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【短編】ヨハンとアデルの朝

早朝の広場で青果店の店主が腰を抜かしたとき、ヨハンとアデルはまだ目を覚ましていなかった。

青果店の店主は自分の店に向かっている途中だった。広場を横切って、アパートがひんやりと湿った影を落とす細い道を抜け、大通りを渡ったところに彼の店はあった。軒先に染みだらけの赤い幌が張ってある、街でいちばん古い青果店だった。その老人は、広場の中心を示す大きな楓の木に向かい合う形で、長椅子に浅く腰掛け、黒いステッキを傍らに、曲がった身体をぐったりと背もたれに寄りかからせていた。不審に思った店主が彼のもとに近づき、声をかけたが、老人は微動だにしなかった。ただ眠っているにしてはあまりにも異様な空気を纏っていたので、店主が肩を叩き、軽く揺すると、彼の被っていたフェルト地のハットが頭から落ち、その顔がみずみずしい木漏れ日の中で露わになった。背後から覗き込もうとした店主は、顔を近づけるなり叫び声を上げ、石畳の上に倒れこんだ。

老人は死んでいた。身体は空気を抜かれたゴム人形のようにぺったりと萎んでいて、虚ろな目は開いたままだった。広場を囲むアパートの住人のうち、叫び声を聞きつけた数人が表に出てきて、間もなく警察と救急車が呼ばれた。しかし救急車は、腰を抜かして立てなくなっている顎の外れた青果店の店主を運ぶため、広場に着くなりすぐにいなくなってしまった。もう一台の救急車と特殊捜査班を待つ間、長椅子の周囲にはテープとブルーシートが貼られたが、警察にできたのはそれくらいで、広場に集まった人々に対して騒ぎ立てないようにと喚起している間に、騒ぎは瞬く間に一帯に広まった。周辺のアパートの窓からは老若男女の顔が覗き、出勤や通学途中の人々は現場の光景を見るとみな一様に足を止めた。そうして野次馬が群がり始めた頃、防護服を身につけた一群が現場に到着した。その姿に疫病の可能性を見てとった人々は、蜘蛛が散るように広場からいなくなり、アパートから現場を見下ろしていた人々は切迫した手つきで窓を閉めた。いくつかの部屋からは焦る親を見て泣く子どもたちの声が聞こえ、それが響き合ってアパートの壁を伝播し、住人の間に自然発生的な連帯感を生んだ。そのときは住人の誰もが、他の住人も日の当たる窓辺に立って広場を見下ろしていることを、目には見えずとも知ることができた。

しかし、ヨハンとアデルは例外だった。後続の捜査班が到着して現場の実況見分を行っている間、下の階に住む老婦人がどこからか聞こえてくる子どもの泣き声に耳を澄ませながら、ずっと前に家を出て隣国に渡った娘のことを想っている間、駆け出しの劇作家が騒ぎに集中力を削がれたことに憤慨し、部屋中の紙という紙(カレンダー、母親からの手紙、キッチンペーパー、請求書、やらなければならないことのリスト、日記、映画のパンフレット)をやたらめったらに引き裂いている間、ふたりはまだそれぞれの夢の中にいた。アデルが目覚めたのは、老人が救急車で運ばれ、念のため部屋からは出ないように、と警察がくり返し呼びかけているときだった。目を開けた彼女の視界の端に、陽光に濡れた白いレース地のカーテンがぼうっと浮かび上がる。夜が残っているのは日が届かない玄関だけで、世界はとっくに朝を迎えていた。

アデルは白い掛布団からするりと脚を抜くと、冷たいフローリングに素足を下ろした。そして、ここは一体何処なんだろう、というような目で辺りを見回した。コンロのそばにぽつんと置いてある赤い林檎が彼女の目を惹いたが、それ以外に別段普段と変わったところはなかった。要するに彼女には、それが何処であろうと、朝起きるとそういうふうに辺りを見渡して、何か変わったところはないかと確認する癖がついているのだった。後ろを振り返ると、ヨハンが規則正しく寝息を立てている。カーテンを透過して模様をつけた朝日が、その滑らかな肩を撫でていた。アデルはその影に重ねるように、自らの左手をヨハンの肩にそっと置いた。そこでようやく、彼女は外で何かを呼びかけている声に気がついた。今し方自分が寝ていた場所に膝をつき、カーテンを開け、ヨハンに半ば覆いかぶさるようにして窓の外を見下ろすと、防護マスクを被った警察が『部屋から出ないで、調査中です』と書いた巨大なブルーシートを楓の木のまわりに敷いていた。そして一人が拡声器を上に向けて、同じ文言を何度もくり返していた。今朝ここで発見された変死体につきまして、詳細が判明するまでは外出を控えていただくようお願いいたします。

ヨハンが目を覚まし、うう、と小さく呻きながら陽射しに顔をしかめ、窓枠に手をつくアデルをむくんだ顔で見上げた。何してんの? 下で何かあったみたいよ、とアデルは答えた。変死体がどうのって言ってた。

変死体...

