ちることのない汚れをつけているような気がした。味のぼやけたおにぎりを齧りながら、ぼくは煙に覆われた感情のはけ口を探そうとするみたいに、もう一度男のほうを見た。左手で黒いガラケーを弄っている。というか、弄っていやがる。ふいに顔を上げた男と目が合って、ぼくは空気中に有害な煙を吐いているわけでもないのに悪いことをしたような気持ちになり、わざとらしく目を逸らした。最後のひと口を口に入れたミシェルが、ぼくとその男を交互に見やる。

本当に移らなくて大丈夫?

頷いてみせたぼくを訝しげに見るミシェルの目は、何処となくぼくを安心させた。アルミホイルから最後の米のかたまりをつまみ出し、ひゅっと口に放り入れる。すっかり熱の抜けたおにぎりは少し重くなったように感じられた。時間は熱を冷ましてはくれるけれど、冷めたものを温めてはくれないんだ。そんな残酷なことがあってたまるかと思ったが、少なくともおにぎりに関しては、それは否定しようのない真実だった。

順番に白湯を飲んでいると、視界の端で、男が煙草の煙のようにゆらりと立ち上がるのが見えた。男は武骨な指先に引っ掛けていた煙草をつまむと、植え込みを囲うブロックに穴でも開けようとするかのように、入念に火を揉み消した。広場を浸していた陽光が、潮が引くようにさっと遠ざかる。反射的に顔を上げると、太陽を覆ったのはモノレールではなく、男が今までに吐き出した副流煙をそこら中からかき集めてできたような巨大な雲だった。日の後を追うように、くたびれた足どりで去っていく男の背中を見つめるぼくの頰に、ミシェルは温かいキスをした。こんなところで煙草吸うなよな、と眉間にしわを寄せて囁く彼に、胸のむかつきをぶちまけてしまいたいのは山々だったが、言葉にすれば余計なことを口走ってしまうような気がして、ぼくも彼の頰に唇をつけた。彼の困ったような表情の理由が、あの煙草の匂いだったらよかったのに、と思ったが、そのときには言うまでもなく、行方を告げない煙草の煙のように、男の姿は消えていた。

その帰り道、ぼくは煙草を買った。

一年半ぶりのキャスターはもったりと甘く、右手にこびりつくバニラの匂いも愛おしく感じられた。ぼくをコンビニに入らせまいとするミシェルと向かい合っていたときに見た、落葉のような色をした彼の目を、ぼくはこれまでにも見たことがあるような気がした。病気するわけにはいかないってこと、本当に分かってる? 何度もそうくり返した後で

一本だけだぞ

と人差し指を立てたミシェルに、ぼくは両腕を広げて抱きついた。まったく、とぼくの身体を離しながら呟く彼が、実際のところ何を思っていたのかを想像するだけの優しさを、ぼくは持ち合わせていなかった。窓の外にふうっと煙を吐き、安心したような気分になって目を瞑っていると、トイレに行っていたミシェルが戻ってきた。彼はぼくにキスをして、煙草の味がする、と言った。吸ったことないのに、とぼくが笑う傍らで、彼はやはり寂しそうな目をして立っていた。それはちょうど、欠けた月に煙草の煙みたいな薄い雲が垂れかかる、涼しくて暗い夜だった。


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