そうくり返すと、ヨハンは身体をよじらせ、顔を窓から背けて枕にうずめた。アデルは彼にかかっていた掛布団を適当に足元に押しやり、その背中に自分の身体を重ねた。ヨハンの身体は温かく、首筋にはまだかすかにボディソープの匂いが残っていた。重たい、と彼がくぐもった声で言うのを、彼女は笑って聞き流した。アデルはいつまでもそうしていられるような気がしたが、日に当てられた背中が熱くなってきたところで離れ、ヨハンのすぐ隣に仰向けで寝転がった。彼の刈り上げられたもみ上げを見つめながら、起きているのかそれとも再び眠りに入ったのか、分かりかねて彼の脇腹を爪で引っかくと、ヨハンは魚みたいにぶるっと身体を震わせた。

今日は大学休みかな。なんで? と言ってヨハンが顔を彼女のほうに向けた。だから警察が家から出るなって言ってるのよ、その変死体の件で。ふたりは同じ大学の学部生だった。ヨハンは枕に腕をついて身体を起こし、ナイトテーブルからとった銀縁の眼鏡をかけた。アデルは、窓を開けて身を乗り出した彼が、うわ、なんだあれ、と独り言ちるのを聞き、それから警察がヨハンに向かって、窓は開けないでください、と呼びかけるのを聞いた。ヨハンは驚いて身体を引っ込め、建てつけの悪い窓を、ぎぎ、ぎ、がたん、と音を立てて閉めた。

嫌な感じだな。

ふいに静けさが部屋を満たし、ふたりはしばらくの間見つめ合った。ヨハンが掛時計に目をやり、ぼくは一応準備する、と言ってベッドを離れると、アデルも腰を上げてバスルームに向かった。アデルがバスルームのドアを閉め、シャワーカーテンを引き、勢いよく水を出す音を、ヨハンはキッチンで聞いていた。世界にひとりだけになったようでありながら、世界から切り離されてはいないことを感じられるその時間が、ヨハンは好きだった。

給湯器で沸かしたお湯を二人分のマグカップに注ぎ、それぞれに紅茶のパックを入れてヨハンがテーブルに持っていくと、ケータイを見ていたアデルが顔を上げた。お爺さんが死んでたんだって、そこのベンチで。そして彼女は画面に再び視線を戻した。誰だったの? まだ分からないみたい。ヨハンは、トマトソースとチーズをのせて焼いたトーストをくしゃっと頬張った。床に落ちたパンくずを彼が足で払いのけるのをアデルは見ていたが、それに口を出すことはなかった。何人も顔を見たっていうのに誰も知らないだなんて、なんか変じゃない?  さあ、と言って彼女は肩をすくめた。私も隣に住んでる人の顔いまいち思い出せないし、あり得ることじゃないかしら。アデルはケータイを皿の傍に置き、ゆで卵の殻を剥き始めた。皿の空いたスペースに殻の細かな破片が溜まっていくのを見て

皿にできたニキビみたいだな

とヨハンは思ったが、それをあえて口に出すことはなかった。アデルは前に落ちかかる髪を時折耳にかけ直しながら、騒ぎについての記事や人々の投稿を眺めていた。見つかった記事には現時点で分かっていることだけしか載っておらず、したがって人々の投稿はすべてが憶測の域を出なかった。詰まるところ、詳しいことは何も分からなかった。彼女は画面を切り替え、メールフォルダの更新アイコンを十三回くらい立て続けに押したが、相変わらず大学からの連絡は来なかった。

もしぼくが、とヨハンが言った。もしぼくがそのお爺さんみたいにそこで死んだとしたら、この人知ってますって証言してくれる? アデルは彼の顔を見たが、卵の殻を剥く手は止めなかった。三十分もらえれば。ヨハンは紅茶のパックを指の先でつまんで取り出し、皿の端に置いた。薄く色のついた水分が染み出し、模様をつけるように皿の縁を這っていく。手ざわりだけで確かめるつもりなの? そうじゃないわよ、とアデルは微笑んだ。大学からここまで戻ってくるのに三十分かかるでしょう。君が部屋にいる間に、ぼくが下で死んだら? 一分もかからないうちに、あなたの名前だけじゃなくて誕生日とか、嫌いな食べ物とか、色々含めて証言してあげる。ヨハンはアデルを見つめながら、本当に訊きたかったことを訊きそびれてしまったような気がしていたが、何を彼女の口から聞きたかったのか、トーストを食みながらではうまく思い出すことができなかった。しかし、それでも彼は長い咀嚼をやめなかった。アデルも、彼が額面通りの質問をしたかったわけではないことは察知していたが、彼女ひとりが汲み取ればいいものでもないと思い深入りはしなかった。死に化粧はなるべく薄くしてほしいってこともよろしく、とヨハンが言うと、アデルは彼に向かって片目をつむってみせ、つるりとした卵に塩をふりかけてかぶりついた。

しばらくの間、部屋の中にはふたりが食事をとる細々とした音だけが響いていた。すっかり寝起きすることにも慣れたその空間を、アデルは林檎をかじりながら、あらためてぐるりと見回した。そんなに嫌ならぼくのところに来る? とヨハンが申し出た日の夜、アデルは賃貸契約を結んだままの学生寮から、大凡必要なものだけを持って彼のアパートに移った。寮にかかる費用は両親に払ってもらっていたが、彼らには何も告げなかった。寮を出て友だちの住んでいる部屋に泊まらせてもらう、などと言えば、これといった意図も中身もない質問を浴びることになるのが、彼女には分かっていた。アデルはそうやって、血縁関係にあるだけの間柄を、それが慣習であるというだけで特別扱いし、その間のつながりだけはどんなことがあっても変わらないのだと信じている両親のことを心の底から軽蔑していた。小さい頃からテレビ好きだったじゃない、きっと寂しい思いをするだろうから、買ってあげる。母親に持たされた小さなテレビも、点けるたびに両親の顔が脳裏にちらついたため、ほとんど見ることはなかった。だから彼女がヨハンの部屋を最初に訪れたとき、何よりもまず気づいたのはテレビがないことだった。

テレビ持ってないのね。

彼女が言うと、小さい頃を思い出すから、とヨハンは言った。

部屋の隅や皿の上に時々視線を飛ばしながら、ヨハンはあたりを見回すアデルを黙って見ていた。彼女の頭の中でどんな言葉が渦巻いているのか、想像がつかなくなることが彼にはしばしばあった。そしてその度に、やはり自分は誰からも愛されないままこれからも生きていくのだろうか、と不安になった。それは彼が十代のときから恐れていたことで、大学に入ったばかりの頃、アルコールが回った勢いでうっかりそれを口にすると、さして仲良くもないクラスメイトたちは、なにそれメンヘラじゃん、と笑ってヨハンの背中を叩いた。

男なんだろ、しっかりしろよ。

幾度となく耳にしたその台詞は、彼の鼓膜を通って、胸のあたりに降りていき、およそ性別などない心臓にいつまでも血が滲み続ける傷をつけた。愛の不在に怯えることは、恥ずかしいことなんだろうか? その問いを思うと、学生で賑わうパブも、受講者で溢れかえる講義室も、たまの帰省で囲むことになる団欒も、たちまち彼ひとりを残して空っぽになった。そのうち人といるとひどく疲れるようになり、ヨハンは大学内のあらゆる関係から、鞘からナイフをそっと引き抜くように身を引いた。これといって深い関わりを持っていなかったヨハンの不在に、幾人かは気づく素振りを見せたものの、誰もそれを彼に伝えたりはしなかった。アデルと初めて言葉を交わしたのはそんな時分で、場所は大学の最寄り駅のホームだった。

ねえ、大丈夫? 

そう言って彼の肩を叩いたアデルのことを、ヨハンは沈黙の中で想い起こした。そうすると、治ることのない心臓の傷が、少しだけ癒えるような気がするのだった。

結局そのお爺さんは誰だったんだろうね。ヨハンがそう言おうとすると、あ、とアデルが声を上げた。彼女は学生用アドレスに届くメールの画面を彼に差し出した。今日は授業全部休講だって。大学に向かっていた人々のため息が聞こえたような気がして、ヨハンはトーストの最後の一切れを口に入れると腰を上げ、白く光る窓辺に立った。楓の葉が風に揺られ、岸に打ち寄せる波のような音を立てている。

今日何する?

ヨハンが尋ねると、アデルは彼のほうを振り返り、硝子色の陽光に目を細めた。そして、逆光に陰るヨハンの顔に視線を移した。 彼と視線が重なっているのかいないのか、彼女にはよく分からなかったが、それはヨハンも同じだった。お互いに何も言わないまま、アデルがすっかり痩けた林檎をかじると、彼は外した眼鏡を日にかざし、薄地のTシャツの裾でレンズについた汚れを拭いた。いくら拭いても指紋はとれず、レンズ全体に薄く広がっていくばかりだったが、ヨハンはそれでも眼鏡のフレームを指先で支えて、おまじないのように拭き続けた。

大学に行ってみる? アデルがふとした思いつきを口にしたのと、ヨハンが諦めて眼鏡をかけ直したのは、ほとんど同時だった。誰もいない大学を見て回るのよ、きっと面白いと思う。ヨハンは頭を掻きながら窓の外を振り返った。でもさっきから外に出るなって言ってるよ。日の光が満ちる初秋の朝は、全体的にぼんやりとくもっていてなかなか焦点が合わなかった。大丈夫よ、どうせ大したことないもの、とアデルは顔の前で手を振り、椅子に座ったまま、林檎の芯をゴミ箱のほうめがけて投げた。芯は弓形の軌道をひゅっと宙に描くと、棚の白い開き戸にぶち当たり、硬いゴムみたいな音を立てて給湯器の傍に落ちた。部屋を満たす水のような静けさの中で、狙いどおり、というような表情をする彼女を、ヨハンはじっと見つめた。そして、どこかの部屋で怒鳴っている男の声を聞いた。その平たく潰れた声は、魚のように遠くで揺れるとぷつりと途切れ

がしゃん

とガラスの割れる音が後に続いた。寂静が再びあらゆる隙間を埋める。アデルが眉を上げると、ヨハンは泣き出しそうな顔で、親指を立てて見せた。

陽の入らないアパートの廊下は暗く、冷えた影が衣服に浸み込むようだった。ヨハンは鍵を閉めると、それをポケットにしまい、上着のジッパーを首元まで引き上げた。一応裏から出ましょう、とアデルが小声で言い、ふたりは端に砂や埃のたまった階段を足音を立てずに降りていった。裏手の路地へとつながる格子戸に鍵はかかっておらず、ゆっくりと押し開けると、一晩かけて染めたような濃いブルーに、林立するアパートやビルがまっすぐ突き刺さっていた。呼びかけを続ける警官の声を聞いていたずらっぽく微笑むヨハンの足元には、褐色の乾いた落ち葉が薄く積もっていた。

風に煽られる汚れた菓子袋を横目に、ふたりは並んで大通りに出た。平日の朝にもかかわらず車の往来はごくわずかで、ただ一瞬のうちに通り過ぎていく秋風が、ビルの合間で泣くように唸っていた。アデルが無言でヨハンの手を握る。大学に向かって歩きながら、なんかまずいことになってるみたい、とヨハンが呟くのを、アデルは他人事のように聞いた。彼女は妙に落ち着いた気分だった。少々馬鹿げているとは思いながらも、街の人々が関係のないままであろうとする状況そのものが、彼女とは関係のないことであるような気がしていたのだった。それはちょうど、毎日のように増えていく政権の不誠実な所業に、ほとんど関心を示さないか、或いは大したことではないと容認する人々の心境によく似ていた。多くの商店はシャッターを閉ざしていて、奥に人の気配がある店の扉にも鍵がかかっていた。薬局の緑色のサインは普段通り点灯していたものの、店は開いておらず、薄暗い店内ではさまざまな種類の薬のパッケージが、俯きがちにガラスケースの中に並んでいた。

どうりで誰も幸せにならないわけだ

とヨハンが心の中で独り言ちるのを、アデルは耳元で聞いたような気がした。

片側三車線の通りを斜めに横切り、葉を落とした樹々がぐるりを囲む公園を横切ると、広大な大学の敷地内に入る。煉瓦塀をよじ登って中に入ると、正門から中庭まで通ずる幅の広い道は、落葉がつけた赤や黄の斑点に彩られて、普段よりもずっと遠くまで続いていた。陽光を受けて輝く中庭のほうへ歩みを進めようとしたアデルの腕を、ヨハンが性急な所作で引っぱった。明かりがついてる。彼が指差した先の警備室に、ふたりは息を殺して近づいた。そして正面の窓からそっと中を覗いたが、そこには誰もいなかった。ふたりは開いていたドアから中に入り、歩き回るスペースもほとんどない小さな部屋を見回した。机の上にはペン立てと橙色のファイルが置いてあるだけだったが、奥の壁に取りつけられた白い棚には、大きなクリップでとめられた書類の束や、太ったファイルなどが無雑作に突っ込まれていた。室内の物色をはじめて間もなく、アデルが窓際に据えられた事務机から社会学部棟へ入る鍵を見つけ出した。得意気な顔をして鍵を頭上に掲げるアデルの頰に、ヨハンは短くキスをした。

ふたりは中庭を突っ切ることを避け、舗装された道の脇、丈の低い樹々の間をくぐり抜けながら学部棟を目指した。アデルは柔らかな土の感触を靴裏に確かめながら、ヨハンの手を後ろ手に握って歩いた。左手に目をやると、陽が燦々と降りそそぐ中庭が方々に伸びる枝と葉の合間に見え、カミュが言うところの失われた楽園を彼女は見たような気がした。急ぎ足に進んでいた彼らが歩みを止めたのは、学部棟の入り口前だった。アデルの手に握られた鍵で開けるはずだった扉が、内側に向かって開いていた。まだ誰かいるのかな、とヨハンが彼女の耳元にささやく。入ってみないことには分からないわ、とアデルは小さな声で返し、ヨハンの肩にふれた。明かりの点いていない廊下は、つき当たりの硝子から入り込む陽光が床にぼうっと反射しているだけで薄暗く、ひんやりと冷えていた。アデルはそれを波のない湖面のようだと思い、ヨハンは病院のようだと思った。

時間の流れは水を含んだように重たかったが、聞こえるのはふたりの平たい足音だけだった。廊下沿いに並ぶ扉を開ける手を震わせた緊張も徐々にほぐれていき、フロアを登っていくのとともにアデルの足取りは軽くなり、ヨハンの目元には笑みが滲んだ。そして七階の大教室にたどり着く頃には、ふたりそろって学部棟にいるのは彼らだけだろうと確信していた。大教室の重い扉を開いたのはアデルだった。やっぱり誰もいないみたいね、と尚も小声で話す彼女を見つめながら、世界がぼくらふたりだけの場所であったなら、とヨハンは思った。

教壇に向かって伸びる階段を、ふたりは一段ずつ降りていった。ヨハンは最前列の机に残っていた消しゴムの滓を指先でなでると、低い段をさっと登り、大きな黒板の前に立って教室を見回した。どんな感じがする? とアデルはヨハンの後ろ姿に尋ねた。上着が擦れるかすかな音がした後、埃っぽい静寂がふたりの間を埋める。どうしたの、とアデルは彼の顔を覗き込んだ。ヨハンは困惑したような表情を浮かべて、床から天井まで伸びる窓の外に視線を彷徨わせていた。ごめん、と彼は小さく言った。硬い水を飲んだときみたいな、嫌な感じがする。少し座ったほうがいいんじゃない、とアデルは促したが、ヨハンは首を横に振った。

しばらくしたら慣れると思う。

アデルは彼の腕を引っぱり、半ば無理やり彼女の隣に座らせた。今日だけは、どんなことにも慣れないようにしよう、と袖を掴んだまま静かに訴えるアデルに、ヨハンは頷き返すことしかできなかった。

ケータイを開くと、大手メディアが競うように変死体についての最新記事を出していた。アデルは声量を抑えたまま、横から画面を覗き込むヨハンのために文面を読み上げた。今朝広場で発見された遺体の身元は不明。身体が不自然に萎縮していたため、警察は原因究明のため司法解剖を行っているとのこと。ヨハンはため息をつくと眼鏡を外し、スウェットの袖でレンズを擦った。誰なのかまだ分かっていないんだ。人のいない広大な空間の片隅で発せられると、彼のその言葉は、アパートのどこかから聞こえてくる泣き声のように寂しく響いた。その人の死を悲しむ人はどこにもいないのかな。アデルはヨハンを見つめ、きっといると思う、と言った。もしもその人が孤独を生きていたのなら、彼のすぐ近くにその死を悼む存在はいないかもしれない。でも人の死は本来的に、周囲に避けがたい影響を与えるものなのよ。ある人の死が誰に対しても影響を持たなかったとしたら、それはその人がそもそも存在しなかったことにならないと筋が通らない。つまり、生を受けた最初の瞬間から、人は皆影響し合う関係に置かれるということよ。ヨハンは、彼女が慎重に言葉を選ぶのを、頷きもせずただ黙って聞いていた。

大教室の中は時間が止まっていた。一方で窓の外では、樹々のたくわえた葉が陽射しを受けてきらめいていて、アデルは何か大事なものを外に忘れてきているような気がしてならなかった。君が駅でぼくに話しかけてくれたときのこと、まだ覚えてる? 宙空の一点を見つめたまま、ヨハンが小さな声で言った。覚えてる、とアデルが頷く。今まで、あのときはただ体調が悪かっただけって言ってきたけど、本当は少し違うんだ。アデルは彼が続けるのを待った。ヨハンの中ですごく柔らかいものが震えているのを、彼女は直接手でふれているかのように感じた。あのとき、と彼が再び口を開くまで、無限のような時間がふたりの間を流れた。

あのとき、ぼくは死のうと思ってた。

明言できるようなきっかけみたいなものはなかった。もともと感じやすい気質なのもあって、他の人が気にも留めないようなことがぼくにとっては痛みだった。たとえば思いやりの見かけをした、プラスチックみたいな無関心とか。大学に入ってから間もない頃は、そういう実体を伴わない愛ではない、重みのある純粋な愛を感じられる人と出会いたくて、できる限りいろいろなところに顔を出した。でもすぐに分かったことがあった。それは、ぼくにとって何よりも重要なものは、ほとんどの人にとって考えるのも馬鹿らしいもの、或いはすでに答えが出ているものだということ。彼らにとって愛は、考えたことがなくても手に入るもので、すでに持っているものだった。でも、これまで関わった人のほとんどは、ぼくからすれば誰のことも愛していなかった。

それどころか、彼らの多くはまともに話してもいないのに、ぼくとの間に距離を取ろうとした。要するに彼らは、ぼくの仕草や見た目と、彼らが内在化した偏重的な視点を擦り合わせるだけで、ぼくという人間を判断できると思ってたってことだ。それを認識していたかどうかはともかくね。それにも耐えて、どうにか馴染もうとがんばってみたこともある。でもそうすると、今度は『本当の男』になることを求められる。まるで、ぼくが男になれているかどうか評価する権限を彼らが持っているみたいに。そこでいわゆる『男』になれなかったぼくは、男と女の間の深い溝、ほとんどの人がその存在すら知らない溝に落ちた。そこはあまりにも暗くて、自分の姿すらまともに見えないほどだった。朝も夜もない溝の底で、ぼくはただひとり、周囲を覆う分厚い闇に光が射すのを待ち続けた。

そのうち、胸の奥がどろどろに焼けただれているような感覚を覚えるようになった。火であぶった焼印をぐっと押しつけられるみたいに、それはふとした瞬間にひどく痛んだ。はじめはよく分からなかったけど、それはある種の寂しさだった。外に出たり勉強したりするのに必要なものを、何もかも焼き尽くしてしまう寂しさだ。それまで難なくできていたことが少しずつ苦しくなっていって、去年の十月が終わる頃には、駅のホームにある椅子にリュックを抱えて座って、何もせずに時間をやり過ごすことが多くなった。辛うじてできたのはチョコレートを食べることくらいで、思考は言葉になる前にホワイトノイズになり、枯れた花びらみたいに散った。やらなければならないことだけが、ひたすら頭の中をぐるぐると回っていた。

ホームに座っていて気づいたのは、時間の流れが目に見えることだった。時間は電光掲示板に表示される通りやってきて、中身を入れ替えるとそそくさと去っていく。色も形も行き先も同じそれを眺めているうちに、こうして少しずつ置いていかれるんだな、とぼくは思った。あの日考えていたことも、たぶんそんなことだったと思う。太って後悔するだけだと分かっているのに、どうしてもやめることのできないチョコレートを一袋分食べ切って、自己嫌悪に吐き気を覚えながら上を見上げると、西陽がホームの天井の合間から射していて、宙空で微動だにしない電線や汚れた点字ブロックを、どこまでも透き通った硝子色に染めていた。駅近くの真っ白なアパートのベランダには洗濯物が干されていて、曇りのない青を背景に、永遠のようにゆらゆらと風に揺れていた。

もう消えていなくなりたい、とそのとき思った。というより、身体が消えていなくなっていくように感じたんだ。例えば入浴剤が泡を立ててお湯に溶けていくみたいに、胸の奥から溶けていっているような感じだった。ぼくは身体の中心にぐっと力を込めて、収まるまでどうにかやり過ごそうとしたけれど、その痛みは一向に引いてくれなかった。苦しくてたまらなかった。目の前には線路があって、あと一分もすれば電車がやってくるところだった。ぼくはそこに飛び込むことを考えた。この身体から逃れるためには、死ぬしかないと思ったから。頭上でアナウンスが流れて、電車のヘッドライトが線路を伝ってこちらに近づいてくるのを見たとき

ぼくの頭の中は完全な無音だった。

或いは、あまりにもたくさんの音が鳴っていたせいで何も聞こえなくなっていたのかもしれない。前に抱えたリュックを抱く手は震えていて、腿の裏には大量に冷や汗をかいていた。そして皮肉なことに、ぼくの心臓は、それまでのどんな瞬間よりも強く速く波打っていた。先頭車両がホームに差し掛かるのを確かめて、ますます痛む寂しさを胸からひき千切ろうとするみたいに、ぼくは両足に思い切り力を込めた。

そのとき君がぼくの肩を叩いた。たぶんぼくの様子がおかしかったからだと思うけど、君はすごく戸惑った目をしてた。そして、ねえ、大丈夫、と君が言ったとき、電車がぼくらの目の前を通り過ぎて、髪が君の顔の上になびくのを見た。身体中から力が抜けて地面に倒れたぼくに、君は声をかけ、背中をさすってくれた。そしてそれまで顔を合わせたこともなかったぼくのことを、大学の救護室まで連れて行ってくれた。ぼくはすごく動揺していたけれど、同時に少しだけほっとしてもいた。それは何年か振りに感じた、手のひらに乗るほどの小さな感覚だった。大袈裟でも何でもなく

君がいてくれたおかげで、ぼくはあの日、生きて家に帰ることができたんだよ。

でもそれは、苦しみの終わりを示すものではなかった。あの後君と連絡を取るようになって、やっとまともな人間関係に身を置くことにもなったけれど、心臓の大きさまで圧縮した太陽みたいな寂しさは、それまでと変わらずそよ風みたいにやってきては、ぼくの内側をどろどろになるまで灼いた。泣けばいくらか楽になれるだろうかと思っても、涙は一滴も出てこなかった。君なら分かってくれるかもしれないと、どうにかそれを言葉にして伝えてみようともしたんだ。でも、自分でも理解できていないことを無理やり説明したところで、誤解を招いたり、君を傷つけたりするだけなんじゃないかと思った。だから言えなかった。

そこでぼくは、君が今言ったことに、打ちのめされてしまった。ぼくらは存在の最初の瞬間から影響し合う関係に置かれている。君が現れたことで、ぼくはそれを強く感じるようになった。そして次第に、はじめからどこにも逃げ道がなかったことに気づいた。ぼくが死ねば、君やぼくの家族、かつての担任の先生に何らかの影響を与えてしまう。ぼくは、ぼくという人間がはじめから存在していなかったみたいに消え去ることを望んでいた。そうなれば叶ったかもしれない可能性はそもそもなかったことになるし、結局誰にも理解してもらえなかったと後悔することもなくなるから。でもそれは君が言うように、絶対に叶わない望みだった。ぼくにとって誰かに影響を与えてしまうという事実は、この世界とつながっているという希望をもたらす光ではなく、ぼくをこの果てのない孤独に縛りつける冷たい鎖なんだ。

ぐったりと壁によりかかるヨハンに、アデルは言葉をかけることができなかった。代わりに彼女は、ヨハンの痩けた横顔を見つめながら、いつか誰かの口から聞いた台詞を思い出していた。

人が涙を流すのは、言葉にするとどうしてもこぼれ落ちてしまうものを、相手の手のひらに受け止めてもらうためだ。

どのような流れでその台詞が出てきたのかはもう思い出せなかったが、そばにいた誰かがそう言ったことは確かに覚えていた。そして、そのこぼれ落ちてしまうものを言葉に込めようとしたヨハンに、自分が返せる言葉はもう何も残っていないような気がした。歩みを止めた時間が一層重みを増して、ふたりの肩にずっしりとのしかかる。虚空に力ない視線を漂わせながら、ヨハンは身体の中心が少しずつ萎んで冷たくなるのを感じていた。うっすらと焦りを覚えはしたものの、寂しさが引いていっているのだと思うと、そこには悲しみも後悔もなく、ただただ静謐な無が残るのみだった。そして、もうどうしたらいいのか分からないんだ、とふいに自分の口からこぼれた言葉に、彼は僅かばかりの安堵と、それでも消えてなくなりはしないやり切れなさの残滓を見た。

床に両手をつき、ゆっくりと身体を起こしたアデルを、ヨハンは首を動かさないまま目で追った。症状の進みは早く、少し体勢をずらすのも億劫なほど、彼の身体には力が入らなくなっていた。顔を上げたアデルを見たとき、ヨハンは自分の心臓がどくん、と強く胸壁を打つのを聞いた。彼女の顔には細かい皺が寄っており、ジャケットに包まれた身体はひと回り小さくなったようだった。アデルは膝立ちになって、崩れ落ちそうになる身体をどうにか保ちながら、同じように存在の軽さに抗うヨハンを見つめた。薄く潤んだ彼の目が、窓の外で日を浴びて輝く濃緑のように、外からの遠い明かりを受けてきらめいている。そのとき彼女は、彼女自身も沈黙のうちに耐え抜いてきた寂しさが、ヨハンの中でも熱く燃えていたことを知った。無意識のうちにふたりが伸ばした腕は、互いを支え合うように上着の袖をずるずると滑ると、それぞれの背中にひしと回された。ふたりが確かめたお互いの身体は、それまでのどんなときよりも細く頼りなかったが、そのとき以上にお互いの存在をそばに感じたこともなかった。自分の中に落ちていくような感覚の中で、アデルは涙が頰を伝うのを感じた。すっかり枯れてしまったものと思っていた涙に温度はなく、確かだったのは、冷たくなりつつあるヨハンの頰だけだった。

その日、国では全土に渡って夥しい数の死者が出た。屋内に閉じこもっても、何も食べないようにしても、誰とも話さないようにしても、死ぬものは死に、生き残るものは生き残った。それは警察が「未知の疫病」と呼んだ現象に対して、どのような対処をとったかに関係しなかっただけでなく、階級や人種、セクシュアリティ、障害の有無、エスニシティ、年齢など、人々が引いたあらゆる境界をも越えたものだった。むしろ彼らの生死に深く関わっていたのは、そういった複雑な権力関係に埋れて尊重されることを忘れられた、個人的かつ根元的なものだった。

しかし、結局生き残った人々がそこに目を向けることはなかった。彼らは相変わらず、あらゆる場面に引かれた境界を自然が生み出したものと勘違いし、無用に他者を傷つけ、ずるずると分断を拡大した。そんな中多くの子どもたちは、自らの存在が政治的思惑と絡みついていることを知らないまま育てられ、その過程で懐疑的な態度の形成を抑制された結果、差別的体制の保持と強化を「正しいこと」だと信じるようになった。特権を得た人々は「誰にとっても生きやすい社会」の構築を目指し、ほぼ望み通りのものをつくり上げることに成功したが、それが生きやすい社会ではなく、生きづらさに気づくことのできない社会であると指摘する人々は、もうほとんど残っていなかった。

ヨハンとアデルが寄り添い合って眠りについた頃、外れた顎をもとに戻してもらった青果店の店主は、医師や看護師の制止を振り切って病院を飛び出した。タクシーを捕まえようと思ったものの車の往来は皆無に等しく、彼は焦りや恐れにひどく苛立ちながら、やむを得ず不恰好なレンタルサイクルに跨った。風を真正面に受けとめながら、店主は大通りを疾走し、数時間前に卒倒しかけた広場を抜け、自分の店の前に到着した。スプレーで落書きされたシャッターの前には、赤いトレンチコートを着た白髪の老婦人が、行き場を失ったシルバーカーの傍で倒れていた。人の気配すらない通りの一角で、彼は呆然と立ち尽くしたまま、ビルの合間にこだまする自分の声を何度も聞くよりほかなかった。

どうもありがとう、励みになります。